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「俺、このバンド辞めようと思うんだ」


 一ノ(いちのせ)優太(ゆうた)がつぶやいた声は、洗面台に流れる水の音にかき消された。ふと我に返り、自分の顔を洗う。腕に感じる鈍い筋肉痛のような怠さが、否が応でも心身の疲れを思い起こさせた。


 優太は鏡に映る自分と目を合わせる。寝不足が続いているせいか、目の下にはひどいクマができていた。疲れきった顔から目をそらすようにタオルで顔をふき、ユニットバスのドアを閉めて部屋に戻る。

 疲れを吐き出すように深いため息をついて、優太はベッドに寝転がった。

 住んでもう十年になる八畳のワンルーム。住み始めたころ、「もっとでかい家に住んでやる」と当時の恋人に話していた記憶も、今の優太にとっては苦い思い出になっていた。

 あれから十年、優太が人生をかけたバンドは、今もなお続いている。


――衝撞(ショウドウ)的バンド、CANARIA(カナリア)


 衝撞的バンドというキャッチコピーは、当時所属していた事務所のプロデューサーがつけたものだった。リーダーでありボーカルの鐘鳴(かねなり)暁人(あきひと)は「ありきたりだ」と猛反対していた。優太も同じように、プロデューサーからありきたりなバンドだと烙印を押されたようで、いい気はしていなかった。


 結局、その事務所とも長くは続かなかった。夢をつかむためにと手を取ったが、フタを開けてみれば事務所とバンド、お互いに進もうとしている道は大きく違っていた。事務所を辞めて残ったのはボーカルの鐘鳴暁人とギターの一ノ瀬優太の二人だけ。

 そこからメンバー探しに奔走し、がむしゃらに曲を作り、ライブをし、小規模なライブハウスであれば満員をだせるくらいにはなった。それが、三年前の話。


 そこからバンドは成長も退化もしていない。すっと平行線のままだった。


 優太も暁人も決して貧乏ではない。ただ、バンド一本で生計は立てられない。SNSでエゴサーチをすれば日に三、四つバンドの話題が引っかかる。これと言って不満はないが、満足もできない。

 そんな、ぬるま湯のような生活がずっと続いていた。


 このままでいいはずはない。けれど、どうしていいのか分からない。ついさっき洗面台でつぶやいた言葉は、とにかく変化しなくてはならないという焦燥感から口をついて出たものだった。


 優太は緩慢な動作で壁掛けカレンダーを見る。明日は新アルバムの最終チェック日だった。

 もし言うなら、明日がベストかもしれない。と、優太は思う。そのまま、自分が辞めると言ったときのメンバーの様子を想像した。


 おそらく言ったそばから辞める、ということはないだろう。CANARIAの楽曲はすべて優太が作っている。まずは「お前がいなくなったら、バンドは解散するしかなくなる」と暁人が言うはずだ。そのあと、優太が抱いている焦燥感の話を聞き、メンバーは今のままじゃ駄目だと話し合う。


 しかし、それは何度も話し合ってきたはずだった。すべてのアイデアが出尽くしての今なのだ。


「結局、変わんないのかなぁ……」


 優太の意識がベッドに引きずり込まれそうになったとき、耳元に置いていた携帯電話が鳴った。

 着信は暁人からだった。優太は今の今まで考えていたこともあり、少し気まずい気持ちになる。


「悪い。寝てたか?」


 携帯電話の受話口から暁人の低い声が聞こえた。


「今から寝るところ」優太はため息混じりに言った。

「そうか。さっき佐久間さんから連絡あって、マスタリング終わったって」


「……佐久間さん、て誰?」

「マスタリングとか、色々頼んでる人だよ」

「あれ、前の人は? えっと……」

「あいつにはもう頼まない。勝手にボーカル修正してくるし、色々口出してくるからな」


 暁人の言葉を聞いて、優太は笑った。


「相変わらずだな」

「なんだ、悪いかよ」

「いや別に」優太は笑いながら首を振った。「で、なに?」

「お前がよければ、一日前倒して確認しようかと思って」


「今から? スタジオでってこと?」

「お前の部屋スピーカー使えないだろ」

「それは、確かに」


 優太は小さく呻きながら起き上がった。


「俺、夜勤明けでさっき帰ってきたんだけど」

「さっき? お前、いつもこの時間はだらだらしてなかったっけ?」

「新人がミスってそのフォロー。しかも多分、サビ残」

「相変わらずだな」


 暁人のため息に混ざって、車のエンジンをかける音が聞こえた。


「で、どうすんだよ。まぁ、体調悪いなら明日でもいいけど」

「……行くよ。スタジオどこ?」


 寝不足からの夜勤、そして一時間以上の残業。めまいで足をふらつかせながら帰ってきたが、それでもバンドのアルバムが完成するとあれば寝てなんかはいられない。優太は偏頭痛で痛む頭を抑えて立ち上がった。


 こういう星の下に生まれてきたのだから仕方ない。優太はそう自分に言い聞かせて、座椅子に適当にかけていたコートを羽織った。

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