約束のない関係
「あ、雨」
成瀬さんが急な外出をして数時間、心配していた通り雨が降ってきた。それも大雨だ。
「こんな雨なら飲み会なしでよかったね。またにしようね、牧野さん」
「はい」
松橋さんへの返事もそこそこに、私は窓を見つめた。大粒の雨が窓を打ちつけている。
成瀬さんは傘を持っていっただろうか。
相手は私より年上で、突然の雨に困ることもない立派な大人なのに、そんなどうでもいいことを考えてしまう。
集中しようと、頭を降って仕事に戻る。出かける直前まで成瀬さんは明日締め切りの資料を作っていた。それが気になって、その仕事の手伝いを始める。
「まだ帰らないの?」
19時すぎに林さんが声をかけてきた。成瀬さんは戻らないけど、何だか帰る気にならなかった。
「成瀬さんは直帰かもよ。待っても帰ってこないと思うけど」
心配そうな林さんの声に私は笑う。顔を向けると、林さんが私の机を見て心配そうに声をかける。
「資料、つくってるの?」
私は恥ずかしくなって俯きながらはいと答える。
「成瀬さん、作りかけで出て行ってしまって。これは明日までなので、帰ってきてからだと、大変だし」
「そうか…でも成瀬さんは」
林さんは言いよどんだ。その続きはよくわかっていた。私も首を縦に振った。
「あ、知っています。人の資料は使わないですよね」
「だから、無理する事はないよ。頭の中にイメージがあるだろうから、きっと成瀬さんならすぐできるよ」
林さんは言いにくそうにアドバイスしてくれる。
成瀬さんは人の作ったものは使わない。よく知られている話で、私も知っている。普段、私が手伝う時も成瀬さんの指示をもらう。こんな風に丸ごと自分で取り組むことはない。
それを考えると、これはやる必要のない仕事と言える。
きっと、成瀬さんがこれを使うことはないから。
「でも作りかけで帰るわけにもいかないので、これだけは」
苦笑いで返す私に、林さんも気遣いながら帰っていった。
私はデスクの上の冷めた紅茶を飲んで、また仕事に取り掛かる。
時計は20時を指していて、室内には誰もいない。
思った以上に時間がかかっている。そもそも私にすぐできるような仕事ではない。
私にはわかっている。
仕事なんて言い訳で、私は成瀬さんが戻ると思っている。彼を待つ理由を、自分がここにいてもいい理由を作っている。
何だか昼間のままで別れるのは、寂しい気がした。もう一度会いたかった。
会っても、話すことはない。飲み会だって無しになった。
だけど、ただ顔がみたかった。
そして、なんとなく、成瀬さんも戻るような気がしていた。
でも、気のせいだったかな、とため息をつく。林さんのいうように、家で仕事しているかもしれない。
そんな予定を聞ける間柄でもないし、私たちの間に約束があるわけでもないのだ。
またため息を吐いた時、ドアが開く音がして、人が入ってくる気配がした。
成瀬さんかもしれない。そう思って急いで振り返る。
「あ」
思わず声が出た。
だけど、そこにいたのは柳原さんだった。柳原さんの視線が私を取り越して、机の上のノートパソコンに移ったのを見て、私は反射的にパソコンの画面を見えない程度に伏せる。それに柳原さんは少し目を開いて、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべて私の隣にやってきた。
「仕事?こんな時間まで」
視線が探るように私の机の上をさまよう。私は急いで、目の前で広げていた資料を裏返した。今の資料の関連資料と、参考にするために置いていた、以前に成瀬さんが作った資料だ。
見られたくなくてしたことだけど、さすがに不自然すぎたのか、柳原さんは苦笑いした。
「いいじゃない、見せてよ」
私は急いでごまかすように笑った。
「勝手に私がやっていることなので、見られたらちょっと…」
「何?会議の資料?」
柳原さんは笑って私の隣の成瀬さんの椅子を引き寄せると、そこに座った。椅子を動かして、私に近寄る。嫌な感じがして、彼が近づいた分だけ後ろに下がる。
柳原さんは私に向かって笑いかける。
「いいよ、わからないことがあったら教えるよ、見せてよ」
そう言って手を伸ばして、私のパソコンを開こうとする。私は慌ててパソコンを閉じた。
視線を上げると、柳原さんと目が合う。その目がすっと鋭くなった。
「まだ成瀬さんにも見てもらっていないので、さすがに他の方にチェックを受けるのも…」
「へえ」
成瀬さんの名前が出たところで、柳原さんの声色が変わった。
「成瀬に先に見せたいんだ」
「やっぱり、まずは直属の上司から」
その返事に柳原さんは肩を竦めた。
「成瀬はさ、むしろ俺より厳しいんじゃない?」
「え?」
柳原さんは人差し指で私の閉じているノートパソコンをゆっくり二回叩いた。
「アイツ、今まで他人の資料とか使ったことないよ。自分のものだけ使ってる。君の資料だって、多分見る気もないんじゃないかな」
そう言って私の目を覗き込む。
「あいつ、他人の仕事も、他人のことも信用してないからね」
私は柳原さんをみた。
「チェックうけるなら俺の方がよっぽど優しいし、君のためにいいアドバイスしてあげられると思うけど」
そう言って柳原さんは笑う。でも私を見つめる目は笑っていなかった。
それを見て私は怖くなる。
私は多分、返事を間違えた。いや、間違えたのは返事だけではないかもしれない。
柳原さんの笑顔は好意的とは言えない笑い方で、私は後ろへ体を逃がせる。
「それとも。俺には成瀬のやり方は見せられないってこと?」
「それは…」
「成瀬が見せるなって言ってるの?それとも君がそう思っているの?」
柳原さんはニヤリと笑った。何かよくないことを言われる予感がした。
そしてそう言う勘は、確実に当たる。
「昼間、見たよ」
「え?」
「今日の午後、会社の前」
柳原さんは口角をあげて、綺麗な顔を少し歪めて笑った。
それで彼が何を言いたいのか、わかった。
昼間のことだ。
会社の近く、タクシーに乗る前の、ほんのわずかな合間の出来事。
彼が、初めて私に触れた瞬間。
あれを見られていたのだ。
あれは私にとって、大切な思い出だった。
大切な分、綺麗なままにしておきたかった。
それをこんな時に、こんな風にからかう材料になんてされたくなかった。
柳原さんは私の顔を覗き込んできた。整った顔なのに、それを怖く感じる。
「君、随分気に入られているね、成瀬に」
「…どういうことですか?」
「今まで誰もいなかったアシスタントに指名されて、うまく仕事して…それってそういうことなの?」
私と成瀬さんの関係を疑っているってことだ。
じっと柳原さんを見つめると、冷静に、でも強い言葉で言い返した。
「そんなんじゃありません」
柳原さんはまたニヤリと笑う。
「どうだか、口ではなんとも言えるからね」
「やめてください。成瀬さんに失礼です」
「ただのアシスタントに、あんな事する?少なくとも成瀬がアシスタントにあんなことしてるの、見たことないよ」
「あれは…」
言い返そうとして、口をつぐむ。
深い意味なんてない。
意味があって欲しいと思うのは私で、実際はそこに何もない。
でもそれを口に出したら、とても悲しくなる気がしてためらう。
言ったら、あれが本当に意味のない出来事になってしまうような気がした。
自分にとって大切な分、それだけはできないと思ってしまう。
私は柳原さんを見た。柳原さんは静かに私を見ていた。
「あれは…なんなの?牧野さん」
もう一度聞かれて、私は大きく息を吸って、口を開いた。
その時だった。
「牧野さん?まだいたの?」
背後から声がかかった。振り返ると部屋の入り口にいたのは成瀬さんだった。
思わず気持ちが緩んで、ほっと息を吐いた。
成瀬さんは私と柳原さんを見て、それから柳原さんが自分の椅子に座っているのを見て、少し眉を寄せた。柳原さんはふっと表情を緩めると肩を竦めた。
「成瀬、遅いな。今日はどこいってたんだ?」
「仕事です。いつも通りですよ」
成瀬さんはとても素っ気なく答えながら、早足で歩いてきた。言い方からはこれ以上詮索しないでほしいと言う気持ちが伝わって、柳原さんもそれ以上のことは聞かなかった。
成瀬さんは、柳原さんの座る椅子の前、自分のデスクにバッグをおいた。いつも所作の綺麗なこの人には珍しく乱暴な動作で、少し大きな音がした。それに柳原さんは片眉をあげた。
「俺も帰ろう。牧野さんお疲れ様」
そう言って椅子から立ち上がると、ドアへと歩いていった。私は返事する気にもなれなくて、黙っていて、柳原さんが出て行った音を聞いて、ようやく息をはいた。
「どうした、何かあった?」
成瀬さんが心配そうな声で聞いてきた。顔を上げると本当に心配そうにこちらを見ている。私はさっとパソコンに向き直ると、画面を開いた。
「すみません、明日の会議の資料が気になって、勝手にやっていました」
画面を立ち上げて、成瀬さんのデスクの方へ向ける。成瀬さんは椅子に座ると私の方へ体を寄せた。
さっき柳原さんが近くにいた時は、何だか嫌だったのに、今はこうして成瀬さんが近くにいても、不思議と嫌な感情は浮かばない。
「時間がかかって、まだ終わらなくて」
私はため息をつく。まるでいい所がないと笑ってしまう。
「そうしたら、柳原さんに声をかけられて、資料を見ると言ってくれたんですけど…。余計なことをしてすみません」
全部を言わなかったけれど、ある程度成瀬さんは察したようで、わかった、と答えた。そして体を伸ばして私のパソコンを引き寄せ、長い指を動かして中身を確認する。ふと視線を私の机の上で止める。
「それは?」
私の机のファイルを指さした。私は中を開く。今回とは別に関係のない、以前成瀬さんが作った資料だ。
「成瀬さんが以前作った資料を参考にしていて…」
成瀬さんは驚いたような顔をして私を見て、そして画面に視線を戻した。
資料を最後まで確認してから、成瀬さんは私へ向き直った。
「じゃあ、続き始めようか」
成瀬さんはジャケットを脱いで椅子の背にかけると、椅子に座って私へと向き直った。
「今までの経験から、多分君は手伝いますと言って聞かないだろうし」
私の方を見た顔は微笑んでいた。
「君はとても頑固だから、言い出したら聞かない事はわかっている」
それを聞いて、苦笑いするしかなかった。成瀬さんも私をみて、そっと腕を伸ばした。
その手は、私の頭の上に着地する。昼間と同じように。
驚いて見上げた顔は優しく微笑んでいた。
「そして君と一緒にやれば、仕事も捗る」
それを聞いたら、嬉しいのに泣きたくなるような気持ちになった。頭の上の手が、私の頭を撫でてそっと離れていく。
「だから、早く終わらせよう」
私は急いでパソコンに向き直る。
成瀬さんが隣にいて、一緒に同じ仕事をしているというだけで、とても心強い。
何よりも、嬉しい。
「頑張ります。急ぎましょう」




