ep. 53.3 問題児監督係
いつからか、赤鷹は「問題児監督係」と同僚から揶揄われるようになっていた。
その赤鷹は今、炬之国・篝州の辺境、葦火郡のとある町を、ゆるりとした歩幅で進んでいた。
商都で起きた暴動を逃れてきた人々が、大通りを埋め尽くしている。
宿もなく、家々の軒先で空腹と疲労に顔を曇らせる者たち。
彼らに苛立ちの声を投げる店主もいれば、厄介事を恐れてただ目を伏せる住人もいる。
行き場のない人々の澱んだ息遣いと、互いを値踏みするような不信の視線が、町の空気を重くしていた。
この偵察は、友であり、凪の国長である玄瑞直々の命――篝州奪還に向けた、初期の一手であった。
赤鷹の脳裏に、数日前の光景が蘇る。
*
「炬之国の州侯たちから、嘆願書が届いていてね」
直命を受けた玄瑞の執務室。
寝台ほどもある広大な執務机の上には、いくつもの玉簡が広げられていた。
「ほう、随分と熱烈な」
「内容は、篝州奪還に向けての協力要請だ。国の正規軍は、もはや頼りにならぬ、と」
赤鷹がそれに目を通すまでもなく、玄瑞は続ける。
「送り主はいずれも、元・篝州侯――つまり、陽乃姫の父君を慕っていた者たちだ。皆、炬之国の未来を憂いた志士。西方との友好の道を望む、我々と志を同じくする者たちでもある」
翡翠と良好な国交関係を結んでいる凪の玄瑞の元を、彼らは何度も訪問していた。赤鷹も、そんな彼らの護衛任務に就いたことが、一度や二度ではなかった。
「それにしても」
赤鷹は、広げられた玉簡に視線を落とさぬまま、静かに口を開いた。
「なぜ今になって……もっと早く動いていれば、元・篝州侯も、あるいは命を落とさずに済んだやもしれぬものを」
その声には、わずかな、しかし拭い去れない悔恨の念が滲んでいた。
陽乃の父であった元州侯は、赤鷹も護衛任務で何度と接したことのある、旧知の仲であった。
理知的だが穏やかな、一目で名君であろうことが感じられた。確かに姫君には、めっぽう甘いと当時も感じていたが。
「露流河の復活だ」
玄瑞は、友の胸中を察したように、穏やかな声で応えた。
「先日、東西の境界を成すあの川で有事があってね。猪牙、峡谷の両上士、そしてシユウ一師から詳細な報告が上がっている」
玄瑞は執務机の引き出しから別の書類を取り出し、赤鷹へと示す。
そこに、翡翠ノ國で発生していた、露流河事変の詳細が記されていた。
さらに、露が力を取り戻したことにより、干上がっていた南側の水流が復活。境界を護る神威も以前とは比べ物にならぬほど増したとの現象も確認されているという。
「嘆願を寄越した州侯たちによれば、その境界線の復活以降、黒緋からの侵入者の流入が途絶えつつあるようなのだ」
玄瑞は、確信を帯びた声で続ける。
「彼らは黒緋の増援が望めぬ今こそ、篝州を取り戻す絶好の好機と捉えたのだろう」
「なるほど、だから今か……」
赤鷹は、深く息を吐いた。
報告を読み進めるほどに、翡翠の地で起きていた大それた有事に驚くと共に、そこに元弟子の豺狼とシユウの名が並んでいることに、感慨深さを覚えるのであった。
*
「……ん?」
ふと、思考の淵から意識を引き戻した赤鷹は、隣を歩いていたはずの気配がないことに気づく。
視線を後方へやれば、案の定、部下である青年が花売りの少女に足を止めさせていた。
「あいつはまた……」
仮面のような無表情を崩さぬまま、赤鷹は静かに踵を返した。
「お兄ちゃん、お花、買ってちょうだい」
春とはいえまだ風の冷たい中、薄い衣をまとった少女の腕には、野で摘んだばかりの花が抱えられている。
「お花が売れないと、ご飯が食べられないの……」
「そうだよな、ひもじいよな……、分かった、全部もら――」
見るからに心を痛めた顔で、青年は懐に手を差し入れた。
「榊」
その硬質な声と同時に、青年の手首を、背後から伸びてきた赤鷹の手が掴んだ。
「と、特士……」
振り向いた青年――榊トウジュは狼狽と、わずかな反発をその目に滲ませる。
「キリがない。視察を終え、然るべき部門へ支援を要請すれば良いのだ」
そう言ってトウジュを制しながら、赤鷹はもう一方の手に隠し持っていた携帯食を、そっと少女の籠へ滑り込ませた。
「誰にも見られぬよう、こっそり食べるのだぞ」
少女は痩せた頬を、花が咲くようにほころばせると、深く頷いて人混みへ消えていった。
「ここを離れる」
赤鷹はトウジュの腕を引いて、影に身を隠すように大通りから細い路地に入る。
「キリが無いだけではない。ここであの子に施しをすれば、あの子が他の者から妬まれ、奪われる。最悪、命さえもな」
その言葉は、数多の戦場を渡り歩いてきた者だけが知る、冷徹な真実の響きを持っていた。
「あ……」
トウジュは、返す言葉もなく俯いた。
幾人もの上官が、トウジュのその善意ゆえの暴走を持て余した。
彼を預かり、導くこと。それが現在の「問題児監督係」としての赤鷹の任である。
この町に入ってまだ半刻も経たぬ間に、トウジュは五度も物乞いに足を止めている。
とはいえ、処刑場から女一人を奪い去った男だ。これしきのことでは、赤鷹を驚かせるには至らなかった。
だが、そんなトウジュの問題行動にも、一概に否定できない側面もある。
赤鷹は、玄瑞が示した嘆願書の内容を思い出していた。
玄瑞いわく。
嘆願書の送り主たちによれば、陽乃の処刑寸前に煙玉を投じて場を混乱させたのは、元州侯・陽乃の父親の支援者たちであったらしい。
だが、不当故に裁きがあまりに早く、救出の手立てが間に合っていなかった。
そこへ都合よくトウジュが飛び込んだ――というのが顛末だ。
「支援者たちは陽乃姫に先んじて、二人の子――緋炎と灯里の保護に成功していたそうだ」
黒緋からの侵略者たちの台本では、陽乃を「呪いの蜥蜴女」として華々しく処刑し、次にその子らを使って内部分裂を悪化させる心づもりであったようである。
「なるほど。黒緋からすれば『蜥蜴女の遺児』を奪われては、やはり再び母親が必要となった、というわけだな。陽乃殿に仕掛けてあった呪具を辿り追っ手を差し向けたのはそういう訳か」
赤鷹の言葉に、玄瑞は「そういうことになるね」と頷いた。
「子供たちが無事であることが確認できた今、母である陽乃姫が救われたことの意味は、大きい」
確かに、陽乃はいまだ侍女の檀弓と共に、心を砕かれたまま黒緋の手に囚われている。
だが子らの生存という報せは、彼女が気力を取り戻すための何よりの光明となるはずだ。いずれ父君に連なる者たちが差し伸べる救いの手に、必ずや応えてくれるだろう。
あのトウジュの衝動が、結果として大局をこちらへ引き寄せる最善手となっていた。
*
「――またか」
そして再び、赤鷹はため息を吐く。
ふと気が付けば、目の前で反省顔をしていたはずのトウジュの姿が消えていた。
気配がする方へ顔を向けると、若い女を囲んでいたはずの男たちが、トウジュの足元に崩れ落ちる光景があった。
一瞬の出来事だった。
音もなく五人の悪漢を昏倒させた体術の手腕は見事なものだ。
「おかあちゃん……!」
物影に隠れていた子どもが女の足元に駆け寄り、恐る恐るトウジュを見上げる。
「もう大丈夫だぞ!」
「うん、ありがとう、戦士のお兄ちゃん!」
トウジュの人好きのする笑顔に少年は笑顔で応え、母子は何度もトウジュに礼を言って去って行った。
「あ、その、体が勝手に」
腕を組んで待つ赤鷹に気づき、トウジュは背中を丸めて「申し訳なさ」を表す。
有事の只中にある地で揉め事の一つ一つに対応していては、これもキリがないのだ。
「今のは仕方あるまい」
「っしゃ!」
トウジュは分かりやすく、破顔する。
「俺が言いたいのは、状況判断の問題だ」
赤鷹はトウジュの天性の善性にあてられたように、ふっと息を吐いた。
そのお人好しぶりには呆れもするが、彼のその資質が、他にも思いもよらぬ局面を打開した過去を思い出す。
ここに来る数日前。
凪之国の保安局で、ある尋問が行われた。
滴りの森の難民村に保護された陽乃を捕らえるために凪領内へ侵入し、シユウと紅鶴(赤鷹)によって捕縛された、蜥蜴の獣血人の男――それが、尋問の対象者であった。
難民村の騒ぎが収束した後、蜥蜴男は凪の保安局へ送られ、取り調べのために収監された。
だが、鹿花が仕掛けた罠の毒による火傷と、紅鶴の強烈な踵落としを背中に喰らった影響は甚大で、大怪我の回復を待つ必要があった。
ようやく各種取り調べが始まったのは、春の兆しが見え始めた頃だった。
しかし男は一切の発言を拒否し、完全な黙秘を貫いた。
玄瑞より炬之国事変一連の任務を任された赤鷹が、トウジュを伴って保安局を訪れたのは、そんな膠着状態の最中であった。
「――以上が、これまでの経緯です」
保安局の職員から引き継ぎを受けた赤鷹は、幻影壁の向こうの尋問室にいる容疑者に目をやった。
幻影壁は幻術が掛けられた特殊な壁で、尋問室側からは板壁にしか見えない。
尋問室が見渡せる狭い室内に置かれた卓の上には、男の持ち物が並んでいる。武器、薬、そして自爆用の火薬玉。
容疑者の男は「概ね」人間の姿をしているが、腰掛けている椅子から太い鱗の尾が垂れている他、衣服の袖から覗く腕にも、硬質そうな鱗が刺青模様のように光っている。顔の半分を包帯で覆った男はただ、虚空を見つめて俯いていた。
「なだめても、脅しても反応なし。自白を促す薬も、精神に干渉する術も、なぜか効果が見られませんでした」
「分かった。少し話をしてみよう。榊、君もだ」
「う、うす!」
赤鷹はトウジュを伴い、尋問室に入る。
鉄の扉が重い音を立てて閉まった。
赤鷹は男の正面に腰を下ろし、淡々と語りかけた。
このまま黙秘を続けることの不利益。
時には取引を持ちかけるように、凪への協力を条件に減刑を匂わせたりもした。
だが、男は石像のように動かない。
瞳には何の光も宿っておらず、まるで魂の抜け殻のようだった。
「……話す気はないか」
「……」
どうしたものか、と赤鷹は一旦、視線を幻影壁側へ逸らす。
拷問することは容易いが、容易に自爆を選ぶような覚悟のある相手には、無駄にも思えた。
「一旦外す。榊、様子を見ていなさい」
「うす!」
赤鷹は部屋を出て、幻影壁の向こう側にいる保安局員ほか、治療にあたった医師、自白術を試みた幻術師や呪術師の元へ向かう。
「身体の傷は癒えましたが、どうにも精神が……。まるで、何者かの強い意志に縛られているようなのです。我々は、暗示術の類を疑っております」
と、医師。
「術の気配があったので解術を試みました。成功したはずなのですが……依然として、あの状態です」
幻術師と呪術師は、お手上げといったように肩をすくめた。
そんな時、
「あら……?」
呪術師の紫の頭巾が、幻影壁の方を見やる。
その動きに釣られてその場の全員が尋問室を振り向いた。
そこに見えたのは、尋問室に残したトウジュが、あの石像のようだった獣血人の男と穏やかに言葉を交わしていたのだ。
男の表情は、憑き物が落ちたかのように和らいでいる。
「榊、何があった」
赤鷹が尋問室へ舞い戻る。
師の問いに、トウジュは少し困ったように笑った。
「えぇっと、ただ、腹減ってないかーとか、背中のケガ大丈夫かーって話を」
二人のやりとりを見ていた蜥蜴男が、ためらいがちに口を開いた。
「……何かを追っていた。その感覚だけが残っていて、次に意識が戻った時には治療院の寝台だった。頭の内側に靄がかかったようで……何も話さぬのが賢明かと思ったのだ……」
「――何だって?」
「記憶が無かった、ということかね」
後から入ってきた医師が、赤鷹の肩越しに男を覗き込む。
「自白を促す薬も術も効果を示さなかった。偽りを述べているとは考えにくいが……」
その見解に、呪術師が何かに思い至ったように目を見開いた。
「蜥蜴の血を引く者ら、とりわけ呪術や幻術に長けた者は、配下の戦士に強固な暗示を施すと聞きます。恐怖心を削ぎ、与えられた目的にのみ心を縛り付けるために」
「少し待て」と赤鷹は、隣室の卓から、自爆薬を手にして再び尋問室に戻った。
「これが何か、分かるか」
男の眼前に、それを突きつける。
「煙玉……だが。敵の捕縛を逃れたり、退路を断たれた際に用いる物だと」
男の答えに、赤鷹と保安局職員たちは顔を見合わせた。
「これは、自爆薬だ」
赤鷹が静かに告げると、男の顔が何かに打たれたかのように跳ね上がった。
「――なっ……?!」
生気のなかった貌に、初めて人間らしい感情の熱が宿る。
その様を見やり、赤鷹は痛ましげに細く息を漏らした。
「……だから、あの男も、いとも容易く自爆ができたわけか」
赤鷹の脳裏に浮かんだのは、躊躇いもなく自爆を選んだ男のことだった。
凪の法軍においても、任務によっては士官に自決の手段が与えられる。
だが、己の意志で死を選ぶのと、欺かれて死地に追いやられるのとでは、天と地ほどの隔たりがあった。
「俺は、使い捨てだったということか……」
はなから見捨てられた駒。その事実を悟った男の貌から表情が抜け落ち、やがて静かな怒りに歪められた。
「何だそれ!」
唐突な怒声が、尋問室に響く。
声の主はトウジュだった。部屋の中央にある小卓を、拳で打ち据える。
「ヒトの命なんだと思ってんだよ!」
昨今では耳にする機会も稀な、あまりに純粋な義憤が叩きつけられた。
その場の誰もが、かすかな戸惑いと共に言葉を失う中で、ただ一人熱を帯びたトウジュが男へと身を乗り出した。
「仲間を物みたいに……そんなヒドい奴らの言うこと聞く必要ないって!!」
「……」
だが、その飾り気のない真摯な熱量こそが、今の男の心を打つに足るものだった。
男の肩が小刻みに揺れ始め、固く握りしめた拳に、堰を切ったように涙が滴り落ちる。トウジュは鱗に覆われたその手を、両手で強く握りしめていた。
「……取引を、呑みます」
嗚咽を堪えながら、男は凪への協力を誓った。
それから男は、記憶の底にあるすべてを吐露し始める。
その中には、陽乃の侍女・檀弓についての情報も含まれていた。
檀弓は黒緋ノ國の出身。
篝州を内側から蝕むという目的を帯び、哀れな戦災孤児を演じて陽乃の父君に取り入ったのだという。
元・篝州侯の温情が、はじめから敵の策謀の内にあったということだった。
*
結局のところ、あの尋問はトウジュの未熟ともいえる情熱によって、思いがけない形で収まってしまった。
その異例な顛末を反芻しながら、赤鷹は先を行くトウジュの背を見つめていた。
「物乞いと目を合わせるな」
「え、でも……承知っ」
相変わらず前方と左右に注意を散らす弟子の様子に、赤鷹は今日何度目とも知れない嘆息を内心で漏らす。
だが、あの尋問が成功裏に終わったのは、紛れもなくトウジュの功績だった。
「俺では、あの男の口を開かせることはできなかっただろう」
育ちの良さがそうさせるのか、トウジュは人を疑うことを知らない。
より正確を期すならば、人を疑いたくないという、性善説にも似た純粋な祈りを抱いている。
その理想主義的な気質は、友である玄瑞に通じるものがあった。
甘い、と断じるのは容易い。
だが、と赤鷹は思う。
濁りきった澱みを浄めるのは、より強い毒ではない。ただ清廉な水だ。
理想を口にするたびに「何を夢物語を」と内心で評した玄瑞が、今や一国の長として凪を良き方へ導いている。
いまの世に求められているのは、彼らのように潔白な理想を、愚直なまでに貫き通せる人間なのだろう。
そして、彼らが道を踏み外し、あるいは倒れぬよう支えるのが、自分のような人間の役目。
この『問題児たち』の監督という任は、まだ当分、解かれそうになかった。




