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ep. 58 降臨(1)

 不吉な気配が、谷の底から這い上がってくる。


 風のうめきに重なって地の底で蠢く異音が響き渡り、黒い靄がゆっくりと谷を埋め始めた。熔流ようりゅうのごとく熱を帯びて淀み、ぶつぶつと不気味な泡を立てながら、瘴気の沼となって広がっていく。


「村の下層が呑み込まれる!」

「避難誘導をするぞ、縁台ここは危険だ!」


 豺狼さいろうの声が、風の唸りの中で鋭く響いた。

 法軍人が優先すべきは、人命の保護。

 有事に際して取るべき行動は、己の身の安全を確保した上での迅速な救助活動だ。


「下層の避難誘導は任せて――蛍の名のもとに命ず!」

 隣で凜としたホタルの声が響く。

「我が身を依代よりしろと成せ」

 ホタルの人の輪郭が柔らかな光に溶け、瞬く間に気高い白鹿の姿へと変わった。優美な四肢で縁台の手すりを軽々と飛び越えると、眼下の岩場に取り残され立ち往生している村人の元へと躊躇ちゅうちょなく降下していく。


「こちらにいらっしゃいましたか!」

 切羽詰まった声とともに、サイカが息を切らして縁台へ駆け込んできた。その後から黒鉄くろがねも続く。


「避難道へ!」

「シユウさまっ!」


 サイカの背後からミツキが転がり込むようにして飛び出し、せいの腰に強く抱きついた。


 瞬間、眼下の黒い沼が爆ぜた。

 凄まじい轟音とともに、瘴気の塊が巨大な柱となって天をく。


「っ!?」

 青は咄嗟にミツキの頭を強く抱き寄せた。


「氷壁!」

 一歩前に踏み出した豺狼の声。

 冷気がはしり、分厚い氷の壁が一瞬にして現出する。

 直後、瘴気の飛沫が黒い雨となって氷壁を叩き、ジュッと肉の焼けるような音と白い水蒸気を激しく噴き上げた。


「離れるぞ!」

 豺狼の怒声が響く。

 が、青はその場から動けなかった。


「――ミツキ?」

 腕の中の感触が、おかしい。


 両腕に収まっていたはずの小さな体が膨張し、硬い毛並みが肌を刺す。人の形が崩れ、歪み、しなやかな四肢を持つ黒い獣へと変わっていった。


 一方、谷底からせり上がった瘴気の柱は、まるで意思を持つかのように収束し、巨大な人型を成していく。


 泥と闇を練り上げたような巨体は、谷を覆い尽くさんばかりに膨張を続け、やがて山脈が人の姿で立ち上がったかのような妖魔と化した。


 その顔には目も鼻もなく、代わりにぽっかりと開いた三つの空洞が、底なしの絶望をたたえて不気味な光を放っている。


 それに対抗するかのように、青の腕の中にあった黒狼の体もまた、きしむような音を立てて膨れ上がっていった。


「ミツキ、ダメだ! また倒れてしまう!」

 青はもはや抱きしめることもできなくなった巨大な獣の、硬い毛皮に必死にしがみつく。


 黒狼の眼は、谷底から身を起こそうとする異妖にだけ向けられていた。喉の奥から絞り出すような唸りが響き、剥き出しにされた牙の隙間から、荒い獣の呼吸と涎が滴り落ちる。


 ごきり、と骨が軋むよりもさらに不快な音が、黒狼の頭から響いた。


「角が……!」

 額の中心、その一点から肉を裂き、毛皮を押し上げ、めりめりと有機的な破裂音を立てながら黒光りする鋭い突起が伸びていく。


「ウ”ウ”ゥ”……ッ!」

 苦しげだった吐息が、次第に低く強い威嚇いかくの唸りへと変わっていった。


 谷では、瘴気の巨人が動き出す。

 ぬらりとした太く長い両腕を崖の縁にかけると、谷を揺るがし崩しながらその巨体を引き上げようとする。体表を伝う瘴気の泥水が飛沫となって降り注ぎ、村の屋根や地面をじゅうと音を立てて溶かした。


 その隙間を潜り、白鹿が人々を背に乗せて飛翔する。


「っぐ……!」

 突如、青の左の二の腕に激痛が走った。

 思わず呻き、うずくまりかける。


 青の全身の輪郭から、ゆらりと黒いもやが揺らめき立った。風に激しく煽られる外套がいとうが靄を巻き上げ、腕の中で獣と化したミツキの身体へと流れ込む。


 黒い毛皮がその靄を余さず吸い上げ、闇の色をさらに深めた。いっそうミツキの体は膨張を続け、青の腕にかかる重みと圧力が倍加し、もはや抱えきれなくなっていく。


「ガウッ!」

 鋭い一吠えが耳元で上がる。

 力の緩んだ青の両腕をすり抜けて、黒狼は縁台の手すりを軽々と飛び越えた。


「ミツキ!」

 叫ぶ青の体が傾ぐ。それを、豺狼の腕が支えた。

「下がるんだ!」

 風術を込めた扇の一振りで降り注ぐ黒い溶流を払いながら、豺狼は膝をつきかけた青を立たせる。


 空中で身をひるがえした黒狼は、一直線に妖魔の頭上を目掛けて飛翔した。放たれた咆哮の衝撃波に押し戻されるように、巨人の動きが瞬時、止まる。


 崖上に着地した黒狼が、しなやかで巨大な尾を一閃させ、巻き起こった暴風は意思を持つ嵐となり、辺りに満ちていた淀んだ瘴気を瞬く間に吹き飛ばした。


「くっ」

 青は左腕のうずきを思考の隅に押しやる。行動を起こそうと足を踏み出しかけた瞬間――谷を揺るがす咆哮が、再び轟いた。


 崖上から陽光を背負った黒狼が、次なる一撃のために低く身構える。瘴気の巨人が泥の腕を天高く振り上げた。黒狼――ミツキは疾風の如く岩場を蹴り垂直な崖に沿って駆けると、振り下ろされる腕を紙一重でかわし、さらに高く跳躍した。


 夜の闇のごとく黒色の角が茜色の陽光に反射する。黒い稲妻と化した狼は、巨人の顔に穿うがたれた虚ろな空洞の一つへ、その身を投じた、かに見えた瞬間、視界を焼き切るほどの閃光が爆ぜた。


 白い熱波が縁台を叩く。

 誰もが袖や手で顔を庇い、たまらず体ごと背けた。

 網膜を刺す光の中で、青は額当ての影から懸命にその中心を見据えようと試みる。


 断末魔の叫びは音にならず、瘴気で編まれた巨体は内側から弾けるように崩壊を始め、その存在を許されぬとばかりに根源から解かれ、強大な理に塗り潰されていった。


「あれは、浄化……?!」

 形を保てなくなった泥と闇は、陽光に溶けるように霧散し、きらきらと輝く光の粒子となって風に浚われていく。


 やがて谷に満ちたのは、先程までの喧騒が嘘のような静寂と、清められた空気の匂いだけだった。


「瘴気が、消えた」

 眩しさに目を細めながら豺狼が縁台の手すりに駆け寄り、眼下を覗き込んだ。


 村を覆っていた巨人の影はおろか、谷底に淀んでいた瘴気の溶流までもが跡形もなく消え失せ、熟しはじめた西陽が谷の隅々までを清らかに照らしている。


「すげぇ……昨日とは比べもんにならねぇ霊力だ」

 手すりから覗く黒鉄の呆然とした声が、清廉を取り戻した谷底へと溢れる。


「ミツキ!」

 黒鉄に続き、青も手すりに身を乗り出した。


 視線を上げた対岸の崖の上に、その姿はあった。

 光を背に、角をたたえた巨大な黒狼の影が、王のように堂々と佇んでいる。青の声に応え、獣の影は深く一度身を沈めると、しなやかな四肢を解放して躊躇いなく谷の空へその身を躍らせた。


 何が起きたのか分からず呆然と見守る人々の目前で、巨大な影が滑空していく。露流河で再会した時は森の若狼ほどの大きさだった体が、今やその体高だけで青の身長を超そうかというほどに巨大化していた。


 着地の衝撃を感じさせぬまま、黒狼は青の待つ縁台へとしなやかに降り立つ。次の瞬間、威圧感さえあった獣の輪郭が陽炎のように揺らぎ、中から寝間着姿の小さな子供が姿を現した。


「シユウさまっ」

「っう」


 ミツキは再び、青の腹に激突して力一杯抱きつく。

 気のせいだろうか、抱きつかれるたびに力が強くなっている気がした。


「ぶ、無事でよかった……ミツキ、体は大丈夫か」

 青はその場にゆっくりとしゃがみ込み、ミツキと視線の高さを合わせる。


 間近で見るその顔色は血色が良く呼吸も穏やかで、額に角の痕跡も見られなかった。戦いの高揚か、頬だけが果実のように初々しく紅潮している。


「お前、なんともないのか!? 昨日は伸びちまったってのに」

 駆け寄ってきた黒鉄の声にミツキは「あれ?」と不思議そうに瞬きをした。


「大丈夫だよ、シユウさまが、ぎゅっとしてくれたからかな」

 子犬がそうするように、ミツキは青のこめかみに自分の頬をすり寄せた。


「でも、ちょっとだけ疲れちゃった……」

 ミツキの体から力が抜け、青の腕にずしりと重みがのしかかる。

 柔らかな頭髪が、青の顎と口元をくすぐった。


 天花粉の香り越しに、青は己の左腕を見やる――いつの間にか、疼痛は綺麗に消失していた。


「まずは、村の被害状況を確認しましょう」

 青の頭上で、冷静な豺狼の声が響いた。事の次第を見守っていたサイカ、黒鉄らが頷き合っている気配がする。豺狼の動きで、場の空気が引き締まった。


「谷底に近い側の縁台や雨戸が一部、焼きただれて壊れていたわ。火事の心配はなさそうよ」

 下層から村人を避難させたホタルが上層の縁台へ舞い戻り、白鹿の姿を解いた。


「ミツキ、中に入って休もう」

 青は小さな肩をそっと掴んで体を離させると、改めて目の前の幼い顔を覗き込んだ。


 ミツキはにっと笑って口を開く。

「ううん、僕はだいじょう――」

 言葉が不意に途切れ、ミツキが顔を上げた。

 つぶらな瞳が谷の向こうの空、一点を見据えている。


 ほぼ同時に、豺狼も険しい顔つきで同じ方角へ視線を投げた。


「どうした?」

「何か……近づいてくる」

 ミツキの小さく白い手が、さらに青の衣服の裾を強く握りしめた。

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