1 〜Entelekheia〜
驚いた。
混乱した。
とまどっていた。
だけど一番感じたのは――嬉しかった。
きっとそれが、正直な答え。
だけど、夏川愛海が口に出した答えは――
「何しに来はったの?」
ちっともかわいくない答え。
正直になれない自分が、醜くただれた肌よりもずっとずっと嫌いだった。
「別に来んでもよろしゅうおすのに……大げさどすなぁ」
思ってもないことが、口からこぼれ落ちる。
「うちな、もう運動できる身体なんよ?」
言って、愛海は左腕をくるくる回してみせる。――右腕は、回せなかったけど。
実際、手術を終えて、皮膚細胞もだいぶ回復している。火傷と麻痺は残るが、日常生活にさしたる支障もない。
だけど……。
「こない包帯ぐるぐるまきにしはらんと、も少し動きやすうしてほしいわ」
――そんなことが言いたいわけじゃないのに……。
「最近の医療技術はほんにすごいどすやろ。うちも生体医工学専攻し直そかて、ぐらついてしもたわ」
――もっと言いたいこと、たくさんあるのに……。
「…………」
どうしたことか、そらはベッドの脇に腰を下ろしたまま、じっとしている。
ただただ静かに、愛海を見つめ続けていた。
「……なんか言うてよ」
小憎らしい言い方だと、彼女自身にも分かっていた。
「ほんとに何しに来たん?」
本心じゃないと、分かっていた。
「今までずっと無視してたくせに、いまさら……」
単なる八つ当たりだってことも、分かっていた。
素直になれない自分が、ひどく苦しい。
それなのに、そらはくすくすと笑っている。
彼の反応が、少し悲しい。
だってそれって、愛海の気持ちなんてどうでもいいってことじゃないの?
「……僕、もうすぐ死ぬかもしれないって言ったら、笑う?」
「……え?」
それがどうしようもない勘違いだったということに、愛海はようやく気づく。
「粘菌による事件ね……。実は共通点があるんだ。――【感染源】がいる」
「…………」
「夏にね、肝だめしがあったんだ。5年前の事件があった校舎の近くの廃工場。そこへある部活のチームが度胸だめしにと忍び込んだ。そこで見つけたんだ……黄色のバケモノ。それを教官に見つけられてどやされて――」
「…………」
「彼らを媒介にして、たくさんの人に感染して、みんなの心の弱みに付け込んで、自殺や他殺を繰り返しているんだと思う。人間は、ひどく弱いからね」
「それと何の関係が――」
「感染してるんだ」
「………………え?」
「行ったんだよ、僕も。――肝だめしに。僕の脳ね、ほとんど侵食されてるんだよ。……侵食されてるんだ」
「そんなわけ……」
「fMRI(磁気共鳴画像診断装置)とCTスキャンで何十回も頭蓋骨を透かしてるんだ。間違いないよ」
「それじゃあ……」
「僕は死ぬよ。残念だけど」
肝だめしになんかつきあうんじゃなかったなぁ、と彼は笑った。
「なんで……?」
愛海には、ちっとも理解できなかった。理解するにはあまりにもいきなりすぎて――また、衝撃的すぎた。
「……なんでそないなこと、あっけらかんと言えるん……?」
「いなくなるための準備は結構進めてきたからね。愛海にもいろんなこと教えてきたし……もう僕は必要ないでしょ?」
「そんな……」
「触っちゃだめ」
つけ離すようなそらの言葉に、愛海の伸ばそうとした手が凍りつく。
「今の僕は人間か分からない……。人の血をすするドラキュラか……それとも死体の肉を食べるゾンビか……。それとも、もっとひどい何かなのか……。」
声が震えている。恐れているのだ。
死ぬことなんかじゃない。
そらが恐れているのは――自分自身の感情だ。
「今日はお別れを言いに来た」
「え……?」
「もう二度と、僕に近づいてこないで。……お願いだから」
とても優しい口調で、とても残酷なことを口にする。
立ち上がり、背を向けて、彼は言った。
「さよなら」
そのまま去ろうとして――動きが止まる。
長い静寂。
聞こえるのは、月の光がこぼれる音……。
「…………。離してよ……」
そらが、目もあわせずにつぶやく。――震える声で。
愛海はいうことを聞かなかった。彼の袖を引っ張ったまま離さない。
「うそ……つかんといて」
「嘘じゃないよ」
「ならもっと言うて」
「……?」
涙をぬぐいながら、愛海は勇気をこめて告白する。
「うち、嬉しかったんよ。くーちゃんが来てくれて」
昔の呼び名で、昔の言い方で、彼の名を呼ぶ。
「…………」
「感染とか粘菌とか言うてても、そんなんかなぐり捨てて来てくれたことが、とってもとっても嬉かったんよ?」
「…………」
「うちも言うたから……せやから……本当のこと言うて……? わかるんよ……。うちと同じで……うそついてること……」
「…………」
「くーちゃんの、したいようにして? うち……全部受け入れるから。受け止めるから……」
「…………」
「お願いっ! 本当の気持ち隠さんといて!」
その瞬間、袖をつかんでいた手が振り払われる。
衝撃とともに、視界が反転するのが分かった。
彼に押し倒されたのだと気づくのには、少し遅れる。
「…………」
硬く抱きしめたまま、そらは愛海の顔の横で、枕に顔をうずめている。
たぶん、はぶてた顔をしているのだろうと思う。
どんなに立派なお題目並べたって、結局人間なんて、男なんて……と不満そうにしているのが、とてもよく分かる。
彼は真面目だから。自分よりも、他人のことを優先する人だから。
たとえ、粘菌に感染されたって……。
可愛くないなぁ、と愛海は苦笑する。
――だから、可愛い。
――だから、愛しい。
肺が震えてしまいような、心臓が潰れてしまいそうな緊張とともに、彼は言った。言ってくれた。
「……愛海が好き」
驚いた。
嬉しかった。
やっと名前で呼んでくれたこと。
やっと本当の気持ちを届けてくれたこと。
彼の声が全身に響いて、余韻で心が満たされる。
「笑ってても泣いてても失敗しても……。ぜんぶまとめて大好きだよ」
「…………うそつき」
素直になれない自分が、少し悲しい。
そらは苦笑した。さっきの愛海と同じように。
もしも自分と同じことを想ってくれているのなら、それはそれで嬉しいかも知れない。
「……好き」
「うるさい」
「……好き」
「信じへんえ」
「……好き」
「うるさいわ」
「…………」
「大好き……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………。もっかい」
「……え?」
「もっかい言うて」
「……好き」
「もう一回」
「好き……」
「もっと」
「好き」
「もっと言うて」
「大好き……」
「……うれしい……」
やっと心が素直になる。
今、気づいた。
心臓が潰れそう。
肺が震えてる。
間違いない……
(うち……感染してしもうた)
粘菌とはまるで別のもの。
もっともっと、温かいもので満たされている……。
「くーちゃん?」
「ん?」
耳元で、愛海はささやいた。
「うちな、もう……運動できる身体なんよ?」
愛海は、ゆっくりと手をのばして、そらの頬を包み込む。
それが何を意味するのか、そらはすぐに分かったようだ。
月明かりに照らされて、薄い影が静かに重なった。
傷だらけになってしまった身体で、
すっかり大人びてしまった身体で、
子供のころより低くなってしまった声で、
子供のころのままの気持ちで、
そっと――恋人の名を呼んだ。
残夏の暑さで――ふたりの境が蕩けていく……。