197話:そばにいてくれる意味
シェイラが、ヤルチェの才に気づいたのは、たまたまだった。
工芸の時間。自鳴琴の円筒と呼ばれる部分を作る授業だった。モルリオールの伝統工芸に親しむ時間。その程度の意味しかない授業だったが、子どもたちは、熱心にそれぞれの品を作り上げていた。特に、ヤルチェの集中力は、シェイラが近くに来るのも気づかないほどだった。
そうして覗き込んで、シェイラは観た。
彼女の指先から流れ出す〈導脈〉の魔力。木製の円筒部分をやすりでなめらかにするだけなのに、指先から円筒に、木目を伝うようにして魔力が込められていく。表面に木杭を打ち込む時も、金糸雀が歌うように魔力は囁かれていく。
できあがった木製の円筒は、実際には音を鳴らすものではなかったけれど、作り終えた時の達成感のあるヤルチェの顔と、以前、彼女が父の自鳴琴を熱く語る姿を思い出すと、シェイラは笑みを浮かべていた。
その様子を、シェイラはウショーに伝えた。
古兵の筆頭教導師は、額に波のようにしわを刻む。深く、考え込むように波打ち、それから次第に後悔のようなものが、打ち寄せてきているようだった。
「……少し、考えてもよいでしょうか」
ぽつりと、漆喰に染み込む低音が投げられる。
「はい」
シェイラも同調するように静かに返す。
その場は、解散となった。シェイラは、ウショーの時間が心配だったけれど、ウショーはもう、そんなことは気にしていないようで、常夜灯の漏れる教導館の執務室に吸い込まれるように戻っていった。
ウショーの背中に頭を下げると、シェイラは教導館をあとにする。
「──遅かったね」
正門近くの、宵燈の下、そこにイディオンが背を預けていた。温白色に照らされているのに、イディオンの銀色は、そこから抜け出たように際立っている。
「お待たせして、すみません」
シェイラは詫びをひとつ告げて、横に並ぶ。石橋を渡って、風琴亭へと戻る道を歩む。
会話はなかった。
シェイラの頭は、ウショーと話していたことが渦巻いていた。
「うまくいった?」
ややもすると、イディオンが口を開いた。シェイラに視線を下ろす。
「……まだ、わかりません」
シェイラは、見上げて返す。
ウショーがシェイラの話をどう捉えたのかはわからない。シェイラが話したことを受け取るのはウショーだ。人を変えることはできない。ならば、シェイラは、あとは待つしかない。
期待しすぎずに、ただ待つ。期待というものは厄介な代物だった。なにかをすると勝手に自分にとって都合のよい反応を妄想する。その反応が返ってこなければ、勝手に落胆する。そうして、自分のなかで勝手に相手の印象を悪くする。
それは、人と人との交流を時に悪くするものだ。
魔導師として、心ノ理学を学んだものとして、自覚的であるべきことだった。
自分のなかに生じそうになる期待を、俯瞰するようにする。そうすれば、勝手に落胆するようなことはなかった。
だから、瞑想をするようにして、シェイラはウショーを待とうと思っている。
「そうか」
イディオンは、シェイラのそんな心中を理解したように相槌ひとつのみで、その話題を終える。
「なにか、ちがうことを考えていた?」
代わりに、別の問いを投げられる。
「少し、浮かない顔をしているから」
シェイラは不思議な気持ちで、イディオンを見返す。
(よく、見ていらっしゃいます)
表情に出したつもりはなかったが、そういえば、イディオンは三年前の時点から、物事をよく観察していた。
シェイラの描いた〈ユベーヌのまじない〉の魔法陣も、その観察眼で見破られたのであったと思い出す。
(思えば、あれがはじまりでした)
シェイラが、イディオンに諸々話してしまうきっかけは。
そんなことを胸中に思い出しながら、シェイラは微笑し、考えていたことを吐露する。
「努力とやる気というものについて、考えていました」
シェイラは爪先を蹴った。{浮遊}する。
この話題は、イディオンと目線を合わせたかった。
「ウショー師は、ご自身の経験から、努力とやる気を出せば、成功につながると思っていらっしゃったのです。師の過去の話を聞けば、そう思うのは納得できました。思い出の詰まった、素敵なお話でした」
ウショーの熱っぽい様子を思い出す。
「話を聞いていると、そうだなって思えたんです。努力とやる気さえあれば、乗り越えられると」
「……うん」
「だから、共感できましたし、ウショー師には共感を返しました。それはおそらく伝わったかと思います」
ウショーの反応は悪くなかった。時間を気にせず話してくれたのだから。
「──ですが、共感する自分とは裏腹に、昔の自分が腹を立てるんです」
それを、シェイラは表には出していない。自分の感情には乗っ取られなかったはずだ。
「努力とやる気だけで乗り越えられていたら、わたしは、こんなふうになっていないと」
「…………」
「努力して、やる気を出しても、どうにもならないものがあるのだと、昔の自分が叫ぶんです。ただ見えないだけで、どうしようもないものもあるのだと」
シェイラの声には、いささか感情が乗っていた気がする。自分のなかで距離を取っていたものが近くなって、声に伝播したようだった。
夜闇に響いて、やがて消えていく。
「そうだね」
消えそうになったところを、柳弦の音が継ぐように響く。
「そう思う」
イディオンの声は、凪いだ水面のように、落ち着いていた。シェイラは振り返って、水鏡を見るように覗く。
「努力とやる気だけでどうにかなっていたら、ぼくもシェイラも困らなかったよ」
「…………」
「きっと、ぼくだったらその場で怒っていた。ふざけんなって。じゃあ、あの積み上がった紙束はなんだったんだって罵倒していたと思う。けれど、シェイラは師に共感したんだね」
「……はい」
「それは、あなたのすごいところだ。自分のことをわかって距離をおいて、魔導師として、だれかを導こうとしている。人と接しようとしている。自分の感情に人を巻き込まない。それは、ほんとうにすごいことだ。そういうあなたを、ぼくは心から尊敬している」
安らかに、聞こえる。
「だから、今は怒っていいよ」
イディオンは、いつも真っ直ぐだった。どこまでも真っ直ぐで、芯がある。
縹色の水面を覗き込むと、それがよくわかる。シェイラの過去を知っているからこその労りとやさしさが滲んでいることもよくわかって、怒りなんて湧きようがなかった。水鏡が反射して、凪いだ落ち着きが伝わってくるように、ざわめいていた気持ちが鎮まっていく。
シェイラは、前を向く。
「……ありがとうございます」
鎖骨のあいだにある青銀石を握る。
顔を、見られたくなかった。
年上の、二十二になった自分の、意地だった。
きっと、多くを考えているはずのイディオンは、それ以上なにも言ってこなかった。不必要に、シェイラとの距離を詰めてくることもなかった。
──イディオンが近くにいて、自分のそばにいてくれるということ。
シェイラは噛み締めるように、青銀石を握り込みながら、宵闇にしばらく浮かんでいた。




