ep. 53.2 下士・峡谷豺狼(2)
屋根から屋根へと音もなく渡り、豺狼は花街の喧騒を背にした。目指すは郊外に広がる森の一角。そこが、今回の任における合流地点であった。
任務は成功した。だが、豺狼の心は鉛のように重く、足取りは晴れなかった。
合流地点で待つであろう、ある上官の顔を思うと、胃の腑が冷たくなる。
今回の作戦を取り仕切る、斑目特士。
確かに有能な男で、標的の最も醜悪な欲望を的確に見抜き、そこへ最も効果的な駒を、最も非情なやり方で差し向ける。その狡猾で冷淡な手腕で、数々の政治汚職を暴いてきた。
だがその駒として、年若い士官の心身が使い潰されることを、斑目は歯牙にも掛けない。
豺狼のような幼く、美しい容姿を持つ部下を、斑目が利用しない理由はなかった。さらに任務にかこつけ、労うふりをし、ことあるごとに斑目は豺狼を側に置きたがる。
「気色悪い……」
寒気がして、豺狼は息を止めた。
気さくなふりをして厚い手を肩に置き、頬に触れられる指先の感触が蘇る。
やがて、森閑とした木立の奥に、焚き火の明かりの揺れが見えてきた。
まるで戦の野営のように、一つの大きな天幕を中心に、数名の士官らが慌ただしく動いていた。
それぞれが入手した証拠品を突き合わせ、黒い噂の全体像を掴もうとしている。
豺狼は息を殺し、その中にいつもいるはずの斑目の姿を探す。
「……いない?」
こわばっていた肩の力が、わずかに抜けた。
理由はどうあれ、今はあの不快な男と顔を合わせずに済む。今のうちにと、豺狼は証拠品をまとめている上士のもとへ急いだ。
土と埃で汚れた肌襦袢の上に巻いた風呂敷から、帳簿を取り出す。
「よう、お疲れさん。どうした、そんな寒そうな格好。あとで着替えをもらってきな」
差し出された分厚いそれを検分した上士は「よくやった」と短く労いの言葉をかける。
直後、横から一人の女士官から声がかかった。真新しい手拭いが差し出される。
「着替えを用意するから、先に体を清めておいで。そこを行った先に川があるから」
女士官は、豺狼の薄汚れた肌襦袢姿に、眉をひそめた。
「あ……りがとう、ございます」
ぎこちなく礼を述べ、豺狼は野営の明かりから離れていく。
その背中を、ねっとりとした男の視線が追っていることなど、知る由もなかった。
夜の小川の周りには、澄み始めた空気が満ち、草むらからは涼やかな虫の音が聞こえてくる。
夏の盛りを過ぎた水はひたと肌に冷たく、月光がその水面を照らす様は、あらゆる汚れを洗い流すかのように清冽だった。
豺狼が川の水で肌を拭っていると、背後の茂みががさり、と鳴る。振り返るより先に、聞き覚えのある声がした。
「大変だったな」
准士の男だった。任務で何度か顔を合わせたことがある。豺狼はこの男の、粘着質な声と視線が嫌いだった。
その手には、替えの着物と追加の手拭いが握られている。
「持っていくよう頼まれてな。これを使うといい」
「……どうも」
手拭いを受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。腕を強く掴まれ、無理やり引き寄せられる。
「汚いもの、俺が掻き出してやろうか」
「――っ!」
豺狼は全身の血が凍るのを感じながら、無我夢中でその体を押し返した。
「そんなことしてない!!」
吐き捨てるように叫び、着替えをひったくると、豺狼は野営地とは逆の方向へ駆け出した。
男の気配が完全に消えたところで、ようやく足を止める。
そこは、森の中にぽっかりと空が覗く、開けた場所だった。
苔むした岩に腰を下ろし、震える手で着替えを広げる。
殴られた体と顔の痣や傷に薬を塗ると、ひどく沁みた。
苦い粒の痛み止めを、水もなく嚥下する。
「まっず……」
痛みと、薬の苦さが、堪えきれなかった何かを心から溢れさせた。
自分がどうしようもなく情けなくなり、豺狼は岩の上で膝を抱えて顔をうずめる。
「気持ちの悪い奴らばっかりだ……」
物心ついた時から、己の容姿が憎かった。
誰もが初雪のようだと称えるこの白銀の髪と白い肌も、宝玉を嵌めたようだと褒めそやす碧い瞳も。
豺狼にとっては忌まわしい呪いの印でしかなかった。
何よりこの身があるばかりに、母がどれほど辛酸を嘗めて屈辱に耐えてきたか。
「ぉ母さ……っ」
今、一番会いたい顔を思い浮かべかけて首を振り、豺狼は唇を強く噛む。
「早く……早く、強くならないと……」
闇の中、ただ独り。
豺狼は夜梟の声に紛れ、嗚咽を殺して肩を震わせた。




