ep. 53.2 下士・峡谷豺狼(3)
どれほどの時間が経ったか。
ようやく心の嵐が過ぎ去った頃、豺狼は虚ろな足取りで野営地へと戻った。
「……誰だ?」
天幕の前に立つ新たな人影に、豺狼は足を止めた。
野営地を支配していた、淀んだ緊張と空気が嘘のように和らぎ、代わりに安堵にも似た静かな熱気が満ちている。
近くにいた顔見知りの士官に「斑目隊長は」と問うより早く、別の声が囁くように答えた。
「斑目が更迭されたんだ。後任は、かの赤鷹特士だと……」
「赤鷹特士、あの……」
その名に、豺狼は息を呑んだ。
術力、体術ともに比類なく、その精神は清廉潔白。
噂に名高い武人中の武人と聞く。
改めてその人物を見据える。
小柄な体躯ながら、そこから発される気配は歴戦の風格そのものだった。顔の中央を走る大きな傷跡が、噂に違わぬ凄みを物語っている。
「あの方ならば、もう無茶なことは……」
「斑目のやり口だと、また誰かが潰されてたからな」
天幕を遠目に囲む士官らが交わす声は、安堵に満ちていた。
その様子から、新たな指揮官の人徳と、去っていった男がいかに忌み嫌われていたかが窺い知れた。
「――峡谷下士」
「!」
その名の通り、鷹のような鋭い眼光が豺狼を向いた。
「こちらへ」
武人然とした赤鷹の低い声に呼ばれた。
その手が、天幕を示している。
「わ、私、ですか……」
戸惑い、周囲を見渡す豺狼の視界の隅に、ふと、さきほどの准士の男が映った。
分が悪いといった顔で豺狼を睨め付けるが、何も口を出してはこなかった。
「どうした。来なさい」
「……」
豺狼は、准士の視線から逃げるように踵を返す。
重たく感じる身体を引きずって、隊長用の天幕へと足を踏み入れた。
この男もまた「そういった」類なのかと、体と心の芯が凍える。
天幕の中は驚くほど簡素だった。寝台が一つと、書き物をするための卓と床几が置いてあるのみ。
赤鷹は天幕の奥に進むと、静かに振り返った。
「医師が必要か」
「え……」
その問いの意味するところを悟り、豺狼の顔から血の気が引いた。
「俺はそんなヘマしない! ――ぁ……」
思わず怒鳴ってしまい、すぐに後悔する。
「も、申し訳ありませ……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「なら、いい。変なことを訊いたな」
赤鷹はしばし豺狼の顔色を探るように見据えていたが、
「峡谷」
と、おもむろにその場に膝を屈し、豺狼と目線を合わせた。
「え、な、何を」
「長らく、心身ともに辛い任務ばかりを背負わせてしまった。気が付くことができず、すまない」
「特士……?」
「これを」
唖然とする豺狼の手に、硬い手応えのあるものが握らされた。
竹を切り出して作られ、金属で縁取られた札。
そこには赤鷹の署名と、まだ新しい血判が捺されていた。
「急なことだが、今この時より、俺が君の指南役となる」
「指南、役……?」
その言葉の意味を、豺狼はすぐには理解できなかった。
「これまでは、斑目が君の指南役とされていたことは、知っていたか」
「……知りませんでした」
豺狼の答えに赤鷹は「やはりな」と苦々しく低いため息を吐いた。
「斑目は書類上、これまで君の指南役として、半ば独占的に君を任務で利用していた。本来、指南役とは弟子を育てると同時に、守るべき存在だ。奴の行いは、その全てに反する」
赤鷹は真っ直ぐに、豺狼の瞳を見据えた。
「奴と君の縁の一切を断った。もう、色を売る真似事はしなくていい」
「……」
それは、豺狼を見えない呪縛から解き放つ言葉だった。
感情が追いつかず、涙を流すことさえ忘れて、豺狼はただ呆然と赤鷹の顔を見つめるしかできない。
「しばらくは、俺のそばを離れないことだ」
赤鷹は、指南役の証である札を豺狼の手に固く握らせると、静かに立ち上がった。
そして卓の反対側の床几に腰を下ろし、何事もなかったかのように書き物を始める。
「あの、赤鷹特士……っ」
呆然と立ち尽くす豺狼に、赤鷹はちらりとも視線をよこさず、ただ筆先で天幕の隅にある簡素な寝台を示した。
「子どもは寝る時間だろう」
「え」
それきり、特士は言葉を発しない。
豺狼が恐る恐る寝台に横になっても、見向きもせずに黙々と書状を改め、時おり短い間だけ、天幕を出入りするだけ。
何の咎めもなく、何も求められず、ただ静かな時間が過ぎていく。
その夜、赤鷹が筆を滑らす音を子守唄に、豺狼はいつぶりか思い出せないほど、朝まで深く眠った。
翌朝目覚めると、件の准士は隊から姿を消していた。




