冬、夜明けの3
アキトが目を覚ましたとき、外はまだ真っ暗だった。コートをきて、大きなカゴを持って、玄関を静かに開けた。
風はやんでいる。シンと冷えた空気。生き物がまだ眠っている時間の静けさ。夜空に瞬く星。真っ黒な木の影。
アキトは白い息を吐きながら川のそばまで歩いた。自分の足音が静かな夜をきざんだ。川のゆるやかな水音が近づいてくる。
昨日のうちに、たき火の準備はしておいた。あらかじめ運んでおいた薪を組んで、たきつけ用の枝を並べて、火をつける。風よけの為に周りを囲むように置いた四角い石ブロックの上に、水を張った小さな鍋を置く。
枝が最初はチョロチョロと、次第に勢いよく燃えて、大きな薪に火が燃え移り、次第に火が落ち着いた。小さな小さな椅子を二つ。石の上に布をひいてテーブル代わりにする。そこにティーカップを二つ、小さめのポットを一つ。茶葉はもう入れてきた。クッキーのった皿。
星空の屋根の下で、アキトはゆっくりお茶の用意をした。真っ暗な草原にたき火の明かり、火の爆ぜる音と、アキトだけ。
お茶の用意をしているとユキを思い出す。
Frondei tenere… e belle…del mio pratano amato…
(※)
ユキが口ずさんでいた歌を、つぶやくように歌う。聴いているのは、目の前の大きな川だけ。
…ne giunga aprofanarvi austro rapace…
遠くで何かが鳴いた。水鳥だろうか。
空が白んでくる。水の流れが、薄明るくなってゆく空を映し出している。
Ombra mai fu…di vegetabille
cara ed amabille soave piu…
…
…soave piu…
足音とともに近づいてくる黒い影。その影は夜明けが近づくにつれて赤く赤く色付いていった。
日が登り、まぶしい日の光が二人を照らす。日の光がおりて、川面が光を散りばめたようにキラキラと輝いている。
妖精は目を細めて、アキトを見た。
「おはよう」アキトが声をかけた。
「ああ、おはよう」妖精が答えた。
妖精は真っ赤な帽子をかぶり、真っ赤なコートを着ていた。まるでサンタクロースのようだった。目は鋭く、顔は少し皺をおび、長い髪の毛を束にしてくくっていた。肩からかけたヒモにはナイフがぶら下がっていた。
「来てくれてありがとう。あの、紅茶でいいかな」アキトはポットを持ち上げた。
「紅茶は…飲んだことがない。楽しみだ…」
低くしわがれた声。
「あの…僕はアキトというんだ。できれば名前を教えてくれない?あなたのことを、ちゃんと名前で呼びたい」
妖精は少しの間、アキトを見た。アキトはドキリとした。鋭さが増して、こちらを値踏みするような目だった。
「…名前は、大切なものだ。信頼できる相手にしか教えられない。おまえさんは…アキトは、大丈夫だろうが…少し待ってくれないか」
「そうなんだ。ごめんなさい。知らなかった」
「自分から妖精に軽々しく名前を教えない方がいい。何に使われるかわからない」
「分かった。これから気をつける。ありがとう」
アキトはお湯をポットに注いだ。温かい湯気がふわりとわきあがる。すぐにポットの蓋をしめた。
「少し待ってね。待った方がおいしいんだ」
妖精は、たき火を見つめていた。
「アキトは…きれいな炎をつくる。丁寧なたき火だ。俺はおまえのたき火が好きだ…気に入った…」
「ありがとう」アキトは少し赤くなった。
二人は少しの時間、黙ってたき火をながめた。たき火の爆ぜる音だけが響いた。服の外に出ている肌が痛くなるくらいの寒さだったが、たき火の炎が二人をあたため包み込んでくれていた。
アキトはポットから二つのティーカップにトトト…と紅茶を注いだ。そこにレモンを浮かべて、蜂蜜をたっぷり入れる。紅茶の色が濃い茶色から明るい琥珀色へ変わった。妖精は瞬きした。
「魔法を使ったのか。きれいな色だ」
「ううん、魔法じゃないよ。レモンを浮かべると、色が変わるの。熱いから気をつけて飲んでね」
妖精の前にティーカップとクッキーを並べる。妖精はカップの取っ手を慣れない手つきで持ちながら、アキトの真似をして一口飲んだ。
「ああ…不思議だ。とても静かで、寒い。だがあたたかくて心地よい…満ち足りていくようだ。こんな時間を過ごすのは初めてだ…」
「外でお茶を飲むと不思議なんだ。自分や、一緒に飲む人がとても大切なものだって感じがする」
「俺のことも、そう思うのか」
「うん」
「そうか…」
妖精の目にぎらついた光はなかった。ただまぶしそうに川面をながめている。
アキトはクッキーも進めながら、意を決したように話し始めた。
「あのね…もし、知っていたら教えてほしいんだ。僕の大切な人が、妖精の歌を聴いて何もかも忘れてしまったの…思い出す方法…知らない?」
「妖精の歌に魅入られたのか。自分が分からなくなったんだな」
「そんな風に聴いている。街に行ったまま、帰ってこないんだ。僕の家族みたいな人なんだ」
「家族…?」
「ええと、一緒に住んでいる大切な人」
「…」
妖精は、一度目を閉じて、再び開けた。深い場所をのぞき込むような目だった。
「妖精に魅了されると、心を持って行かれる。だが…たまに、心の欠片が残っていることもある。それを、何かのきっかけで思い出すこともある。あくまで一部の記憶だがな。だが、そうではない人間が殆どだ。期待しないことだ」
アキトの心に、ほんのかすかな火が灯った。
「あ…でも、でも…思い出す人がいないわけではないんだね。ありがとう。教えてくれて」
「いや、名前をくれた礼だ」
「もう一つ、聞いてもいい?」
「…お前さん自身のことか」
「うん。ぼく…自分は人間だと思ってた。でも、この前、妖精の取替子だって言われた。それに、この前会ったときに、僕から妖精のにおいがするって言っていたでしょう。取替子って、僕って、妖精なの?」
妖精は、紅茶を一口のんだ。一息ついて、話し始めた。
「アキトからは妖精のにおいがする。だが、俺にわかるのはそれだけだ。父母のどちらかはおそらく妖精だろう。だが、人の血も入っているのかもしれない…。まあ、時々あることだ」
「そう…。妖精と人間って…何が違うんだろう」
「…それは…愚かな質問だな」
妖精は軽くあざ笑った。
「お前さんは人間の枠に入りたがっている。妖精であることに抵抗があるんだろう。月と太陽は何が違う。花と木は何が違う。俺とお前さんは何が違う。お前さんとその家族は何が違う…それと同じことをお前さんは言っている…。命は一つ一つ違うものだ。同じものは何一つない」
「…そうか…そうだね。初めて色々知ったから、びっくりしちゃって。でも、あなたの言うとおりだね。ありがとう」
「お前さんは礼を何度も言うのだな。…このクッキーも旨いな」
「良かった。また焼くよ」
日が少し高くなってきていた。そろそろ丸太小屋に帰った方がいいだろう。ハルには、夜明けに散歩してくるとだけ、伝えてある。探されることはないと思うが、あまり遅いと心配するだろう。
「あの、僕、そろそろ帰らなくちゃ。でも、できればまたあなたとお話がしたい。また、きてくれるかな」
「家族のところに帰るんだな。ああ。今日の時間は気に入った。また1週間後にこよう」
「ありがとう。待ってるね」
妖精とアキトは別れて帰っていった。
※G.F.ヘンデル 「Ombra mai fu」より




