毒使い 序
その日、ただひとりの手によって、いく百もの命が静かに消えた。
*
巨大な要塞をぐるりと囲む黒々とした壁の上に、ふくれた月が白く冷たい光を落としていた。
壁を見上げる暗い森の中から、ひとつの影が姿を現す。
人影は、夜の闇に溶け込むような色の外套をまとい、頭巾と覆面で顔を隠している。
その体つきから、男であることがうかがえた。
壁へと続く藪の草地を、風が横なぐりに吹き抜ける。
足元までを覆う外套のすそが、大きくあおられた。
風が通り過ぎるのを待ってから、男はそで無しの外套の前をわずかに開ける。
ゆっくりと、黒い手甲に包まれた片手を、顔の前にかざした。
甲には銀の板がはめ込まれ、そこには勇ましい神獣の模様が彫り込まれている。
手甲から覗く指先には、長方形の紙片が数枚、挟まれていた。
「シユウの名のもとに命ず」
男は低くつぶやくと、紙片を足元へばらりと撒いた。
次の瞬間、紙は白い煙を立て、またたく間に土色の鼬へと姿を変える。
「行け」
「ギャギャギャッ」
男のひと声に、鼬たちは鋭い鳴き声をあげて四方へと散っていった。
やがて、風もないのに藪がざわめき始める。
男の足元を、小さなネズミが走り抜けた。ざわめきは水面の波紋のように広がり、大きなうねりとなって要塞へと向かっていく。
「ギャギャッ」
暗闇を裂くように、鼬の威嚇が鳴り響き、ネズミたちを追っていく。
追われる無数のネズミが、壁の下へと潜り込んでいった。
鼬たちの働きを見届け、男もまた移動を開始する。
壁の内へと続く川のほとりに膝をつき、腰の袋から薬の瓶を取り出して、そっと前へ掲げた。
「――」
ふたたび、男は何か短い言葉をささやく。
すると、瓶の中から無色の液体があふれ出し、水玉となって宙に浮かんだ。
「奔れ……」
短く、静かな命令とともに、水玉はするりと蛇のかたちに姿を変える。
水蛇は、川の流れに乗って水底へと沈み込み、井戸や湧き水へとつながる水脈に溶けていった。
命あるものに血がめぐるように、葉の隅々に水が行き渡るように――男の放った毒は、要塞の隅々へと染み渡りはじめる。
「……っふう……」
男はひとつ息を吐き、空となった薬瓶――猛毒薬が閉じ込められていたもの――を見つめた。
水を介して送り込んだ毒薬を、ネズミがさらに拡散してくれる。
井戸の水も、湧き水も、流れる川の水も、やがては蒸発し、毒が風にのって要塞内に満ちわたる。
日が昇れば、人々はいつも通りの朝を迎えるだろう。
水を浴び、朝餉の支度をし、畑に水をまき、掃除をする。
誰もが、水に触れ、口にし、毒はしずかに体へと染み込んでいく。
毒は即死にいたらない。
誰一人として逃さぬよう、時間差まだ計算し、精密に調合されている。
その日の夕暮れ時。
この頃になってようやく、異変が生じ始める。
だが、それもまだ、ほんの小さな兆しにすぎない。
頭が重い、少し熱っぽい、体がだるい、軽い咳が出る。
「今日はどうにも疲れたな……体の節々が痛む」
「あら、歳のせいかしら?」
「咳が出始めたわね、風邪でもひいたかな」
そんな日常の言葉を交わしながら、人々は心地よい眠気に抗うこともなく、床に就く。
――そしてもう、目を覚ますことはない。
やがてその城は、音のない死の要塞へと変わる。
数日もすれば、人の気配が消えたとに気づいた獣や蟲がはびこり、賊が忍び入ることになるかもしれない。
巷で、「疫病だ」「祟りだ」との噂も、広がるだろう。
ただひとりの毒使いが、たった一夜のうちに要塞を落としたなどとは、誰も知る由もない。
*
歴史の闇に潜む、毒使い。
その頂点をめざす男の物語は、遠い幼き日の記憶から始まる。