ep. 52 早春の白露(9)
「青!!!」
最後に、豺狼の声が聞こえた。
「――っ!」
その名を呼び返すこともできず、暗く冷たい闇に引き摺り込まれ、仄明るい水面が急激に遠ざかる。
黒い渦に体が撒かれ、踠くこともできないまま、体が深淵へと沈んでいった。
そのうち、上下の感覚が曖昧になりはじめる。
濁流の轟きが次第に遠ざかり、胸を締めつけていた息苦しさも薄れていった。
浮遊するような感覚が身を包む。
意識が、途切れかけていた。
――青
誰かの声に呼ばれた気がした。
前にも、同じことがあった。
幼い頃、蟲之区で藍鬼の殉職を知ってしまい卒倒したあの日、夢で聞いたのは、藍鬼の声。
――青
けれど。
これは誰の声だろう、これは――
「さ……ぃ……」
瞼の裏に、碧い瞳が浮かんだ。
「――っ、い、やだ……」
死んでたまるか。
暗闇に向かって、青は手を伸ばす。
そこが水面なのか、水底なのかすら判然としない。
ただ、生にすがるように闇を掻いた。
*
二柱の巨蛇は、もつれたまま河へと沈んでいった。
波はしばし上流を荒らし、行き場を失った奔流がうねりながら、やがて下流へと流れ始める。
「青……っ!」
河渕へと駆けつけた豺狼は、削れた河岸の縁から濁った水面を見渡した。
「青!!」
再度その名を叫ぶ。
青の姿は見当たらない。
「川下に流されたか――っえ……?!」
振り向きかけた豺狼のすぐ脇を、黒い影が疾風のように駆け抜けた。
薄闇の中でかろうじて、四つ足の獣の輪郭が見て取れる。
「待て! ミツキ!」
背後から狛の声が飛ぶ。
黒い獣影は水面を滑り、身を翻して急旋回しながら、水飛沫を散らして下流へと駆けていく。
やがて水面へと潜り、夜河の闇に掻き消えた。
「狛殿下、今のは……っ」
豺狼は己を奮い立たせるように息を強く吐き出し、狛を振り返る。
「白狼邦の、獣鬼隊の子だ。シユウ殿の気を追っているのだろう」
そこに立ち尽くす狛の顔色は青ざめていた。
「面目ない……我の力不足であった……」
言葉を絞るように吐いた狛の面差しに、豺狼は首を横に振った。
「貴方も喰われるところだった。仕方のないことです」
低く、努めて冷静に押し殺した声音でそう応じ、黒い影が姿を消した下流に向けて踵を返した。
狛も続こうと豺狼を目で追う。
その時――
――ゴォオオッ!!
「!?」
下流側から、重く低い轟音。
地が揺れる。
思わず足が止まった。
川下側へ移動していた奔流が砕け、黒曜の柱と紅蓮の柱が、向き合うように立ち上がる。
「変容している……!?」
遠くに見上げる焔大蛇の姿は、もはや別物と化していた。
全身の鱗が異様に膨張し、巨体が更に一回りも膨れ上がっている。
紅黒に煤けた鱗の隙間、肌理の奥が強く赫いた刹那――大きく開いた焔大蛇の口腔が閃光を放った。
対峙する露の正面に水の障壁が発生、灼熱を受け止め激しく蒸気が噴き上がる。
「うわっ!」
「下がれ下がれ!」
爆ぜる水音が谷に反響し、肌を焦がすほどの濃密な熱霧があたりを覆った。
猪牙の指示が飛び、凪の面々は斜面を駆け上がる。
入れ替わるように、白狼隊が再び河岸へ飛び出した。
「ガルルッ!」
唸り声が吹雪を呼ぶ。
氷の息吹が谷を渡り、熱波を冷気で洗い清めた。
――ゴシャァアアア!!
噴火のような咆哮が谷を揺らし、焔大蛇の全身が赫々《かくかく》と脈動する。灼熱の閃光が次々と放たれ、炎焔と奔瀑が激突した。
激しい蒸気と火雨が下流一帯を覆う。
「毒腺は焼き切ったはずだ。どこにあんな余力が……!」
唸るように吐き捨て、豺狼は青の行方を追って駆け出した。
「白蛇神、白妙殿を喰らったからであろう」
背後から、狛の声が応える。
「それは――」
豺狼は足を緩め、振り返った。合わせて狛も、立ち止まる。
「我ら神獣の血胤、その血肉の力だ。とりわけ白蛇神殿は、治癒の力が濃い」
「神獣の血肉……」
記憶を過ぎるのは、白妙の村の人々や、白兎ノ國の少年、トウキの無邪気な言葉。
『神獣様や神獣人様の血を飲むと、どんな病気やケガも治る』と。
「!」
思考を断ち切るように、下流から連続する爆音が轟く。
豺狼は弾かれたように身を翻し、再び下流へと駆け出した。
*
闇を掻く青の指先に、ふと、何かが触れた。
柔らかく、それでいて確かな感触が、指から腕へ、じわりと伝わる。
水底の闇よりなお深い漆黒の影が、そっと青の身体を包みこんだ。
「だ、れ……」
青の肺に残っていた最後の空気が、泡となって漏れ出す。
その泡の向こうに、かすかな光が燈った。
灯り。
黒い「何か」が青の体を闇の底から引き剥がした。
腹の底から内臓ごと持ち上がる――転送陣で転移する直前の浮遊感が押し寄せる。
光に向かって、青の身体は一気に引き上げられた。
暖かく柔らかな空気が、肌を撫でる。
――様
――……ウ様
高く、けれども柔らかな声に呼びかけられた。
『シユウ様!』
「……ん……」
応えようと息を吸い込んだ途端、ごぼり、と喉の奥から水が逆流した。
「っごほ、っ……!」
鼻腔に鋭い痛みが走り、激しく咳き込む。反射的に身を傾け、片手で地を突いて上半身を起こす。
地面に触れた手のひらに、柔らかい土と、湿った草の感触がした。
背中を丸め、何度も咳き込みながら水を吐き出す。次第に、鼻腔の奥に、青く香る草の匂いが満ちてきた。
『シユウ様、だいじょうぶ?』
幼い声が頭の中に響く。
蹲る青の頬に、ふわりと柔らかな毛並みが触れた。
「……え……?」
ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
まず気づいたのは、周囲を満たすやわらかな光。
焦点が合ってきた視界に映ったのは、肥沃な色をした土と若草、そしてナズナやハコベといった、人里で見慣れた野の花々だった。
「ここは、え、あれ……??」
混乱をそのまま口にしつつ、青は両手で土を押し、身体を起こす。
目の前に、黒い獣の顔があった。
「なっ!」
青はとっさに這うようにして後退するが、力が入らず、そのまま尻餅をつく。
正面に、四つ足の黒い獣が伏せたまま、じっと青を見つめていた。
闇のような体毛に包まれた細身の体、しなやかな四肢、若々しく張った大きな耳。
春の水面のように透きとおった碧い瞳が、どこか心配げに青を見つめていた。
『シユウ様、どこか痛い?』
幼い声が、再び青の頭に響く。
口は動いていない。
だが確かに、目の前の獣が語りかけていることは理解できた。
「あ……ミ、ツキ……?」
記憶を探るように名を呼ぶと、黒い獣は首を伸ばし、細長い口吻を上下に揺らす。
微笑むように開かれた口元からは、白磁のような歯列と、血色の良い舌先がちらと覗いた。
「助けてくれたのか……ありがとう……!」
青は思わず、犬や猫にするように、ミツキの口吻まわりへ手を伸ばし、やわらかく撫でる。
ミツキは気持ちよさそうに瞳を細め、その手に顔と頭をすり寄せた。応えるように、青も頭を撫で返す。
「……?」
指先に、ふと硬い感触が伝わった。
耳と耳のあいだ、頭頂に近い位置。
まるで若い牡鹿の角が芽吹きかけているかのような小さな突起が、そこにあった。
青がしばらくそのあたりを確かめるように撫でていると、ミツキはくすぐったそうに首を振る。
「あ……ごめん」
青は手を引き、改めて、命の恩人に正面から向き直った。
「ミツキは、どうして露流河に?」
『黒鉄様や獣鬼隊のみんなと一緒に、村を焼かれた人たちの避難をお手伝いにきたの。それで、シユウ様がいるって聞いて……抜け出してきちゃったんだ』
「あぁ……」
命を救われた手前、咎めるわけにもいかず、青は小さく苦笑するにとどめた。
『シユウ様、やっぱり優しいお顔』
「え、あ……っ」
額当てが首までずり下がり、素顔が露わになっていることに気づく。
咄嗟に片手で顔を覆ったが、相手は他国の、まだ幼い子ども。「大月青」として再び対面することはないだろう――そう自らを納得させ、ひとつ息を吐いてから、手を下ろした。
その指を唇の上に当て、小声で囁く。
「……内緒に、ね」
内緒、の言葉にミツキは子どもらしい悪戯めいた笑みを浮かべ、「ふふ」と小さく笑った。
『でも、どうしてお顔を隠さないといけないの?』
「……大人の事情ってやつだよ」
かつて藍鬼と交わした、よく似た会話が記憶によぎる。
青の眉目に、ひとときだけ追憶の色が差した。
「それよりも……っと」
気を取り直し、青は腰を浮かして立ち上がる。
足元にわずかなふらつきを感じつつも、体の節々《ふしぶし》を確かめたかぎりでは、骨折などの重傷はないようだった。
ミツキも、それに倣うように四肢を折り畳み、軽やかに身体を起こす。
「ここは、どの辺りだ……」
改めて、青はあたりを見渡した。
そこは、静かな支流の川べりだった。激闘が繰り広げられていた露流河とは正反対の、穏やかで澄んだ水音が流れている。
空には月が昇り、周囲は仄かな明るさに満ちていた。
「……人道?」
白い月光が、小川に沿って伸びる一本の道を照らしている。
草の根が剥がれ、土が踏み締められただけの粗末な小径。どこかの村落へ続いているのかもしれない。
「行ってみよう、ミツキ」
青はそちらへと足を踏み入れた。
『はい、シユウ様』
ミツキが寄り添うようにして、そのすぐ隣を歩く。
「あれは……」
足元に目を落とすと、道の脇に、小さな祠がぽつんと据えられていた。
中には、手のひらほどの丸い玉石がひとつ、供えられている。
「どこかで見たような……あ……」
かつて白妙の村に案内されたとき、村の入り口で見かけたものと、よく似ていた。
だが今は――白く光を映していたはずの玉石が、黒ずみ、濁っている。
添えられている花は萎れ、饅頭らしき供物は腐りかけ、形を崩していた。
「……え……」
背後を振り返る。
そこは藪に包まれ、小川の流れも枝垂れる枝葉に遮られて、上流の様子は見通せなかった。
――村に、呼ばれている。
再び道へと向き直り、青はミツキと共に、そっと一歩を踏み出した。




