間違いなく、恋
仕事が終わったのは、22時に近い時間だった。
成瀬さんのOKが出て、私は思わず大きく息をはいた。早くはない時間だけれど、思ったよりはずっと早い。成瀬さんはデータのバックアップをとると、パソコンを閉じて私を振り返る。
「よかった…思ったより早く終わりました」
私は椅子の上で伸びをした。
結局成瀬さんがかなりのペースで仕事を進めてくれたから、この時間に終わったようなものだ。隣から聞こえるパソコンを操作する音はかなり早く、私の倍以上だった。
それなのに成瀬さんは私の方を向き直って
「いや、君が先にやってくれていたから助かった。ありがとう」とその顔が笑顔になる。
「終わってよかったです」
私はデスクの上を片付ける。遅くなってしまったし、成瀬さんが出たら戸締りをして早めに帰ろうと思った。
「牧野さん、時間ある?」
「え?」
急に声をかけられて成瀬さんの方を見ると、彼も荷物を片付けながらこちらを見た。
「こんな時間だけど、少しだけご飯でも食べないか?」
成瀬さんはそう言って私に笑いかけた。
「今日のお礼ってことで」
私の目の前に立って、優しい顔で見下ろしてくる。
「あの二人には悪いけど、二人で行こう」
もちろん、私の返事なんて決まっていた。
成瀬さんが連れてきてくれたのは、会社から少し離れた小さなお店だった。お酒を出すのがメインの小さいお店は程々に混んでいたけれど、静かで落ち着いていた。よく行くのか、彼は迷わずこのお店へ向かい、お店のマスターも成瀬さんを見て軽く会釈をした。その後で、後ろにいる私を見て目を少しだけ、丸くした。
女性を連れてくるのは珍しいのかもしれないと思った後で、いつもの女性と違うと言われたら、ショックだなと思って今度は落ち込む。だけど、お店のマスターはさすがプロで、何も言わずにカウンターに通してくれた。
お店の奥のピアノで若い男の人がクラシックを弾いていた。静かな店内に、店名と同じ名前のピアノの曲が響いている。
成瀬さんはウイスキーを頼んで、迷ったけれど私はアイスティーを頼んだ。
「お酒、飲まないの?」と聞かれて、「飲んだら明日寝坊しそうなので」と正直に返事したら、成瀬さんは小さく笑った。
「明日の朝はゆっくりにしようか」
そう提案してくれる。だけど、それを丁重にお断りする。
成瀬さんがもう一度
「いいよ、本当に。俺もそんな鬼じゃないよ」
こんな時間だし、そう言ってくれたのに、私は首を横にふった。
「いえ、大丈夫です。明日もいつも通りで」
「本当に頑固だね。少しくらい甘えていいのに」
成瀬さんは呆れたように息を吐いた。確かに気を遣ってくれたのに、頑固すぎるかもしれない。私は目の前のグラスをギュッと握って口を開く。
「私にはゆっくりでいいよ、って言いながら、きっと成瀬さんはいつも通りに仕事を始めると思うので、それは嫌なんです」
私は成瀬さんの方へと顔を向けた。成瀬さんも私を見ていて、その言葉に目を見開いた。見開いた目と真っ直ぐに視線を合わせて私は続けた。
「でも、きっとそうしますよね?」
これは確信だった。そして成瀬さんはすっと私から目を逸らせた。
それは、無言の肯定だった。
「君と初めて話した日の事、覚えてる?」
私は黙って頷いた。例の会議室でのことだ。
よく覚えている。あの日からいろんなことが変わってしまった。忘れられない日だ。
「あの日君が作ってくれた資料、よくできてたよ」
最初、何のことだかわからなかった。記憶をたどって、驚きと共に思い出す。
あの日に作った資料の事で、確かにあれは営業からの依頼だった。
「あれは、営業の中でもずっと放置されていて、よく使うくせに誰も整理しないから、あの朝にいい加減きちんと処理してくれって課長に言ったら、営業では誰もやりたがらないから、総務へ回って」
「そうですか」
確かにまとまりがなくて、面倒な仕事だった。成瀬さんが私を見た。
「まあ急ぎではないから、時間かかるだろうな、と思ったら、翌日には仕上がってきたし、しかもよくできてた」
あの資料が成瀬さんの手元に行っていたことに、私は驚いた。どこかに忘れられてしまっただろうと思っていた。
「あれ、見たんですか?」
私が思わず尋ねると、成瀬さんはなんでもないことのように、見たよ、と返事した。自分で指示して、仕上がりを見ないとかおかしいだろう、と成瀬さんは顔色変えずに言って、ウイスキーを飲み干すと、おかわりを頼んだ。
「ああいうものって、軽く見られて適当にされることが多いけど、でもその分しっかりやれば仕上がりに大きな差が出る。見やすくて、使う人のことも考えてあって、感心したよ」
「見てくれていたんですね」
思わず小さな声が出た。
「それで誰がやったのか聞いたら、昨日話した子だったから、驚いた」
あのことは、もうどこか遠くの出来事で、あの日は色々ついてないと思ったけれど、こうして誰かが見てくれると思うと、何だか報われる気がした。
「実は課長にずっとアシスタントを置くように言われていて」
成瀬さんはグラスを置いて、視線を上にあげた。
「何となくあの時のことを思い出して、君が浮かんで。だから、奥平さんにアシスタントには君がいいって…」
「言ったんですか?」
まだ話している途中で問いかけると、成瀬さんはこっちを向いて、首を縦に振った。だけど私は混乱して、成瀬さんに問いかける。
「え、じゃあ、私は、もしかして本当に成瀬さんの意見でアシスタントになったのですか?」
成瀬さんは呆れた顔をした。
「あんなに噂になってたのに、知らなかったの?」
「本当に噂だと思っていました」
私の返事に成瀬さんは苦笑いした。
確かに、そんな噂があった。だけど私は信じていなかった。あの日のことは、いい印象なんてないと思っていた。
でも、あの出来事が私たちを引き寄せたんだとしたら…。
頑張って良かったかもしれない、思わずそう思った。
「ただの直感だったけど、君で良かったと思ってるよ」
そう言った成瀬さんの顔は、とても優しかった。
成瀬さんはグラスを煽ってウイスキーを飲んだ。綺麗な琥珀色の液体が、ライトの光に揺らめいて綺麗に輝いた。
成瀬さんは優しく笑顔のまま、昼間みたいに腕を伸ばして私の頭を撫でた。
「これからも頼むよ、アシスタントさん」
柔らかい光が成瀬さんに当たって、その笑顔を優しく見せていた。ウイスキーの色とお店の照明の光が重なって、彼を彩る。
この人は光に彩られると、本当にきれいだな。
そう思って、思わずその横顔を見つめてしまう。
この瞬間がずっと続けばいいのに。
思わずそう思った。穏やかで、なくなって欲しくないと思わせる時間だった。
だけど同時に、何だか泣きそうになって、私は視線を下げた。
ダメだ。
そう思った次の瞬間に、もっと強い気持ちが込み上げてくる。
私、やっぱり、この人が好きだ。
こんな風に優しくされて、甘やかされていたら、好きにならないはずがない。
成瀬さんのそばにいるようになってからずっと、私は自分の気持ちから目を逸らせていた。
世界の違う人だとか、上司とか、無意識に気持ちにブレーキをかけていた。それを出したら、嫌われるとか、アシスタントを首になると思っていたのもある。
だけど一番は自分が傷つきたくなかっただけだ。
かなわない思いで苦しくなりたくなかった。だから目をつぶっていたのに、こんな風にされたら、もうダメだ。
好きにならないなんて、無理だ。
ふと隣を窺うと、成瀬さんは静かにお酒を飲んでいた。あっという間に普通に戻っているのが悔しくて、ずるいと思う。
でも、やっぱり好きだ。
この人が好きだ。
溢れそうな気持ちを抑えるように、私はアイスティーを一口飲んだ。
私が今まで抱いていたのはただの憧れだった。でも、これはもう、憧れとかそんな物じゃない。
不確かな物ではなくて、もう、これはしっかりと形になっている。
私は彼に恋をした。
本当の意味で恋をした。
この気持ちは、恋だ。
間違いなく、恋だ。




