ep. 54 狼の背骨(2)
束の間の休憩を終えると、凪の転送術師たちはさっそく仕事に取り掛かった。
王自らが、転送陣を敷く候補地として挙げた数箇所を、一つずつ巡り始める。
最初に案内されたのは、巨大な水晶が天井からも壁からも林立する洞窟だった。
水晶が天窓から射し込む光を乱反射させ、洞内は虹色の光で満たされていた。
「大変美しい場所ではありますが……地脈が乱反射しやすい環境で、安定性に欠けるやもしれません」
術師は水晶の根元に静かに手をかざし、眉をひそめている。
次に訪れたのは、広大な地底湖のほとりだった。
静寂に包まれた水面は鏡のように滑らかで、天井で明滅する光る苔を映し、まるで夜空を逆さにしたかのようだ。神秘的な光景だが、常に湿った空気が肌を撫で、陣を維持するには障りがあった。
三箇所目は、古代の遺跡と思われる石造りの広間だった。
誰が何のために築いたのか、今となっては知る者もいないその場所は、荘厳な静けさに満ちている。
術師たちは中央の祭壇らしき石の台座を入念に調べ、安定はしているが、どこか異質な気の流れを感じ取っているようだった。
「……これ、は……?」
古代遺跡の広間に、転送術師のかすかに強張った声が響いた。それに気づいた王が、静かに問いかける。
「どうされた」
「いえ……何か、地脈の流れが妙に波立っているような気配がするのです」
術師の言葉に、王の傍らに立つ狩莅は、鋭く眉をひそめた。身をかがめ、遺跡の割れた石床にそっと手を添え、意識を集中させる。
同時に、白狼王の深い碧の瞳が、見えざる風を読むかのように宙をさまよった。
場にいた誰もが自然と口を噤み、息を殺す。
「龍脈が近いから、かな……」
青もまた、少し離れた場所で身じろぎもせず佇んでいた。
衣擦れの音ひとつ立てることさえ憚られるような、密度の高い空気が肌を圧していた。
「地震……?」
誰の呟きか。
それが合図であったかのように、足裏から突き上げる不自然な震えに、その場にいた全員が顔を見合わせた。
ゴウ、と空気が鳴る。
二度、三度と断続的に続く震動に、天井の岩盤から砂塵が滝のように降り注いだ。
遥か頭上、地表に近い通路からは、人々の叫び声と何かが崩れる轟音が響き渡ってくる。
「行くぞ!」
豺狼の鋭い声が飛ぶ。
王はすでに地を蹴り、狩莅、狛もそれに続く。
凪隊も即座に反応し、一行は来た道を引き返すように、地上へと続く洞窟を駆け上がった。
凄まじい風が西から東へ、地表を薙ぐように通り過ぎる。
乾いた岩と砂が意思を持ったかのように巻き上がり、巨大な竜巻となって天を突いているのが、洞窟の切れ間から垣間見えた。
「地下を何かが……走っている……?」
青はその場に立ち止まった。
足裏から脳天までを貫く、不自然な振動による痺れ。
脳裏に浮かんだのは――龍脈。
大地を巡る巨大な気の流れが、今、明らかに異常な脈動を起こしているように思えた。
「何か来るぞ!」
白狼の兵が西を指して叫んだ。
見れば、地平の彼方に漆黒の壁が立っている。
それは砂嵐か、あるいは砂でできた高波か。
おびただしい量の砂の衝撃波が、意思を持った生き物のように地表を滑り、凄まじい速度でこちらへ迫り来る。
「地上にいる民を地下へ誘導する!」
「防陣を張れ!」
白狼の術師が高らかに吠えた。
前線に立つ数名の術師たちの眼前に、光を放つ透明な障壁が幾重にも張り巡らされる。直後、黒い砂嵐の津波が障壁に激突し、世界が砕けるような轟音を立ててその猛威を弾き返した。
「っひ!」
障壁からわずかに外れた位置にいた凪の転送術師たちへ、砂嵐から分離した黒い竜巻が牙を剥く――瞬間、ホタルが白い外套を翻して一行の前に躍り出る。
「蛍の名のもとに命ず!」
凛とした声が響き、手から放たれたまばゆい光が巨大な翼を持つ巨鳥の姿を成した。
召喚された式神は甲高い鳴き声を上げると、巨翼を盾のように広げて術師たちを風圧と砂礫から守り抜く。
「天扇!」
豺狼や猪牙ら、凪の士官たちの声が飛ぶ。
風や地の術を瞬時に繰り出しながら、地表付近で立ち往生していた白狼の民を庇い、次々と安全な地下通路へと避難させていった。
「まだ何かが……!」
青は逃げ遅れた子どもや老人たちを地下通路へと誘導し、再び地表付近の岩場へ飛び移った。
黒い砂の高波が過ぎ去った大地は、地獄そのものだった。
まるで蓋の開いた冥府から溢れ出したかのように、濃密な瘴気が大気に触れて次々と実体を得ていく。人の怨念を練り上げて作ったかのような黒い霧は、瞬く間に異形の妖魔と化し、逃げ惑う白狼の民へと襲いかかった。
白狼の兵に続き、猪牙、豺狼、そして青とホタルも民を守るべく地表へと駆け上がる。
「な、何だあれは!」
「すごい数だ……っ」
眼前に広がる無数の妖魔に、誰もが戦慄した。
その時だった。
――オオオオオオオオオオオッ!
背後から地を割り、天を揺るがすかのような、凄まじい咆哮が轟いた。
「父上!」
狛の声。
凪の一行も、白狼の民も、誰もが弾かれたように一斉に振り向いた。
そこに立っていたのは、小山のごとく巨大な一頭の白狼。
狛が獣の姿に転じた時とは比べものにならない、圧倒的な体躯を持つ――まさに神が、天へ向かって猛々しく吠えていた。
その毛並みは月光を束ねて編んだかのように白く輝き、瘴気を寄せ付けない清らかな気を放っている。
「白狼王様!」
兵や民の間から、歓喜と畏敬の声が上がる。
神獣は、その深い碧の瞳で遥か西から迫る脅威の根源を鋭く見据えると、凄まじい速度で大地を蹴った。白い閃光となって妖魔の群れを駆け抜け、瘴気が生み出す黒い波の前に、敢然と立ちはだかる。
その神々しい姿に誰もが見とれていた時。青たちの脇を、凄まじい勢いでもう一つの白い影が駆け抜けていった。
後継者、狩莅だった。
次の瞬間、走る狩莅の身体がまばゆい光に包まれる。
人のしなやかな四肢は獣のそれへと変わり、骨格が軋む音と共にその姿は見る間に巨大な白狼へと転じていく。
父王に劣らぬ威厳と、若さゆえの荒々しい力を漲らせた、もう一頭の神獣と成る。狩莅は黒い靄が生み出した妖魔を次々と噛みちぎり、引きちぎり、尾で薙ぎ倒していった。
白狼の地平を埋め尽くす、一際巨大な黒い高波。
「あれは一体……」
世界の終焉を思わせる光景に、青は好奇心に駆られて我を忘れて呟く。
「あのとき感じた地脈の乱れは、これだったのか……!」
隣で転送術師が絶叫した。
もはや互いの声も聞き取れないほどの轟音が、世界そのものを揺るがしている。
「地脈で何が!」
「この下には龍脈が通っているはずです! 西から何か凄まじい力が流れ込んできて、それが地上へ滲み出てしまっている!」
術師の叫びに、青のこめかみについ先日の記憶が通り過ぎる。
遥か西から龍脈を通じて流れ込んできたその「何か」の影響が、凪之国のあの森の異変までも引き起こしていたのだろうか。
空は巻き上がる砂塵に覆われて光を失い、大地は断末魔の悲鳴のように呻き続ける。黒い高波はもはや目前に迫り、その中では無数の妖魔が蠢き、叫び声を上げているのが見えた。
その絶望的な脅威を前に、白狼王が動いた。
――ウゥゥウウゥウウ……
神獣は大地に爪を食い込ませるようにして低く身構え、深く、長く、息を吸い込む。
その白い巨体に、周囲の清浄な気が渦を巻いて集束していくのが分かった。
喉の奥で低く唸る声は、やがて星々を砕くほどの力となって解き放たれる。
天を衝き、地を穿つ、浄化の咆哮。
「――っ!?」
青の視界が、世界が、白一色に染まった。
凄まじい光の奔流が黒い高波を飲み込み、すべてを無に返す。あれほど荒れ狂っていた轟音と振動が、嘘のようにぴたりと止んだ。
「え……?」
やがて、目をくらませるほどの光がゆっくりと引いていく。
黒の瘴気に汚された大地は、本来の白い輝きを取り戻していた。
空を覆っていた砂塵は跡形もなく消え去り、まるで嵐の後のように、静かで澄んだ空が広がっている。
その清浄な景色の先に。
力尽き、倒れる王の姿があった。




