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凪咲家の食卓は、CANARIAの初ライブ前と同等、いや、それ以上の緊張感に包まれていた。
いただきますを言ってからは誰も言葉を発しない。姿勢、箸の持ち方、食べる順番すらも決まっているらしく、優太は奏恵に指示をされながら、慎重に食を進めていた。
優太の隣に座る男の子を奏恵は「弟。四つ下」と紹介した。難易度の高い咲家の食卓を当たり前のように攻略していく弟の姿を見て、優太は心の底から感心した。
不意に鼻の頭が痒くなる。優太は思わず箸を持った手で鼻を掻いてしまった。その瞬間、向かいの席から鋭い眼光がほとばしる。優太は反射的に目線をそらして小さく頭を下げた。
『それくらい我慢してよ』
優太はもう一度小さく頭を下げ、食事を続けた。
どうやら凪咲家は、父親が絶対的な権力を持っているらしい。一ノ瀬家の食卓といえば、父親がずっと喋り、優太がそれを注意することも多かった。そんな優太にとって、この食卓は息苦しく料理もほとんど味わえなかった。
ふと、優太は自分の父親のことを思い出す。母親は数年前に病気で亡くなっていた。一人っ子である優太の夢を、一人暮らしの家でずっと応援してくれていた父。
そのまま優太は、自分が車に轢かれたあと、父はその知らせを受けたのかが気になりはじめた。どうして今まで考えなかったのだろう。目の前に起こった事柄に流されてここまで来たが、まずそれを確認するべきだったのではないだろうか。
そして、暁人。自分がスタジオの前で死んでしまったことを知って、どんな気持ちになっただろう。
「……姉ちゃん、どうしたの?」
ふと声が聞こえた方に優太は顔を向ける。すると、奏恵の弟が不安そうに優太を見ていた。
「えっと、なにが?」
「いや、だって……」
奏恵の弟は表情を変えないまま父親と母親を見た。優太も同じように二人を見る。二人も優太の顔を見て驚いた様子だった。
「え、どしたの」
優太が言い終わるのと同時に、手の甲に水滴が落ちた。
「あ……」
そこで優太は、自分が涙を流していることに気がついた。
「いや、ご、ごめん。別になんでもないから」
優太は慌ててリビングを出て、二階にある奏恵の部屋へと逃げこんだ。
落ち着こうをすればするほど、優太は父親と親友のことを思い出してしまい、その度に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。拭っても拭っても涙は溢れてくる。
優太は気持ちを落ち着けるために、なんとか別のことを考える。これほどまでに涙を流したのは、事務所から独立するときのいざこざでメンバーが去り、ついには暁人と二人になってしまったあのとき以来だった。
その日の夜、隣の部屋の住人が心配になって訪ねてくるほど泣きはらした。そして翌日、暁人と再起を固く誓ったのだった。
ようやく感情がコントロールできるようになり、優太は深呼吸をする。机にあった箱からティッシュを一枚とって涙を拭った。
『ちょっと』奏恵は不機嫌そうに言った。
「あ。ごめん。ご飯、途中だった」
『いや、それじゃなくて』
「え?」
『目こすらないで。明日腫れちゃうから』
優太は言われたことの意味が分からず、返す言葉が見つからなかった。
『涙を拭くときはティッシュを目に当てるだけにしてよ。そしたら明日腫れないから』
思ってもみなかった奏恵の指摘に、優太はこみ上げてくる笑いを抑えられなくなった。
『え、こわ。どしたの?』奏恵は明らかに動揺した様子で尋ねる。
「いや、ごめん……はは、それ、今言うこと?」
『今言わないでどうすんの?』奏恵は呆れた様子で言った。
「そりゃ、そうかもだけど……」
涙も笑いも収まり、優太は深呼吸した。
『落ち着いた?』
「うん。ありがとう」優太は誰もいない空間に向かって頭を下げた。
『で、どしたの?』
「いや……」優太は奏恵に言われた通りに涙を拭う。「ご飯食べてたら俺の親父のこととか、暁人……えっと、一緒にバンドやってたやつのこと思い出しちゃって、そしたらなんか、いつの間にか泣いてた」
奏恵はため息をついた。
『理由聞いてもよく分からないんだけど……』
「それはまぁ……。奏恵ちゃんからしてみれば、そっか」
奏恵にとって、優太はまだ生きている存在だからこそ、ピンとこないのかもしれない。優太は自分が死んでしまったかもしれないことを再び伝えようと思ったが、出たのは別の言葉だった。
「……お父さんに怒られるかな」
『いや、流石に大丈夫じゃない』奏恵は満足気だった。『むしろよくやったって感じ』
「よくやった?」
奏恵は優太の質問を無視するように言った。
『今日はもう寝ちゃえば? 疲れたでしょ』
「……そうだね。寝ようか」
奏恵の様子を察して、優太も追求はしなかった。
「はぁ、今日は色々あったな……」
『あ。ちょっとまって』
優太が布団に腰を掛けたとき、奏恵は思い出したような声を出した。
「ん? どしたの?」優太は尋ねる。
『寝る前にお風呂入ってよ。今日めっちゃ汗かいてたでしょ』
「えっ!」
『やめてよ。私の声でそんなカエルみたいな音出すの』
「あ、いや、そんなつもりは」
優太は急に胃が痛くなってきた。流石に自分が奏恵を風呂に入れるわけには、と思ったが、他に手段がないことは分かりきっていた。
「いや、その、あれだよ。お、俺がその……入っても……?」
奏恵は少しの間を空けたあと、大きなため息をついた。
『意識しすぎててキモい』
優太は音もなくその場にくずおれた。