「ふたりとわたし」
それから、紗月は透の前に現れなくなった。
それは、ゆっくりと日常に溶け込む“喪失”だった。
最初の数日は、透も深く考えないようにしていた。
もしかしたら疲れているのかもしれない。
あるいは、紬の心が落ち着いたから、もう出てくる必要がなくなったのかもしれない――
けれど、日が経つごとに、胸の奥に残るのは、そんな理屈では説明のつかない寂しさだった。
食器を洗っているとき。
駅のホームで電車を待つとき。
夜のコンビニからの帰り道、ふとした拍子にあの声が聞こえた気がして。
「……ごめん」
そう、小さく呟いた声も、誰に届くわけでもなく夜に吸い込まれていく。
謝らなければならないと思っていた。
あの夜、彼女が見せたあの痛みの表情を、透はずっと忘れられずにいた。
“守るための存在”だったはずの紗月が、あんなふうに壊れそうな姿で立っていたのだ。
なのに、自分は――
「……ちゃんと、向き合えなかったんだよな」
コーヒーの湯気が、曇った窓をひとつ撫でて消えていく。
その儚さが、今の彼女の存在とどこか重なった。
一方、紬の様子に大きな変化はなかった。
仕事にも復帰し、透との会話にも穏やかな微笑みを浮かべていた。
何も問題がないようにすら見えた。
けれど。
透は気づいていた。
紬の目の奥に、どこか言葉にできない影が差していることに。
ふと話が途切れたとき、言いかけてやめる仕草が増えたことに。
そして、透が見せる表情に、何かを探すような視線を向けていることに。
――紗月のことを、紬も感じ取っているのだ。
自分の中に、確かに存在していたはずの“誰か”が、もう返事をしてくれない。
それは、“心のどこか”が失われたような感覚だったのかもしれない。
けれど紬は、そのことを一言も口にしなかった。
ただ、静かに、どこか満たされない想いを抱えながら、日々を過ごしていた。
時間は流れ、季節の境目が近づいていた。
雨が降る日が少しずつ減り、夜風が涼しさを帯び始める。
透も紬も、それぞれの生活の中で、変わらず息をしていた。
けれど――
何気ない日常の中で、
コーヒーの香りの中で、
夕暮れの色が窓辺に射し込む瞬間に。
どこかに、“彼女”の不在が、いつもそっと染み込んでいた。
まるで、決して触れることのできないやわらかな影が、二人の間に横たわっているようだった。
――――
そのあいだ、紗月は、何もしていなかった。
ただ、奥でじっとしていた。
暗がりの底、光も風も届かない、音も湿り気も薄いその場所で、
彼女は長い時間、膝を抱えたまま、目を閉じていた。
外の世界は静かだった。
日々は流れて、季節がふたつ、すれ違っていった。
紗月は、その流れの中に身を任せていた。
もう、自分が出ていく理由も、場所も、わからなかった。
──でもある日、ふと、
彼女は胸の奥で小さな灯のような気配に気づく。
それは、紬の中で揺れている想いだった。
紬が透と出会ってから過ごしてきた時間の、断片。
小さな感情が、織り目のように丁寧に積み重ねられていた。
紗月は、その記憶の糸を静かにたどり始めた。
最初は、他人のもののようだった。
だけど、触れていくうちに、それはだんだんと色と体温を持ちはじめる。
──透に名前を呼ばれて、ふと振り向いたときの胸の高鳴り。
──ぎこちなく差し出されたコンビニの袋に、小さな優しさを感じたこと。
──「また明日」と言われて、心のどこかがふわりと揺れた日。
それは、紬が見た景色だった。
一つひとつが、小さくて、頼りなくて、でもどこまでも柔らかかった。
恋をしていた。
不器用で、自信がなくて、言葉にできないまま、
でもまっすぐに、透に惹かれていた。
その気持ちは、紗月の胸の奥に、じんわりと沁みてきた。
(ああ……この子、ずっと……)
淡くて、懐かしくて、
胸の奥が少し切なくなるような気持ちだった。
それは自分のものではない──でも、否定できなかった。
たしかに、紬は透を想っていた。
そしてその想いは、誰の目にも触れないまま、
静かに、けれど確かに、そこにずっと在り続けていた。
紗月は、目を閉じたまま、
胸の内でそっとつぶやいた。
(……紬。あなたは……ほんとうに、透が好きなんだね)
その言葉が、自分の中から自然に出てきたことに、
少しだけ驚いた。
そして、少しだけ、寂しかった。
外の世界では、透はきっと、今も変わらず過ごしているのだろう。
笑ったり、悩んだり、誰かと話したりしながら。
でも、あの夜のことは──もう、思い出さないようにしているかもしれない。
それでも、紗月は知ってしまった。
紬の中にある、透への、あたたかな気持ちを。
それは、触れてはいけないようでいて、
どこか、羨ましいくらいに眩しかった――