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「その手は、誰のもの」

 



 夕暮れが、部屋を静かに染めていた。


 ソファの上、毛布にくるまって目を閉じていた紬のまつげが、ふと、微かに揺れる。

 それは、風のない水面に小石を落としたような、小さな波紋だった。



 しばらくの沈黙ののち――



 彼女はゆっくりと目を開ける。

 けれど、そこに宿ったまなざしは、もうさっきまでの“紬”のものではなかった。

 瞬きをひとつ。指先が小さく動く。

 それはまるで、そっと世界に触れるような慎重さで。



「……今日は、ね」



 その声はかすかに震えていた。

 柔らかく、でもどこか意志を帯びた声。

 それは紛れもなく、紗月のものだった。



 以前よりも、少しだけ早い時間に。

 部屋の灯りはまだ点けられておらず、窓の外の橙がかった残光が、透の部屋の壁にゆっくりと滲んでいた。


 透はその変化に気づいていた。

 驚きはもうない。ただ静かに、目を細めるだけだった。



「……どうしたの?」



 彼が問いかけると、紗月はことばを探すように視線を落とした。

 ほんの少しだけ口角を上げたが、それは微笑みというよりも、どこか迷いを帯びた表情だった。


「……何もないの。ただ……」



 ひと呼吸、置いて。


「ねえ、透。手、つないでもいい?」



 その言葉に、透は軽く目を見張った。

 だが、それは拒否の驚きではなかった。ただ、紗月のその声の奥に、触れることへの強い“希い”が滲んでいたことに、戸惑いを覚えたのだ。



(こんなふうに、紗月が求めてくるなんて……)



 彼はゆっくりと、差し出されたその小さな手に、自分の手を重ねた。

 柔らかくて、少しだけ冷たい。



 けれど、その冷たさに、彼女の“存在”が宿っているように感じた。



「……あったかいね」


 紗月がぽつりと言った。



「ほんとは、触れ合えるなんて、思ってなかったんだ。……最初は、見てるだけで、話せるだけでよかった。でも……透の手に触れたら、なんかね……」


 彼女は、ふと黙った。

 ほんの数秒。

 でも、それは確かに“感情”を選ぶための沈黙だった。



「……わたしも、ほしかったのかもしれない。紬と同じように」



 その言葉に、透の胸がかすかに痛んだ。




 “紬と同じように”。




 それはつまり、紗月もまた、同じものを望んでいるということ。

 誰かに触れられること、誰かに心を向けられること――

 それが彼女の中にも、確かに芽生えてしまったということ。



(でもそれは、いいことなのか……?)



 彼はふと、そんな疑問に突き当たった。

 紗月が感情を持つことは、喜ぶべきなのか、それとも――


 そんな思考を止めるように、紗月が手をぎゅっと握った。


「……透、ねえ、わたし、あなたに見てもらえるたびに……」


 その瞳が、潤んでいた。

 言葉を結ぶ前に、感情があふれ出すように。


「……ほんとうに、嬉しいの。名前を呼ばれるだけで、わたし、ここにいてもいいんだって、思えるの……」



 そして、次の朝――


 紬は、寝起きに、なぜか手のひらをじっと見つめていた。


(あれ……)


 どこかで、誰かの手を握っていたような。

 温かくて、柔らかくて――でも、その感触が“透”のものなのかどうか、すぐには分からなかった。


(……最近、夢が多いな)


 そう思いながら、ベッドから起き上がる。

 だが、胸の奥が、妙にざわついていた。

 何かを奪われているような感覚。

 それは、感情というよりも、本能に近いものだった。


(透くんに……何か、あった?)


 そう考えるたびに、自分の中で言い表せない何かが、じわじわと広がっていく。

 それはまるで、微熱のように自分を蝕んでいく。



 ―――そして徐々に紬の知っている透が“ズレて”いく



 いつも通りの、透と一緒の帰り道、妙な違和感を覚えていた。

 透は何気ない顔で「また、手……冷たいね」と言った。



(手……? いつ、そんなこと……?)



 たしかに最近、透との会話の中で、微妙に話が噛み合わないことがある。

 透のまなざしが、少しだけ遠くを見ているときがある。



(わたしが、いない間……誰かと、話してる?)



 胸の奥で、何かがひりつく。

 知らない記憶。知らない時間。

 そして、知らない感情――



 透が、ほんのわずかに“優しくなっている”ことにも気づいていた。

 それは決して悪い変化ではないのに、心の奥がざわめいてしまう。



(……わたしじゃない誰かが、透くんの中に残ってる?)



 その“誰か”が、自分の中にいるという矛盾。

 理解しきれない不安が、じわりと心を侵食していく。




 そして、透自身も――


 ある夜、紗月の姿が現れなかった日。

 ひとりで静かな部屋に座っていた。


 紗月が来ない夜が、こんなにも“空白”に感じる。

 それが、透自身を驚かせた。



「……おかしいよな」



 彼は独り言のように呟いた。



(もともと、会えないはずだったんだ。紗月は、“彼女”じゃない。紬の中にある“人格(存在)”であって――)



 だけど、いつの間にか、その境界が自分の中で曖昧になっていることに気づく。

 紗月の声を待つようになっていた。

 紗月の手の温もりを、頭のどこかで求めていた。



(……このままじゃ、いけない)



 はっきりと、そう思った。


 この感情は、どこかで終わらせなければならない。

 けれど、それがどの瞬間で、どの言葉で終わるのか――今はまだ、わからなかった。


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