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毒使い【最終章、始動】  作者: キタノユ
第五部以前
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ep. 53.2 下士・峡谷豺狼(3)

 どれほどの時間が経ったか。

 ようやく心の嵐が過ぎ去った頃、豺狼さいろううつろな足取りで野営地へと戻った。


「……誰だ?」

 天幕の前に立つ新たな人影に、豺狼は足を止めた。

 野営地を支配していた、よどんだ緊張と空気が嘘のように和らぎ、代わりに安堵にも似た静かな熱気が満ちている。


 近くにいた顔見知りの士官に「斑目まだらめ隊長は」と問うより早く、別の声が囁くように答えた。


斑目やつ更迭こうてつされたんだ。後任は、かの赤鷹せきよう特士だと……」

「赤鷹特士、あの……」

 その名に、豺狼は息を呑んだ。


 術力、体術ともに比類なく、その精神は清廉潔白。

 噂に名高い武人中の武人と聞く。


 改めてその人物を見据える。

 小柄な体躯ながら、そこから発される気配は歴戦の風格そのものだった。顔の中央を走る大きな傷跡が、噂に違わぬ凄みを物語っている。


「あの方ならば、もう無茶なことは……」

斑目あいつのやり口だと、また誰かが潰されてたからな」


 天幕を遠目に囲む士官らが交わす声は、安堵に満ちていた。

 その様子から、新たな指揮官の人徳と、去っていった男がいかに忌み嫌われていたかがうかがい知れた。


「――峡谷下士」

「!」

 その名の通り、鷹のような鋭い眼光が豺狼を向いた。


「こちらへ」

 武人然とした赤鷹の低い声に呼ばれた。

 その手が、天幕を示している。


「わ、私、ですか……」

 戸惑い、周囲を見渡す豺狼の視界の隅に、ふと、さきほどの准士の男が映った。

 分が悪いといった顔で豺狼を睨め付けるが、何も口を出してはこなかった。


「どうした。来なさい」

「……」

 豺狼は、准士の視線から逃げるように踵を返す。

 重たく感じる身体を引きずって、隊長用の天幕へと足を踏み入れた。

 この男もまた「そういった」たぐいなのかと、体と心の芯が凍える。


 天幕の中は驚くほど簡素だった。寝台が一つと、書き物をするための卓と床几しょうぎが置いてあるのみ。

 赤鷹は天幕の奥に進むと、静かに振り返った。


医師くすしが必要か」

「え……」


 その問いの意味するところを悟り、豺狼の顔から血の気が引いた。


「俺はそんなヘマしない! ――ぁ……」

 思わず怒鳴ってしまい、すぐに後悔する。


「も、申し訳ありませ……」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。


「なら、いい。変なことを訊いたな」

 赤鷹はしばし豺狼の顔色を探るように見据えていたが、

「峡谷」

 と、おもむろにその場に膝を屈し、豺狼と目線を合わせた。


「え、な、何を」

「長らく、心身ともに辛い任務ばかりを背負わせてしまった。気が付くことができず、すまない」

「特士……?」

「これを」


 唖然とする豺狼の手に、硬い手応えのあるものが握らされた。

 竹を切り出して作られ、金属で縁取られた札。

 そこには赤鷹の署名と、まだ新しい血判がされていた。


「急なことだが、今この時より、俺が君の指南役となる」

「指南、役……?」


 その言葉の意味を、豺狼はすぐには理解できなかった。


「これまでは、斑目が君の指南役とされていたことは、知っていたか」

「……知りませんでした」


 豺狼の答えに赤鷹は「やはりな」と苦々しく低いため息を吐いた。


「斑目は書類上、これまで君の指南役として、半ば独占的に君を任務で利用していた。本来、指南役とは弟子を育てると同時に、守るべき存在だ。奴の行いは、その全てに反する」


 赤鷹は真っ直ぐに、豺狼の瞳を見据えた。


「奴と君の縁の一切を断った。もう、色を売る真似事はしなくていい」

「……」


 それは、豺狼を見えない呪縛から解き放つ言葉だった。

 感情が追いつかず、涙を流すことさえ忘れて、豺狼はただ呆然と赤鷹の顔を見つめるしかできない。


「しばらくは、俺のそばを離れないことだ」

 赤鷹は、指南役の証である札を豺狼の手に固く握らせると、静かに立ち上がった。

 そして卓の反対側の床几に腰を下ろし、何事もなかったかのように書き物を始める。


「あの、赤鷹特士……っ」

 呆然と立ち尽くす豺狼に、赤鷹はちらりとも視線をよこさず、ただ筆先で天幕の隅にある簡素な寝台を示した。


「子どもは寝る時間だろう」

「え」


 それきり、特士は言葉を発しない。

 豺狼が恐る恐る寝台に横になっても、見向きもせずに黙々と書状を改め、時おり短い間だけ、天幕を出入りするだけ。

 何のとがめもなく、何も求められず、ただ静かな時間が過ぎていく。


 その夜、赤鷹が筆を滑らす音を子守唄に、豺狼はいつぶりか思い出せないほど、朝まで深く眠った。


 翌朝目覚めると、件の准士は隊から姿を消していた。


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