ep. 52 早春の白露(6)
その刹那、戦局が大きく揺らいだ。
――シャアアアッ!
――ゴッ……!
鋭く甲高い咆哮の直後、水流がせき止められたかのような濁音が谷間に響き渡る。
露の牙に食らいつかれ、川辺へと押し伏せられていた焔大蛇が、猛然と黒き巨体を振り払った。
激しく水飛沫が上がり、露の口元が紅蓮の鱗から引き剝がされると、激しく絡み合っていた二柱の巨蛇は、ついに互いの身を離した。
焔大蛇は巨体を波打たせつつ身を起こし、天を衝くように頭部を掲げた。異様に肥大した顔面が裂け、大口がぱっくりと開く。
次の瞬間――焔の大蛇は、赤黒い火炎を一直線に放ち、露へと叩きつけた。
火炎を浴びた露は、悲鳴とも怒号ともつかぬ声を上げてのたうち、水中へ潜る。
熔流のような炎が飛び散り、河岸や斜面に降り注いだ。
「うわっ!」
青の行く手に火球が落ちた。
着弾の瞬間に草も土も焼き溶かされ、剥き出しとなった地中の岩肌が黒く焦げ付く。
どろりとした火塊が地を這っていた。
「溶岩……?」
思わず足が止まる。
青は焦げた岩肌にこびりついた残火のもとで身を屈めた。まるで鍛冶場の坩堝で熔けた鉄のような半液体が、じわじわと焦土を広げていく。
「ただの炎じゃない……」
腰の道具入れから符を一枚取り出し、溶流の塊に近づけた。符は紫を帯びた黒煙をあげてあっという間に燃え尽きる。
「何してるんだ、危ない!」
「っ!」
後ろから怒鳴られると同時に、腕を引っ張られて体が引き上がった。
首を回すと、肩越しに豺狼の顔がある。
「――あ、その、あれが」
「いいからこっち」
強引に腕を引かれて、斜面に突き出た岩場まで連れてこられた。
岩場の先端には猪牙の背中も見える。
「あれを」
促されて、水上に屹立する焔大蛇を見上げる。
紅い体表から、落葉のように鱗が剥がれ落ちていた。露の牙に穿たれた箇所を中心に、つづけざまに新たな鱗が芽吹くように再生してゆく。
「脱皮?」
「再生が早すぎる」
脱皮や再生能力に優れた性質は、爬虫の性を持つ妖魔にしばしば見られるものだが、この焔大蛇のそれは、豺狼の知見をもってしても異常の域にあった。
「露公、浮かんでこねぇな……」
同じ岩場の先端に立つ猪牙が、川上の水面を睨みつけている。
水底から大小の水泡が湧き上がった。
そこへ、焔大蛇が大口を開けて水中に突っ込む。
「っ!?」
河川敷に降りた凪隊へ、夕立のような水飛沫が降り注いだ。
水面が激しく沸き立ち、ふたたび二柱の巨蛇が絡み合う。形勢は逆転し、焔大蛇がのたうつ露の胴を、鋸状の牙が並ぶ顎で深く噛み締めていた。
「!」
豺狼が岩場から飛び降り、河岸に向けて斜面を駆け降りる。同じように、数人の隊員たちも動き出した。
「まずいな……猪牙貫路の名のもとに命ず!!」
猪牙の呼びとともに放たれた式符が、大量の白煙を吐いた。
――ブゴォオオオオオ!
咆哮が轟く。
煙の奥から姿を現したのは、凪の森に棲む三ツ目猪をも凌ぐ巨体の、猪。濁声を響かせながら、水飛沫を撒いて河中へと突進する。
――ブゴッ!
巨猪はその巨躯のまま、露の胴に食らいついていた焔大蛇の面貌へ、横から体当たりを見舞った。
――ギシャッ!
衝撃に耐えきれず焔大蛇が仰け反り、その顎が露の体から剥がれる。
露は巨体を捩らせ、水面下に消えた。
巨猪は勢いのまま対岸へと突き抜け、砂煙を巻き上げて大地を削ると、巨体を翻して再び突撃の構えをとる。
焔大蛇は首をわずかに引き、巨大な口腔をふたたび開いた。
式猪もまた、蹄を深く踏み込み、頭を低くして突進した。
向かってくる猪を目掛けて、焔大蛇は再び炎を吐く。鮮やかな紅炎の幕を突き破り、猪は大きく開いた大蛇の口腔に頭から突っ込んだ。
山と山が、激突する。
――ブゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
――ギギギギギギギギギッ!
両者の力がぶつかり合い、河の真中で激しい押し合いが続く。
「がんばれ猪……! ……あれ?」
手に汗を握って猪を応援していた青の目が、違和感をとらえた。
猪にくらいつく焔大蛇の頭部の形状に、変化が生じている。 肥大化が目立っていた頭部が、今は平たく萎んでいるように見えるのだ。
「……ということはやっぱり……」
ぶつかり合う巨大な影が埋め尽くす空を見上げ、青は目を細める。
「!?」
ごぼり、と質量のある水音に河の水面へ目をやると、露の黒い巨体が天に昇るように伸び上がった。
その体からボロボロと、鱗が剥げ落ちる。
「再生できていない……」
青も岩場から飛び降り、河岸に向けて斜面を下った。
露の黒い体を水が螺旋を描きながらせりあがる。
黒曜色の顔が天を仰ぐ。
――ォオオオォオォォオオ……!
咆哮とともに軋む体を捻り上げたかと思うと、幾重もの水柱が焔大蛇を撃った。
ゴウッ、と硬質な衝撃音――水弾を食らった焔大蛇が、なおも猪に喰らいついたまま水面に叩きつけられる。
露は、力を失ったように落下して水中へと潜った。
河面がうねり、大量の水が高波となって、凪隊が降り立った河岸へと押し寄せる。
「地神・嶂壁!!」
河岸に駆け出た豺狼が、地術を発動。
大地がうなり、河岸沿いに岩壁が連なり地響きをもってせりあがる。押し寄せた激流が激突し、白き泡となって砕け散った。
「次!」
東岸に立つ士官ふたりと、西岸の豺狼がほぼ同時に動いた。言葉を交わすこともなく、三人は一斉に術に入る。
「封獄……!」
号令とともに岩壁が砕け、土塊が両岸から勢いよく隆起する。
山のような土壁が、うねるように前へと押し出された。
奔流のごとき土が左右から焔の大蛇を包み込み、その巨体を呑み込んでゆく。
――プギィイイィィィィィ〜〜〜
哀れな猪の絶叫も、土塊の奔流に呑まれてかき消えた。
河を跨ぐように、こんもりと盛り上がった土の山がそびえ立ち、さきほどまでの騒ぎが嘘のように、あたりは水音さえも遠のいた。
「……まあ……別にいいけどよ……式だし」
猪牙は複雑そうな面持ちで、猪ごと焔大蛇を呑みこんだ土の山を見上げる。
「相変わらず、凄まじい術力……」
青は周囲の者たちが距離をとって成り行きを見守る中、その隙を縫って前へと進む。
懐から符を取り出し、両の掌で土壁の面に押し当てた。
目を閉じ、全神経を掌へと凝らし、意識を土の内奥へ沈めてゆく。
「峡谷上士……彼は何を?」
「毒術師・シユウ」との任務経験のない隊員が、測るような視線を青へ向けている。
「大丈夫だ。彼に任せよう」
豺狼の断言に、隊員はわずかに肩の力を抜いた。
信頼、期待、そしてかすかな不安――様々な眼差しが青ひとりに注がれる中、
「――封縛」
その一声とともに、じわじわと腐食が始まったかのように符が溶け、土壁へと吸い込まれてゆく。
やがて、青の手が触れている箇所からゆるやかに、土塊は色を変えはじめた。
表面から滲むようにどす黒く染まり、土の性質そのものが変化を始め、圧を孕んだ鉛のように密度を増して、大蛇――ついでに猪も――を土塊の中心に沈めて閉ざした。
「これで時間が稼げれば……」
青はため息一つとともに顔を上げ、小山から手を離す。
「今のは、白兎の沼の妖魔を封じた時と、同じものか?」
一息を吐いたところを見計らい、豺狼が声をかけてきた。
青は肯き、振り返る。
「封印を強化した。けど……、奴の毒腺が満たされたら破られる。時間の問題だろうと思う」
「毒腺?」
「毒蛇の頭部にある、毒を分泌する器官のことだよ」
豺狼の問いに、青は自らのこめかみのあたりに指先を添えた。輪郭をなぞるようにして顎下までなぞり下ろす。
「奴は頭部がかなり膨らんでいて、それが、露へ炎を浴びせたと同時に萎んだ。溜め込んでいた毒素も吐き切ったんだ」
この地に到着してから青が「観て」きたもの。
焔大蛇が吐き出す炎には二種類ある。
露に浴びせた赤黒い炎と、式猪に放射した鮮やかな炎。
前者は熔流のような粘度の高い半液体であり、燃焼性が極めて高い。
後者はいわゆる気体の熱であり、式猪が耐えられるほどの火力でしかない。
「奴は歯の構造が普通の蛇と違う。蜥蜴に近いような鋸状だった。だから、毒腺は牙ではなく、喉あるいは口腔内のどこかに通じているはず。吐き出される炎は、その途中で毒腺の分泌物と混ざり合って、熔流のような粘性と異常な高熱を帯びる――」
「……」
「……」
青の説明を聞きながら、豺狼と猪牙が視線を交わした。
「なるほど。一度吐き切れば充填されるまでに猶予がある、ということだな」
豺狼の碧い双眸が、ふたたび青をとらえる。
「……ぼ……私の見立てでは」
青は頷き、唇を引き結んだ。
凪の面々は、焔の大蛇を封じた土塊を見上げる。
あたかも墓標のごとく、微動だにせず、ただ沈黙のまま聳えている。
「――露は」
口を開いたのは、豺狼だった。
水弾を放ったのち河へと身を沈めた露は、それきり姿を見せていない。
気配を求めて一同が河の流れへ目を凝らすも、水面には泡ひとつ立たず、ただ不気味な静けさだけが漂っていた。
「死んじゃあ、いねぇよな」
「河の神が死んだら、水が枯れてしまうものでしょうか?」
猪牙に応えるように、隊の誰かが、ぽつりと呟く。
「水底で体力を回復させているとか」
「もうすぐ、陽が沈む」
仰ぎ見る連嶂の向こうへ陽が沈みかけ、河面は徐々に黒みを帯びていた。
「封印を破られたとして、先ほどと同じ手が通じるとは思えない。次の手立てを今のうちに講じておこう」
豺狼の言葉に、一同が頷く。
自然と河岸の一角に面々が集まり、豺狼と猪牙を中心に半円を描いた。
「毒を吐き切らせることができれば、脅威を大きく削ぐことができる、というわけですね」
「式が焼き豚にならなかったことを思えば、通常の火力は、さほどのものではない」
「だから豚じゃねぇんだわ」
即席の軍議に、小さな笑いが生まれる。
「それより厄介なのはあの脱皮と再生力だ」
「露が本領発揮したとして、抵抗できるのか……かなり消耗して弱ってるしな……」
「……」
軍議の外側で、青はひとり、山側の森を眺めていた。
斜面のあちこちから、広範囲において白い煙が細く立ち上っている。消火団によって、火の手は全て鎮められたようだ。
「白妙の村は……無事なのかな……」
村があったはずの森の一帯には、目立った被害は見られない。
斜面を覆う木々は静かに連なり、遠目に見える梢の揺れも穏やかだった。
火球が、あたかもその一角を避けていたかのようですらある。
あるいは、あの村もまた、山吹の庵と同じく、ただそこに“在る”ように見えて、実際には異なる理に包まれた空間なのかもしれない――。
そんな青の思案に、か細い声が横切った。
――つゆ……
「え……?」
視線を山裾へ落とす。森の入り口、木の幹から小さな体を半分だけ覗かせている、白い影が映る。
白髪、白い肌、白い着物――そのすべてが、赤黒く染まりかけた西日の影に、浮かび上がっていた。
「あ、あの子は……!」
青の様子に気づいた隊員たちが、次々に振り返る。
かつて猪牙隊の西方開拓任務に加わっていた者たちの口から、その名が紡がれた。
白妙、と。
「白妙って、『例の』村の、か……?」
隊列の端で、雲類鷲が、声を潜めて隣の檜前に問う。
「ああ……惣太がいる村の、主だ……」
「惣太……っ」
雲類鷲は思わず足を踏み出しかけた。
が、わずかのところで、動きを押し留める。
幼馴染を見捨てるほかなかったあの夜の記憶が、今なお胸を離れたことはなかった。
早春の冷たい風が山野を吹き抜け、地の気は冷えを帯びる。
東西の境界は、逢魔が時の薄闇に包まれ始めていた。




