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ep. 53 継ぎ(3)

 一方――


 露流河つるかわが朝焼けに染まる、そのわずか前の刻限。

 白妙しろたえ村に佇む白亜の館にて。


 青は浅い眠りのふちから覚醒した。

「……?」

 壁に背を預け、立てた片膝に腕を乗せて顔を埋めていた青は、額当ての位置を確かめつつ、ゆっくりと顔を上げた。


 館の客間では、同じく思い思いの姿勢で仮眠をとっていた者たちも次々と目を開け、周囲を見渡している。

 いち早く身を起こした猪牙と豺狼が、障子を開け放つ。縁側の向こうに広がる空は未だ闇に沈んでいたが、東の地平からは僅かに、淡い紅がにじみ始めていた。


 ――ォォ……ォ……ォ……


 谷間を渡る風か、地鳴りか、あるいは獣の遠吠えか。人の呻きにも似た、低く重い音波が地を伝う。


「東、か」

 縁側へ出た猪牙が、風の気配を探る。東には露流河の本流が流れている。


「露の声……?」

 青もまた縁側から庭へ下り立ち、村を見渡す。出歩く人影はなく、家々の灯りは落ちていた。


「見回りするか」

 猪牙と豺狼は、素早く警邏けいらと防衛の態勢を整え始めた。

 白妙の加護を失い、自警の組織を持たないこの村は、今や賊や獣といった外敵に対して無防備だ。


「……水が?」

 ふと、青の視線が館の庭を流れる小川の異変をとらえた。水面には微細びさいな泡が立ち、東から西へ向かってさざ波が寄せている。


「シユウ様、どうしたの……」

 部屋の隅で丸くなっていたミツキが、眠たげに目をこすりながら縁側を下りてきた。


「ミツキ」

 青が手招きすると、小さな影が駆け寄り、水流を覗き込むために屈んだ青の背に抱きつく。


「水の匂い、何か変わったかな」

 ミツキはするりと黒い獣の姿に転じ、その細長い鼻先を水面に近づけた。


『あれ……血の匂いが消えてるよ?』

「消えた?」

『うん、普通の川のお水と同じ』

循環じゅんかんが速い……」

 呟き、青は立ち上がった。


「一師、どちらへ」

 東へ向こうとした青の背に、豺狼さいろうの声が飛んだ。猪牙とコウの三人で、縁側に広げた地図を囲んでいるところだった。


「気になることが……少しの間、外しても良いでしょうか」

 青は東方向を指し示した。


「……」

 豺狼は一瞬黙考(もっこう)し、猪牙とコウへ何事かささやくと、青のもとへ歩み寄る。

 ミツキは豺狼から身を隠すように、素早く青の後ろに回り込んだ。


「俺も行こう。コウ殿にも同行いただく」

「え、でも」

 豺狼の背後で、コウが縁側に立てかけた大刀を手に取る姿が見える。


「俺も、つゆや河の様子が気になる。自警団長殿にも状況を把握してもらった方が良いだろう。それに――また君が流されでもしたら困るしね」

「そんな簡単に落ちないよ……」

「ミツキだって、何度も水に潜りたくないよな?」

「――ピャッ」


 不意にあおい視線を向けられ、ミツキは黒い毛を逆立て、甲高い奇声を漏らした。



 村の東を覆う森を抜け、四人は斜面を下り、露流河を見下ろす稜線りょうせんに立った。

 谷底はまだ暗く、夜闇に冷やされた風は冷たい。地響きのような音はいつしか止んでいた。


「シユウの名のもとに命ず」

 青は式鳥を呼び出した。

 子どもの手のひらほどの小鳥が、指先に降りる。黄褐色おうかっしょくの体に、羽先と尾の藍が鮮やかな対比を見せる姿だ。


「探してくれ」

 命を受けて飛び立った小鳥は、山裾やますそ木立こだちへと姿を消した。


「カワラヒワの式鳥か」

 鳥の軌跡をともに見つめていたコウの、呟き。


「――よく、ご存知で。瘴気しょうきや毒を嗅ぎ分ける能力があります」

「消火団にも、毒気や瘴気を嗅ぎ分ける事ができる鳥獣人がいてな。オレたちは『瘴気番しょうきばん』という役職で呼んでいる」

「瘴気番、なるほど……」


 コウの言葉に、青と豺狼は感心したように頷いた。

 ミツキは好奇の色を浮かべ、青の横顔と、鳥が飛び去った空とを交互に見上げている。


 程なくして、森の奥からピロロロ、と鈴を転がす鳴き声が響いてきた。

 音を追って木々を分け入っていくと、やがて、樹々が炭化し、地面が黒く焼けげた一帯に行き当たる。

 焔大蛇が放った火球が残した爪痕だ。


 大小様々な焦痕こげあとが、黒いまだらとなって地面に散らばっている。その真ん中で静止していた小鳥は、青が片手を宙で握ると、煙となって消えた。


「あぁ……やっぱりだ……」

 青は焦痕の一つに駆け寄ると、かたわらに膝を折る。

 豺狼が背後から灯りで照らし出すと、黒土かと思われたその焦痕は、ぬらぬらと濡れ、泥濘でいねいと化しているのが見てとれた。


腐沼ふしょうか」

 と、コウ。


「はい……妖瘴ようしょうによる土壌汚染が起きています」

 青の言葉に、豺狼は何かに思い当たったように「あ」と声を漏らした。


「そうか、あれは『毒』だったな」

 焔大蛇ほむらおろちが吐き出した、どろりと地を火塊かかいには、毒腺どくせん分泌物ぶんぴつぶつが含まれていたのだ。


 あの時、降り注ぐ火球のただ中で、青は眼前に落ちた熔流ようりゅう検毒符けんどくふをかざしてその性質を検分した、その結果――符は有毒を示す紫に燃えあがった。


「これはかなり……大事おおごとです」

 青は左手で、額当てごと頭を抱え込んだ。うついた青の足元で、ミツキが案じるように「くぅん」と鳴き、その豊かな尾で包み込むように、身を寄せた。


「あれほどの妖魔であれば、妖瘴の毒性もきっと相当なもの。人への影響はもとより、周囲の生態系がどうなるか……」


 青は顔を上げ、立ち上がる。眼前に広がるのは、西岸に連なり北へ伸びる険しい山稜と、東岸に広がる深い樹海。

 この広大な範囲に無数に降り注いだ火の雨、そのうちどこが汚染されているのか、丹念に調査をしなければ見当もつかない。


「露流河そのものが汚染されている可能性は――」

「『気になること』とは、露流河の汚染のことか――」


 期せずして同じ問いを発したコウと豺狼は、互いに顔を見合わせると、また同時に口をつぐんだ。


「はい。……行きましょう」

 青はかすかに笑みを浮かべると、東、露流河が流れる谷筋たにすじへと足を向けた。



 一行は夜露よつゆに濡れた斜面をさらに下り、木々の根が絡まる足元から不意に開けた平坦地で足を止めた。

 そこは火球によって穿うがたれた跡らしく、えぐられた土と共に、黒く焦げた岩肌がところどころにき出しになっている。

 眼下にはもう河岸が間近に迫り、谷底からの冷気と共に、瀬音せおとがはっきりと耳に届いた。


「キュゥン」

「ミツキ?」


 不意に外套がいとうすそを引かれ、青が足元に視線を落とすと、ミツキがその細いふんで裾の端をくわえている。

 ミツキに促されるまま数歩踏み出すと、地面のくぼみに、黒く粘り気のある液体が溜まっているのを見つけた。腐沼だ。


「――こんな河の近くまで……あれ……玉」

 何とはなしの違和感に、青は指先に明かりを灯し、黒い水溜まりを覗き込んだ。

 その底から、粘り気を帯びた大小の泡が、断続的に水面に浮かび上がっては弾ける。やがて黒い水面全体が、なめらかに波打ち始めた。


「水……」

 膿溜うみだまりの底から清らかな水が湧き出し、汚泥おでいを押し上げるようにして、見る間にその透明度を増していく。


「やっぱりだ、浄化されている。きっと露だ」

「待っ……、やっぱりって?」


 河岸へと続く斜面を駆け下りる青の背を、豺狼たちが慌てて追った。


「村の小川の水質が、ごく短時間のうちに変化していた。この辺りの水は全て露流河に連なっている。あれほど循環が速いのは、浄化の力が作用している証左しょうさかと思ったんだ」


 繁みを掻き分けて、青は先んじて河岸へ降り立つと、未だ黎明れいめいの薄闇に沈む水際へと駆け寄った。


「待て!」

「キュゥン!」

 追いついた豺狼が素早くその腕を掴み、同時にミツキも、再び外套の裾に喰らいついた。


「わっ!」

 左右から同時に引かれ、青は危うく尻餅をつきかけた。


「無闇に近づきすぎだ」

「でも」

「ワフッ!」

「――はい……気をつけます……」


 豺狼とミツキ、双方の碧い瞳に見据えられ、青は渋々と水際から数歩下がった。


「……ん?」

 若者たちのやり取りを、保護者のように少し離れた場所から眺めていたコウが、ふと、上流側でねた水音に気づき、そちらへ顔を向ける。


「おい、あれを」

 コウの視線の先、上流側で、薄闇色の水面があぶくを散らしながら盛り上がった。

 やがて水面に、艶やかな黒曜こくようの鱗の頭と双眸そうぼうがのぞく。


「露……?」

 自然と四人の足が、河の化身のもとへと向いた。

 岸辺の砂利を踏む音に驚いたのか、露の頭が水面下へたぷんと沈む。

 波が渦を巻きながら引き、再び河岸へ打ち寄せるとともに、新たな影が水面に浮かび上がった。


「あれは……」

 浅瀬に、白い小さな人影が陸へと這い上がり、ぎこちない仕草で、ゆっくりと体を起こそうとしている。

 それは、白い衣をまとった女だった。


 白い両手で濡れた砂を押し、片膝ずつ立てて、おぼつかない様子で地面を踏み締める。

 まるで生まれ落ちたばかりの赤子のように、不安定に重心を探りながら、やっとその場に立ち上がった。


「クゥ……クゥ……」

 ミツキは小刻みに体を震わせ、青の足元に隠れて地に伏せる。


「白妙さん……ではない……?」

 青の声に、白い衣の女がゆっくりと四人の方へ顔を向けた。


 白い衣に、透けるように白い肌。陶磁器めいた端正な顔立ちには、確かに白妙の面影が宿っている。

 しかし、幼く見えた白妙よりは幾分か年嵩としかさに見え、身の丈よりも長い黒髪は濡れて岸辺に広がり、あたかも河そのものと繋がるへそのようにも見えた。


「あたし……は、露……。境界をまもたま……」


 血の気のない薄い唇から、かろうじて聞き取れるほどの掠れた声が紡がれる。

 まさにその時――夜の闇が薄紙を剥ぐように退き、谷間に最初の光が差し込み始めた。


 夜明けの刻が終わり、まさしく朝が始まろうとしている。


 谷に差し込む朝陽を浴びて、白い衣の女――露の双眸に、白妙と同じ鮮やかな朱色が灯った。血の気を失っていた唇にも、瞳と同じ仄かな赤みが差した。


 露はゆっくりと両腕を頭上高く掲げ、朝の光を全身で受け止めるかのように、天を仰いだ。


「光を、取り込んでいる……?」


 露の全身が光の粒子を纏って淡くきらめく。長い黒髪を伝い、河面もまた無数の光の点を映してきらめき出した。

 暗い水底にも徐々に光が満ちて、澄んだ碧色へきしょくへと変わり始める。


 青、豺狼、コウの三人は、ただ息を呑んでその光景を見つめていた。


 ミツキは、一層体を小さく丸めて青の足元で震えている。顔を伏せ、おそれとも敬虔けいけんさともつかぬ低い呻き声を漏らすばかりだ。

 そんなミツキの様子に「大丈夫だ」と小さく告げて、青は再び露へ向き直る。


「おそらくこれが、露の本来なのでしょう……」


 それは、神が顕現けんげんした瞬間だった。


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