ep. 53.2 下士・峡谷豺狼(4)
ふ、と意識が浮上する。
瞼の裏に残る温かい感触を追いかけるように、豺狼はゆっくりと目を開けた。
「……うわ、懐かしい夢……」
掠れた声とともにこぼれたのは、安堵のため息だった。どうやら、随分と昔の夢を見ていたらしい。
頬に触れると、記憶が溢れた跡のように、ひんやりと濡れている。
ゆるりと視線を巡らせれば、そこは高位の士官に与えられる住居の一室。余計な装飾のない、白と木の色を基調とした静謐な空間だ。
障子を白く透かし、柔らかな春の光が部屋を満たしている。久しぶりに、少しばかり寝過ごしてしまったらしい。
心地よい目覚めの余韻に浸りながら、豺狼は寝台から身を起こし、窓の外を眺めた。
遠くには、芽吹いたばかりの瑞々しい緑が広がっている。
*
九つの年のあの日、赤鷹特士と出会ってから、豺狼の人生は好転した。
夜毎に違う衾で、色を売る真似事を強いられる任務がなくなった。
代わって与えられたのは、陽光の下、民の盾や鉾となるための任務だった。
村を荒らす妖獣を討ち、街道を脅かす賊を払う。
豺狼が得意とする神通術力が、存分に発揮できた。
赤鷹との訓練は、これまで身につけた闇に潜むための技を、光の下で振るうための「武術」へと打ち直す日々だった。
ことに赤鷹は、防御の型と受け身の術理を、豺狼の骨の髄まで叩き込んだ。
ある日の組手で、豺狼は相手の木刀をあえて受け、体勢を崩したふりをして懐に潜り込もうとした。
情報を盗むために殴られることに慣れきった、染み付いた癖だ。
その瞬間、道場に赤鷹の叱責が轟いた。
「君の体は殴られるための砂袋ではない!!」
「――っ?!」
落雷のような怒号に、道場内の時が止まる。
豺狼はじめ、その場にいた誰もが動きを止める中、赤鷹は静かな歩みで近づくと、驚きに固まる豺狼の前に立った。
「自らを貶めるな」
彼はそう説いた。
「まず己を慈しみ、守る術を身につけろ。己の身一つ守れぬ者に、守れるものなど何もない」
その教えの先にこそ「仲間」や「友」という存在があるのだと、赤鷹は語った。
「友達……」
豺狼はその単語を、ただ音として繰り返した。
「どうした」
岩のような赤鷹の表情が、豺狼を見つめる。
「学校にあまり通えなかったので、友達がいないのです。任務も、単独潜入ばかりで……仲間と戦うってどういうことか、よく分からない……」
豺狼の答えを聞く赤鷹の面持ちに、微量の憐憫が浮かび、すぐ消えた。
しばしの静寂の後、赤鷹は断言した。
「学校でなくとも、友はできる」
「……そうなのですか」
その言葉は豺狼にとって、あまりに遠い世界の響きをしていた。
「ああ。俺も君と同じで、学校生活というものをほとんど知らぬ」
豺狼が天才と称され、七歳から下士として法軍に身を置いたのと同じように、赤鷹もまた、飛び級を重ねた天才であった。
「だがそれでも、俺は学舎とは異なる場所で、生涯の友と呼べる存在と出会った」
その場所が蟲之区であり、その友が今や凪之国の長――玄瑞であることを豺狼が知るのは、もっと後のことである
「生涯の友って、どういうものなのですか」
「……うむ。俺の友は、昔から途方もない夢や理想を語る男でな」
弟子の問いへ答える師の瞳に、柔らかな光がよぎった。
「その夢を現実とした今も、常に俺の一歩先を行く。……その隣に在り続け、守るために、俺も強くならねばならない。そう思わせてくれる相手、だな」
「友」とは、かくも尊いものなのか。
赤鷹の答えに、豺狼の胸の奥に、ぽ、と熱が灯った。
「私も……そんな友達にふさわしい人間に、なります」
その誓いを聞き、赤鷹は深く頷く。
「君ならば、いずれ必ず出会う」
赤鷹のその言葉は、預言のように、間もなく現実のものとなる。
喧しい幼馴染のタイに腕を引かれ、渋々足を運んだ蟲之区にて――。
豺狼が運命の少年と出会うのは、赤鷹の弟子となってから、一月も経たない日のことであった。
*
その日、豺狼は初めて蟲之区へと足を踏み入れた。
そこは、外の世界とはまるで異質な空気が満ちていた。
誰もが己の探求だけに没頭し、他者に関心を示さない。その静かな熱気は、任務の緊張感とはまた違う、近寄りがたい壁のように感じられた。
薬草辞典を探すと言って書庫へ消えたタイを待ちながら、豺狼は室内を散策するため、併設された工房へ向かう。
ふと、空間の片隅で一心不乱に作業をする、小さな背中が目に留まった。
自分より幼いであろう少年が、ただひたすらに、目の前の乳鉢と向き合っている。
「……あんな小さな子が……」
純粋に何かへ打ち込むそのひたむきな姿に、豺狼は知らず惹きつけられた。
その少年は丁寧な手つきで薬草をすり潰し、何かを調合している。何を作っているのだろう。
気づけば、声をかけていた。
「すごい丁寧だね」
「え?!」
少年は弾かれたように振り返り、至近距離にいた豺狼に驚いてのけぞった。肘が作業台に当たり、器具が床に散らばる甲高い音が響く。
途端に突き刺さる周囲の視線に、豺狼は内心で舌打ちした。自分が関わると、碌なことにならない。
少年は豺狼を責めるでもなく、慌てて周囲へ頭を下げている。
その姿に、ちくりと胸が痛んだ。
「ごめん、驚かせたね」
しゃがみこみ、散らばったものを拾うのを手伝う。
そこで初めて、少年の顔を正面から見た。
黒い髪に、黒い瞳。
豺狼ほどの美少年というわけでなくとも、その顔立ちは不思議と人の警戒心を解く、柔らかな印象を与えた。
立ち上がり、作業台に視線を戻す。
「それは、何をしていたところ?」
「薬の袋詰めをしてたんだ。ほんとは薬じゃなくて栄養剤なんだけど、風邪に効くの」
少年はそう言うと、誇らしげにきな粉色の粉末を指した。
「友達が、苦いのは嫌いだって言ってたから、甘くて飲みやすいのを考えてて」
その言葉に、豺狼は虚を突かれた。
友達のために?
苦いのが嫌だという、それだけの理由でこれほど丁寧に?
豺狼にとっての薬とは、痛みを麻痺させ任務を続行するためのもの。
苦いのも不味いのも沁みる苦痛も、歯を食いしばって耐えるべきもの。
それ以外に、考えたこともなかった。
誰かのことを想い、その負担を少しでも和らげようとする工夫。
そんな優しさが、本当に存在するのか。
「ちょっと味見させてよ」
確かめずにはいられなかった。
「うん、どうぞ」
差し出された粉末を口に含む。
舌の上に広がったのは、穏やかで優しい甘さだった。
少年の、友達を想う心そのものが溶け込んでいるような心地よい温かさが、じんわりと腹の底から満たされていくようだ。
この温かさを受けられる彼の「友達」が、羨ましく思えてくる。
そこへ、タイの呑気な声が割り込んだ。
「キョウちゃん、ダメよ、男の子にちょっかい出しちゃ」
「……何もしてないって。それに、その呼び方やめてよね」
いつもの気安いやり取りの後、少年が作る薬を見て、タイは率直な意見を口にする。
「任務でケガしたりしたら、苦いとか不味いとか言ってられないじゃない」
その言葉に、豺狼は思わず反論していた。
「だからこそだよ」
驚くタイと少年へ、構わず続ける。
「痛かったり、苦しかったりする時に、もうそれ以上、ちょっとでも嫌な思いなんてしたくないでしょ? そんな時に、心がこもってると分かると、それだけで嬉しいものだよ」
それは、ずっと自分がそうして欲しいと、望んでいたことだったのかもしれない。
ぽかんと小動物のような瞳を丸くする少年は、青と名乗った。
青。
その響きが、すとんと豺狼の胸に落ちる。
別れ際、戸惑いがちに振られる青の小さな手を見ながら、
「またね、青君」
自然とその言葉と名前が口をついて出ていた。
青とまた話がしたい。
友達になりたい。
そんな強い想いが芽生えるのを、豺狼ははっきりと自覚していた。
それから間も無く、雨の中を失踪した青の捜索任務依頼が舞い込んできたのは、今思えば、運命や縁だったのかもしれない。
回復を待って、その後も何度か蟲之区へ足を運んだ。
だが、青はハクロ特師と行動を共にすることが増え、声をかける機会を逸してしまう。
珍しく一人でいても、青は書物に齧り付くように没頭している。
その真剣な横顔を前にして、とうとう最後まで声をかけることはできなかった。
すれ違い続ける間に、時は過ぎ――
心のどこかに空いた穴を埋めるかのように、豺狼は訓練と任務に己のすべてを捧げた。
赤鷹特士の指導の甲斐もあり、豺狼の武人としての才覚は飛躍的に開花していく。
いつしか背丈は大幅に伸び、かつての「美少女」と見紛う可憐な面影は、鍛え上げられた筋肉の影に消えていた。
数年後、またもやタイこと三葉医師を介し、豺狼は青と再会を果たす。
いかにも「びっくり仰天」を絵に描いたような顔でこちらを見上げる顔は、今でも思い出すと笑いが込み上げた。
付かず離れずの時を経て、今では高位の毒術師へと成長した青と共に、国の威信を背負う任務に就いている。
心から信頼できる友に出会える未来が待っているのだと、森の岩場で震えていた幼い自分に教えてやりたい。
*
ふ、と再び意識が過去の微睡みに沈みかけたが、豺狼は軽くかぶりを振って、その甘い感傷を追い払った。
「行くか」
寝台から降り、手早く身支度を整える。
今日は、翡翠での有事を収束させた任務明けの、二人だけの慰労会。森にある青の隠れ家で、残りの酒を酌み交わす約束だ。
その前に市場へ寄って、肴を調達していこう。
青の好みを聞いておけば良かった。
前回持参した鳥の山椒焼きや燻り豆腐は気に入ってくれただろうか。甘いものは嫌いではないだろうか。
そんなことを考える時間さえもが、今は得難く、そして心地よかった。
かつて任務の道具でしかなかった酒が、これほど心を弾ませるものになるとは、思いもしなかった。
換気のために障子を開け放つと、まばゆい春の光とともに、柔らかな風が吹き込んできた。
その風が、まるで心を後押しするかのように、頬を優しく撫でていった。




