第五部 序(2)
昼下がりの光が降り注ぐ窓に面した机に、夕瑞は華地と向かい合わせに座った。
机に積まれた書物を前に、華地は静かに自身のことを語り始めた。
遥か西方の国から、凪の都まで逃れてきたこと。
この地で衣食住を得るために訓練所に入り、神通術や法軍流の武術を学んでいること。
まだここに根を下ろして一年にも満たないというが、こうして蟲之区への自由な出入りが許されているのは、彼が持つ才能がよほどに類稀であることの証左にほかならない。
無論、それだけではないであろうことは、夕瑞には想像に容易だった。
夕瑞の兄である玄瑞――凪之国の新たな長――は、西方の外つ国々との友好を推し進めるという、新しい国是を掲げている。
西方出身である華地に、その試金石としての期待がかけられている側面もあるはずだ。
様々な思惑の中にいるであろう彼のことを考え、夕瑞がふと口を開いた。
「大変だったな。その年で――」
「年上だよ」
「え?」
「君は見たところ十五か十六か……? だったら、ぼくの方がお兄さんだ」
「な、年上……っ?」
書庫の片隅に、己の上げた素っ頓狂な声が響く。
夕瑞は思わず、手で自らの口を塞いだ。
体の細さ、顔のつくり、どれをとっても華地の外貌は少年のそれだ。
だが彼の落ち着いた口調や、思うより低い声、そして知性が漂うその物腰を鑑みれば、不思議と納得できる部分もあった。
「見えないよね。ただの体質だから、そういうものだと思って。あ、そのうち君の背を追い越す可能性は十分にあるんだから、ぼくを子ども扱いしないように」
驚かれ慣れているのだろう、華地は悪びれるでもなく飄々《ひょうひょう》と告げる。
「え、あ、ああ……」
少年が持つ不思議な雰囲気に飲み込まれるように、唖然とした夕瑞は、塞いでいた手をゆっくりと下ろした。
「早速、いろいろと訊いてもいい?」
夕瑞が選んだ数冊の書物を前に、華地がふと首を傾げた。
「創世の神話に関する本は、ある?」
「創世?」
「神通祖国が興るよりもっと昔の、この世界の成り立ちの物語とか」
「ああ……だいたいは神通祖国神話の冒頭に書いてあるぐらい、だな」
夕瑞はそう言うと、神通祖国の神話と凪之国の成り立ちを記した専門書を手に取り、序章となる箇所を開いて華地の前に置いた。
「世界は暗い冥海から始まって、ある時、陰と陽が生まれた」
華地は書物を受け取ると、夕瑞が開いた頁にその二色の瞳を落とす。
「陰と陽は相殺しあい新陳代謝を続けた。その働きが冥海の中に陸を作り出した……これが『創世紀』」
手元の頁と、半面の下にあるだろう夕瑞の面持ちの間で視線を行き来させながら、華地は静かに彼の語る神話に耳を傾けている。
「次に『理紀』がくる。新陳代謝を続ける陰陽から、やがて様々な理が生まれた。理のそれぞれも陰陽があり、やはり相殺と新陳代謝を繰り返す。それによって陸に、様々な自然環境が生み出された」
華地は小さく頷きながら、書物のざらついた紙面に白く細い指を這わせている。
「そして次に、『万紀』。理からよろずの魂が生まれ、これもまた陰陽が存在して、相殺と新陳代謝を繰り返すことで、それぞれの魂が陸に様々な生命を生み出した」
そこで夕瑞が言葉を切ると、華地はすっと顔を上げ、視線だけで「次は?」と彼を促した。
「次……は、この本の通りだ」
夕瑞は、華地が開いている頁を指し示す。
万紀の頁の次は、神通祖国を興した七柱の神と七人の賢人の物語へと、つながっている。
華地は夕瑞が示す紙面をじっと見つめ、しばらくその不思議な双眸で文字の連なりを追った。
考え込む華地を、夕瑞は静かに待った。
「――だいぶ、飛んだな……」
子どものような小さな唇から、ぼそりと暗い呟きが溢れる。
やがて、納得したように深く頷くと、ゆっくりと顔を上げた。
「よく、わかった。説明ありがとう」
その面持ちはやはり、幼い少年の造りをした貌にはおよそ似つかわしくない、多くを悟ったような静謐な表情だった。
*
蟲之区での出会いから、夕瑞と華地の交流は日常の一コマとなった。
最初は一種の取り決めのようなものだった。夕瑞が華地にこの東方の理を教え、その代わりに、華地は西方の地について語る。
華地が語る西方は、夕瑞にとって驚きの連続だった。
華地が生まれ育ったという、西の最西端にして最大かつ最古の国だという「獅子ノ國」に伝わる西方の神話や歴史から、日常のささやかな習慣や文化の違いまで、そのすべてが夕瑞の知的な好奇心を強く刺激した。
その日も、夕瑞は華地と蟲之区の一角で、机にたくさんの書物や図鑑を広げていた。
二人の姿――というよりも、凪では特異な風貌の華地の存在は、区内を行き来する他の技能師や訓練生たちの関心を誘い、時おり遠巻きの視線が注がれる。
「妖って、どうやって生まれるものだって習った?」
図鑑に描かれた異形の獣を指でなぞりながら、華地が尋ねた。
「獣や蟲が瘴気や地脈の異常で変異したものもあれば、瘴気や地脈の異常そのものが形を成したもの、と……。あとは、妖魔の中でも特に格の高い種から生み出される、とかだな」
夕瑞が知る限りの説を述べると、華地はふむ、と小さく息を漏らした。
「そのあたりは……だいたい同じなんだな……」
時おり、彼はこうして夕瑞の話を受け、手元の書物や書き付けに独り言を落とす。
まるで西方と東方の違いを、一つひとつ記憶に焼き付けているかのようだった。
「地脈って、どこから流れてくるのか、知ってる?」
「どこから……長短はあるにしろ、地脈は循環しているものじゃないのか?」
それが、夕瑞の知る常識だった。
「循環しているものもあるね。でも大きいもの――龍脈と呼ばれているけど、その規模になると、西から東にかけてを貫くものもあるんだ」
「西から東まで……?!」
思わず語尾が裏返る。
夕瑞は机上に広げた資料の中から、手書きの地図を手元に引き寄せた。華地から聞き取った情報をもとに描いた、簡易的な万邦図だ。
「そう。特に太く、長い龍脈は三本あって――まず、北へ」
華地の華奢な指が地図に置かれ、最西端から北を大きく迂回して東へと至る、緩やかな曲線を描いた。
「ここいらは昔、龍脈を流れていた冷たい気の影響もあって凍土だったけれど、今は森と湖の地だ」
「気候変動を起こすほどの影響力があるのか……」
「次は、南へ。ここは焔の地だ」
続いて華地の指が再び西の端へ戻り、南に迂回して東へ伸びる線を描く。
「最後に、まっすぐ、背骨のような線」
最後に指は最西端から最東端へ、地図の中央に一本の線を引いた。
その軌跡は、今いるこの凪之国の上を通過して、最東端まで伸びていた。
「凪を通っているのか?」
「理論上はね」
華地は、法軍が測量した軍用地図を広げる。
西方はほとんどが白紙だが、東方地域の正確さにおいては、これが最も信頼できる資料だった。
その地図の上で、華地は真西から真東に向けて、再び指をまっすぐに動かした。
「西南の陣守村付近の森、か……」
夕瑞が呟くと、華地が顔を上げた。
「知ってる場所?」
「このあたりの森は、薬草や毒草が豊富なんだ。俺も何度か足を運んだことがある」
「見にいってみる? 案内してよ。薬草や毒草のことも知りたいな」
その誘いに、夕瑞は素直な疑問を口にした。
「見えるものなのか? 龍脈が」
夕瑞の実直な反応に、華地は小さく苦笑した。
白い肌に二色の瞳が細められると、その相貌はまるで、年若い藍鬼をからかう大人びた少女のようにも見える。
「見えるものではないけど、感じることはできるかもしれない」




