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毒使い【最終章、始動】  作者: キタノユ
第五部以前
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ep. 53.2 下士・峡谷豺狼(2)

 屋根から屋根へと音もなく渡り、豺狼さいろうは花街の喧騒けんそうを背にした。目指すは郊外に広がる森の一角。そこが、今回の任における合流地点であった。


 任務は成功した。だが、豺狼の心は鉛のように重く、足取りは晴れなかった。

 合流地点で待つであろう、ある上官の顔を思うと、胃の腑が冷たくなる。


 今回の作戦を取り仕切る、斑目まだらめ特士。


 確かに有能な男で、標的の最も醜悪な欲望を的確に見抜き、そこへ最も効果的な駒を、最も非情なやり方で差し向ける。その狡猾こうかつで冷淡な手腕で、数々の政治汚職を暴いてきた。


 だがその駒として、年若い士官の心身が使い潰されることを、斑目は歯牙しがにも掛けない。

 豺狼のような幼く、美しい容姿を持つ部下を、斑目が利用しない理由はなかった。さらに任務にかこつけ、労うふりをし、ことあるごとに斑目は豺狼を側に置きたがる。


「気色悪い……」

 寒気がして、豺狼は息を止めた。

 気さくなふりをして厚い手を肩に置き、頬にれられる指先の感触が蘇る。



 やがて、森閑しんかんとした木立の奥に、焚き火の明かりの揺れが見えてきた。


 まるで戦の野営のように、一つの大きな天幕を中心に、数名の士官らが慌ただしく動いていた。

 それぞれが入手した証拠品を突き合わせ、黒い噂の全体像を掴もうとしている。


 豺狼は息を殺し、その中にいつもいるはずの斑目の姿を探す。


「……いない?」

 こわばっていた肩の力が、わずかに抜けた。


 理由はどうあれ、今はあの不快な男と顔を合わせずに済む。今のうちにと、豺狼は証拠品をまとめている上士のもとへ急いだ。

 土とほこりで汚れた肌襦袢はだじゅばんの上に巻いた風呂敷から、帳簿を取り出す。


「よう、お疲れさん。どうした、そんな寒そうな格好。あとで着替えをもらってきな」


 差し出された分厚いそれを検分した上士は「よくやった」と短く労いの言葉をかける。

 直後、横から一人の女士官から声がかかった。真新しい手拭いが差し出される。


「着替えを用意するから、先に体を清めておいで。そこを行った先に川があるから」

 女士官は、豺狼の薄汚れた肌襦袢姿に、眉をひそめた。


「あ……りがとう、ございます」

 ぎこちなく礼を述べ、豺狼は野営の明かりから離れていく。


 その背中を、ねっとりとした男の視線が追っていることなど、知る由もなかった。



 夜の小川の周りには、澄み始めた空気が満ち、草むらからは涼やかな虫の音が聞こえてくる。

 夏の盛りを過ぎた水はひたと肌に冷たく、月光がその水面を照らす様は、あらゆる汚れを洗い流すかのように清冽せいれつだった。


 豺狼が川の水で肌を拭っていると、背後の茂みががさり、と鳴る。振り返るより先に、聞き覚えのある声がした。


「大変だったな」

 准士の男だった。任務で何度か顔を合わせたことがある。豺狼はこの男の、粘着質な声と視線が嫌いだった。


 その手には、替えの着物と追加の手拭いが握られている。


「持っていくよう頼まれてな。これを使うといい」

「……どうも」


 手拭いを受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。腕を強く掴まれ、無理やり引き寄せられる。


「汚いもの、俺が掻き出してやろうか」

「――っ!」

 豺狼は全身の血が凍るのを感じながら、無我夢中でその体を押し返した。


「そんなことしてない!!」

 吐き捨てるように叫び、着替えをひったくると、豺狼は野営地とは逆の方向へ駆け出した。


 男の気配が完全に消えたところで、ようやく足を止める。


 そこは、森の中にぽっかりと空がのぞく、開けた場所だった。

 苔むした岩に腰を下ろし、震える手で着替えを広げる。


 殴られた体と顔のあざや傷に薬を塗ると、ひどくみた。

 苦い粒の痛み止めを、水もなく嚥下えんげする。


「まっず……」

 痛みと、薬の苦さが、堪えきれなかった何かを心からあふれさせた。


 自分がどうしようもなく情けなくなり、豺狼は岩の上で膝を抱えて顔をうずめる。

「気持ちの悪い奴らばっかりだ……」


 物心ついた時から、己の容姿が憎かった。

 誰もが初雪のようだと称えるこの白銀の髪と白い肌も、宝玉をめたようだと褒めそやす碧い瞳も。

 豺狼にとっては忌まわしい呪いの印でしかなかった。


 何よりこの身があるばかりに、母がどれほど辛酸しんさんめて屈辱に耐えてきたか。


「ぉ母さ……っ」

 今、一番会いたい顔を思い浮かべかけて首を振り、豺狼は唇を強く噛む。


「早く……早く、強くならないと……」


 闇の中、ただ独り。

 豺狼は夜梟よるふくろうの声に紛れ、嗚咽おえつを殺して肩を震わせた。

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