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毒使い【最終章、始動】  作者: キタノユ
第四部 ―幼龍編―
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ep. 52 早春の白露(9)

「青!!!」

 最後に、豺狼さいろうの声が聞こえた。


「――っ!」

 その名を呼び返すこともできず、暗く冷たい闇に引きり込まれ、仄明ほのあかるい水面が急激に遠ざかる。


 黒い渦に体がかれ、もがくこともできないまま、体が深淵しんえんへと沈んでいった。


 そのうち、上下の感覚が曖昧あいまいになりはじめる。


 濁流だくりゅうとどろきが次第に遠ざかり、胸を締めつけていた息苦しさも薄れていった。

 浮遊するような感覚が身を包む。

 意識が、途切れかけていた。


 ――青


 誰かの声に呼ばれた気がした。


 前にも、同じことがあった。

 幼い頃、蟲之区で藍鬼らんきの殉職を知ってしまい卒倒したあの日、夢で聞いたのは、藍鬼の声。


 ――青


 けれど。

 これは誰の声だろう、これは――


「さ……ぃ……」

 瞼の裏に、あおい瞳が浮かんだ。


「――っ、い、やだ……」


 死んでたまるか。

 暗闇に向かって、青は手を伸ばす。


 そこが水面なのか、水底みなそこなのかすら判然としない。

 ただ、生にすがるように闇をいた。



 二柱の巨蛇は、もつれたまま河へと沈んでいった。

 波はしばし上流を荒らし、行き場を失った奔流ほんりゅうがうねりながら、やがて下流へと流れ始める。


「青……っ!」

 河渕かわぶちへと駆けつけた豺狼は、削れた河岸の縁からにごった水面を見渡した。


「青!!」

 再度その名を叫ぶ。

 青の姿は見当たらない。


「川下に流されたか――っえ……?!」

 振り向きかけた豺狼のすぐ脇を、黒い影が疾風のように駆け抜けた。

 薄闇の中でかろうじて、四つ足の獣の輪郭りんかくが見て取れる。


「待て! ミツキ!」

 背後からハクの声が飛ぶ。

 黒い獣影は水面を滑り、身をひるがえして急旋回しながら、水飛沫みずしぶきを散らして下流へと駆けていく。

 やがて水面へと潜り、夜河の闇に掻き消えた。


「狛殿下、今のは……っ」

 豺狼は己を奮い立たせるように息を強く吐き出し、狛を振り返る。


白狼邦はくろうほうの、獣鬼隊じゅうきたいの子だ。シユウ殿の気を追っているのだろう」

 そこに立ち尽くす狛の顔色は青ざめていた。


「面目ない……我の力不足であった……」

 言葉を絞るように吐いた狛の面差しに、豺狼は首を横に振った。


「貴方も喰われるところだった。仕方のないことです」

 低く、努めて冷静に押し殺した声音でそう応じ、黒い影が姿を消した下流に向けてきびすを返した。

 狛も続こうと豺狼を目で追う。


 その時――


 ――ゴォオオッ!!


「!?」

 下流側から、重く低い轟音。

 地が揺れる。

 思わず足が止まった。


 川下側へ移動していた奔流ほんりゅうが砕け、黒曜の柱と紅蓮の柱が、向き合うように立ち上がる。


「変容している……!?」

 遠くに見上げる焔大蛇の姿は、もはや別物と化していた。

 全身の鱗が異様に膨張し、巨体が更に一回りもふくれ上がっている。


 紅黒にすすけた鱗の隙間、肌理きめの奥が強くかがやいた刹那――大きく開いた焔大蛇の口腔が閃光を放った。


 対峙する露の正面に水の障壁しょうへきが発生、灼熱を受け止め激しく蒸気が噴き上がる。


「うわっ!」

「下がれ下がれ!」


 ぜる水音が谷に反響し、肌を焦がすほどの濃密な熱霧ねつむがあたりを覆った。

 猪牙いのきばの指示が飛び、凪の面々は斜面を駆け上がる。

 入れ替わるように、白狼隊が再び河岸へ飛び出した。


「ガルルッ!」

 唸り声が吹雪を呼ぶ。

 氷の息吹が谷を渡り、熱波を冷気で洗い清めた。


 ――ゴシャァアアア!!


 噴火のような咆哮が谷を揺らし、焔大蛇の全身が赫々《かくかく》と脈動する。灼熱の閃光が次々と放たれ、炎焔えんえん奔瀑ほんばくが激突した。

 激しい蒸気と火雨が下流一帯を覆う。


毒腺どくせんは焼き切ったはずだ。どこにあんな余力が……!」

 うなるように吐き捨て、豺狼は青の行方を追って駆け出した。


「白蛇神、白妙しろたえ殿を喰らったからであろう」

 背後から、狛の声が応える。


「それは――」

 豺狼は足を緩め、振り返った。合わせて狛も、立ち止まる。


「我ら神獣の血胤けついん、その血肉の力だ。とりわけ白蛇神殿は、治癒の力が濃い」

「神獣の血肉……」


 記憶をぎるのは、白妙の村の人々や、白兎ノ國(はくとのくに)の少年、トウキの無邪気な言葉。


『神獣様や神獣人様の血を飲むと、どんな病気やケガも治る』と。


「!」

 思考を断ち切るように、下流から連続する爆音が轟く。

 豺狼は弾かれたように身を翻し、再び下流へと駆け出した。



 闇をく青の指先に、ふと、何かが触れた。


 柔らかく、それでいて確かな感触が、指から腕へ、じわりと伝わる。

 水底の闇よりなお深い漆黒の影が、そっと青の身体を包みこんだ。


「だ、れ……」

 青の肺に残っていた最後の空気が、泡となって漏れ出す。


 その泡の向こうに、かすかな光がともった。

 灯り。


 黒い「何か」が青の体を闇の底から引きがした。

 腹の底から内臓ごと持ち上がる――転送陣で転移する直前の浮遊感が押し寄せる。

 光に向かって、青の身体は一気に引き上げられた。


 暖かく柔らかな空気が、肌を撫でる。


 ――様


 ――……ウ様


 高く、けれども柔らかな声に呼びかけられた。


『シユウ様!』

「……ん……」


 応えようと息を吸い込んだ途端、ごぼり、と喉の奥から水が逆流した。


「っごほ、っ……!」

 鼻腔びくうに鋭い痛みが走り、激しく咳き込む。反射的に身を傾け、片手で地を突いて上半身を起こす。

 地面に触れた手のひらに、柔らかい土と、湿った草の感触がした。


 背中を丸め、何度も咳き込みながら水を吐き出す。次第に、鼻腔の奥に、青く香る草の匂いが満ちてきた。


『シユウ様、だいじょうぶ?』

 幼い声が頭の中に響く。

 うずくまる青のほほに、ふわりと柔らかな毛並みが触れた。


「……え……?」

 ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。


 まず気づいたのは、周囲を満たすやわらかな光。

 焦点が合ってきた視界に映ったのは、肥沃ひよくな色をした土と若草、そしてナズナやハコベといった、人里で見慣れた野の花々だった。


「ここは、え、あれ……??」

 混乱をそのまま口にしつつ、青は両手で土を押し、身体を起こす。


 目の前に、黒い獣の顔があった。


「なっ!」

 青はとっさにうようにして後退するが、力が入らず、そのまま尻餅しりもちをつく。

 正面に、四つ足の黒い獣が伏せたまま、じっと青を見つめていた。


 闇のような体毛に包まれた細身の体、しなやかな四肢しし、若々しく張った大きな耳。

 春の水面のように透きとおった碧い瞳が、どこか心配げに青を見つめていた。


『シユウ様、どこか痛い?』


 幼い声が、再び青の頭に響く。

 口は動いていない。

 だが確かに、目の前の獣が語りかけていることは理解できた。


「あ……ミ、ツキ……?」

 記憶を探るように名を呼ぶと、黒い獣は首を伸ばし、細長い口吻を上下に揺らす。

 微笑むように開かれた口元からは、白磁はくじのような歯列しれつと、血色の良い舌先がちらと覗いた。


「助けてくれたのか……ありがとう……!」

 青は思わず、犬や猫にするように、ミツキの口吻こうふんまわりへ手を伸ばし、やわらかく撫でる。


 ミツキは気持ちよさそうに瞳を細め、その手に顔と頭をすり寄せた。応えるように、青も頭をで返す。


「……?」

 指先に、ふと硬い感触が伝わった。

 耳と耳のあいだ、頭頂に近い位置。

 まるで若い牡鹿おじかの角が芽吹きかけているかのような小さな突起とっきが、そこにあった。


 青がしばらくそのあたりを確かめるように撫でていると、ミツキはくすぐったそうに首を振る。


「あ……ごめん」

 青は手を引き、改めて、命の恩人に正面から向き直った。


「ミツキは、どうして露流河つるがわに?」

黒鉄クロガネ様や獣鬼隊のみんなと一緒に、村を焼かれた人たちの避難をお手伝いにきたの。それで、シユウ様がいるって聞いて……抜け出してきちゃったんだ』

「あぁ……」


 命を救われた手前、とがめるわけにもいかず、青は小さく苦笑するにとどめた。


『シユウ様、やっぱり優しいお顔』

「え、あ……っ」


 ひたい当てが首までずり下がり、素顔があらわになっていることに気づく。

 咄嗟とっさに片手で顔を覆ったが、相手は他国の、まだ幼い子ども。「大月青」として再び対面することはないだろう――そう自らを納得させ、ひとつ息を吐いてから、手を下ろした。


 その指を唇の上に当て、小声でささやく。

「……内緒に、ね」


 内緒、の言葉にミツキは子どもらしい悪戯いたずらめいた笑みを浮かべ、「ふふ」と小さく笑った。


『でも、どうしてお顔を隠さないといけないの?』

「……大人の事情ってやつだよ」


 かつて藍鬼と交わした、よく似た会話が記憶によぎる。

 青の眉目びもくに、ひとときだけ追憶ついおくの色が差した。


「それよりも……っと」

 気を取り直し、青は腰を浮かして立ち上がる。

 足元にわずかなふらつきを感じつつも、体の節々《ふしぶし》を確かめたかぎりでは、骨折などの重傷はないようだった。


 ミツキも、それにならうように四肢を折り畳み、軽やかに身体を起こす。


「ここは、どの辺りだ……」

 改めて、青はあたりを見渡した。


 そこは、静かな支流の川べりだった。激闘が繰り広げられていた露流河とは正反対の、穏やかで澄んだ水音が流れている。

 空には月が昇り、周囲はほのかな明るさに満ちていた。


「……人道?」

 白い月光が、小川に沿って伸びる一本の道を照らしている。

 草の根ががれ、土が踏み締められただけの粗末な小径こみち。どこかの村落へ続いているのかもしれない。


「行ってみよう、ミツキ」

 青はそちらへと足を踏み入れた。


『はい、シユウ様』

 ミツキが寄り添うようにして、そのすぐ隣を歩く。


「あれは……」

 足元に目を落とすと、道の脇に、小さなほこらがぽつんと据えられていた。

 中には、手のひらほどの丸い玉石がひとつ、供えられている。


「どこかで見たような……あ……」

 かつて白妙の村に案内されたとき、村の入り口で見かけたものと、よく似ていた。


 だが今は――白く光を映していたはずの玉石が、黒ずみ、濁っている。

 添えられている花はしおれ、饅頭まんじゅうらしき供物くもつは腐りかけ、形を崩していた。


「……え……」

 背後を振り返る。

 そこはやぶに包まれ、小川の流れも枝垂しだれる枝葉に遮られて、上流の様子は見通せなかった。


 ――村に、呼ばれている。


 再び道へと向き直り、青はミツキと共に、そっと一歩を踏み出した。


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