聞きたくない話
あの日以降、成瀬さんは私に書類仕事も回すようになった。
「あの成瀬くんが人の作ったものを使うなんてねー」
松橋さんがしみじみと呟く。林さんも隣で静かにうなずいている。
「ずいぶん丸くなりましたね」
「仕事中も穏やかだし、人って変わるのね」
そう言って林さんと二人、こっちを見る松橋さんに私は笑顔で返した。
以前の成瀬さんの冷たい印象が、今は優しい暖かいものになっている。
だけど、そのせいで成瀬さんの人気がまた、でてしまった。
あんなに綺麗な顔の人が笑いながら、優しく話しかけたらどうなるかなんて、誰にだってすぐにわかる。少し前の冷たい印象も、それはそれでよかったけれど、でもやっぱり優しい方がずっと素敵に決まっている。
「牧野さん、ちょっと」
午前中私が一人で仕事をしていると、奥平課長に昼に時間が欲しいと言われた。外のお店を指定されて、社内ではできない話のようだと不安になりながら、お店へ向かう。
そこは会社の近くのビルの中のお店で、私が着くともう課長は椅子に座っていた。
「お待たせしてすみません」
私が席に着くと、課長はテーブルの上に両手を組んで、私へと向き直った。
「社内だと少し話しづらいかと思って…早速だけど、話を始めてもいい?」
私は背を正して頷いた。
「牧野さん、仕事どう?」
「だいぶ慣れましたし、非常に充実しています」
課長は軽く頷いた後に、また探るようにこっちを見た。
「成瀬とは、どう?」
いつものふざけた態度とは、全く違う。これは真剣な話だと理解する。
「アシスタントになってしばらく経ったし、成瀬との仕事の具合を聞きたくて。成瀬を見れば、あいつが調子いいのはわかるから、あとは君の意見が聞きたかった」
アシスタントにもこうして意見を聞いたり、目を配るなんて、課長も大変だなと思う。
「指導は丁寧でわかりやすくて、勉強になりますし、気を遣ってくださるので仕事しやすいです」
「辛いとか、ない?」
「ないです」
キッパリと答えると、探るような目をしていた課長は顔を上げる。
「即答だね。今までの子はみんなすぐに根をあげたのに」
課長は嬉しそうに笑う。
「君が作ってくれた資料もよくできているし、評判よかったよ」
「本当ですか?」
「成瀬に教えてもらった?」
私は大きく頷く。そんな私をみて課長も笑って大きく頷いた。
「ずいぶん嬉しそうな顔するね」
何だか恥ずかしくて自然と顔が赤くなる。課長は笑いながら口を開く。
「まあ、それならいいか。相思相愛ってことで、これからも二人で頑張ってもらって」
相思相愛って…。その答えに苦笑いして、でも訂正してもきっとからかわれて終わるな、と思って黙っておく。
「牧野さんは松橋と林とよく話しているよね」
よくしてもらっていると返事すると課長は笑ってこれは秘密ね、と前置きして口を開いた。
「あの二人、付き合ってるからね」
その爆弾発言に私は目を丸くして、思わずええ!と大きな声を出してしまった。課長は楽しそうに笑う。
「表向きは否定しているけどね。別に社内恋愛は禁止ではないからいいけど」
私には大きな驚きで、信じられない、と何度も呟いてしまう。
「でも営業とそのアシスタントだと…仕事に影響がでるリスクがあるから気にする上司はいるかな」
課長は笑いながらも目は真剣だった。
「仕事もしっかりできるなら、個人的にはいいと思っている。でも仕事に支障が出るなら、コンビは解消する。お互いの気持ちと覚悟次第だよ」
「寛大ですね」
それを聞いて、課長はニヤリと笑った。
「牧野さんは社内恋愛どう思う?成瀬とか?」
ニコニコ笑って課長が聞いている。
課長の顔が明らかに楽しんでいるのをみて、思わず非難がましい目を向けると、課長はごめんと謝った。
「でも、あの成瀬がね。こんな風に女性のアシスタントとうまく仕事できるとは思わなかったよ」
おかしそうに笑いながら、私を見ている。
「あいつ、女性とはいろいろあったからね」
その言葉に少なからず胸が痛む。それを誤魔化すように息を吐く。
「まあ、モテるでしょうからね、成瀬さんは」
私がそう言うと、課長は苦笑いで答えた。
「そうだね、モテる。でもそれだけじゃないよ。いろんなことがあったからね」
そのいい方には、何だか含みがあった。気になって口を開くと、それより少し早く、課長がさっきみたいに笑いながら私を見た。
「それより、最近の成瀬、すごく丸くなったよ。君とはよく話しているし、仕事も任せていて、とてもいい関係ができていると思う」
課長は穏やかに笑う。その顔は上司と言うより兄の視線に近いなと思った。
「それに成瀬があんなに優しい顔で君と話してるのを見ると、正直勘繰りたくもなるよね」
またか、と私が無言でため息をつくと、課長が謝ってきて、遊ばれている気持ちになる。
そして何かをとても上手にごまかされてしまった気がする。いつの間にか、何を聞こうとしたか分からなくなってしまった。
「ところで」
ランチを食べ終えてコーヒーがきたところで、課長が急に真面目な顔に戻った。
「牧野さんは、成瀬以外の人につくとなったら、どうする?」
「え?」
「成瀬から指導者変更ってこと。そうしたらどうする?」
とても驚いて、嫌な考えが浮かぶ。もしかして、成瀬さんから、私を変えるよう希望があったのかもしれない。
課長は表情を変えた私を見て、笑って首を横に振った。
「成瀬の意見ではないよ。ただ、君と働きたいって言う熱烈な意見があったから、聞いてみただけ」
ものすごく軽く言われた重い内容に、私は目を丸くした。
「それ、誰ですか?」
「気になる?」
少し迷った後で、私は首をふった。
「私、成瀬さんの下がいいです。他の人なんて考えられません」
キッパリと言い切ると、もう一度口を開いた。
「だから、名前は聞かなくていいです」
課長は驚いた顔をして、ニヤリと笑った。
「じゃあ、僕とはどう?」
その顔を見て、また遊ばれている、と自然とため息がでる。
「成瀬とうまくやってる牧野さんなら、僕のアシスタントなんて楽勝だよ。あいつよりずっとわかりやすいよ」
課長はそう言って笑った。
「私には成瀬さんの方がわかりやすいです」
きっぱりと言い切ると、課長は「俺より成瀬の方がずっと面倒だよ」と言って、また大笑いした。誤解されている、と心の中でもう一度ため息をついた。
「でも、君がうまくやっているのを見て、自分をアシスタントにって動く人も出るかもしれないから、気をつけてね」
思いもよらない忠告に驚く。
「やっぱりアシスタントとは接触も多いし、自分を成瀬のアシスタントにって人は絶対に出てくる。僕も気をつけておくよ」
課長は嫌なことをあっさりと告げた。
課長とランチを終えて社内に戻る。飲み物を買って戻る途中、廊下を歩いていると声をかけられた。振り返ると一人の女子社員がいた。顔を見て思い出す。
私が成瀬さんのアシスタントになった日に、忠告してきた人だ。
思わず身構えると、彼女は厳しい顔で私に近寄ってきた。
「あなたに話があるの」
正直ゲンナリしながら返事する。彼女は私に向き直った。
「最初に私が言ったことを覚えている?」
私はため息をついた。それから、彼女は最初の時とほぼ変わらない会話を続ける。最後に彼女は両腕を組んで、大きくため息をつく。
「別に、彼があなたを思っているなら、私はそれを邪魔するつもりはないの」
「はあ」
「だって、以前あんなことがあって、彼が大変だったのは知ってるから、今度こそ幸せになって欲しいと思っているの」
その言葉に私は思わず彼女の腕を掴んだ。
「それ、どういうことですか?」
今度は彼女が驚く番だった。私はそんな彼女に近寄った。
「詳しく教えてください」
彼女は私の勢いに押されるように、口を開いた。
「成瀬さん、昔、社内の人と付き合ってたの」
私は息を飲んだ。彼女は私を見ながら嫌そうな顔をして続ける。
「2つくらい年上の人で、美人で、仕事もできて、でも気さくな人で全女性社員の憧れって感じだった」
私は彼女の話を聞きながら、気持ちが冷えていくのを感じていた。
成瀬さんの恋愛の話なんて、聞きたくない。
「成瀬さんがアシスタントから独り立ちしたくらいだったけど、もういい成績を出してた。相手の方が成瀬さんに近寄ったのよ。それで付き合って、だけどすぐに別れた」
「どうして別れたのですか?」
聞き返す私から彼女は顔を逸らせた。その顔が怒っている。
「そんなの知らないわよ」
「すみません」
私は掴んでいた腕を離して、謝った。彼女は私の目をみた。
「言っておくけど、もう彼女はこの会社にいないわよ。彼女は別れてすぐにヘッドハンティングで他に行ってしまったから」
思わず営業のメンバーを思い返していた私は、それを聞いて安心する。今もその人が近くにいたら、辛いし働きづらい。
だけど彼女は思い出したように大きなため息をついた。
「でも、別れた時大変だったみたい。彼女がうちのデータとか持ち出したって話もあって」
それを聞いて、私はもう一度彼女に近寄ってしまった。
「それって」
彼女は本当に嫌そうな顔をした。
「噂よ、噂。だけど、その後、成瀬さんも半年くらい海外に行ったから、その話も消えてしまったけどね」
そういうともう一度私に向き直った。
「だから、彼には今度はちゃんと幸せになって欲しいと思っているのよ。だから…聞いてる?」
私はもう話を聞いていなかった。
ついさっき、課長と話して感じた違和感を思い出す。
課長はこのことを言っていたのだと、理解した。
それからしばらく、私は自分の頭の中からその話を追い出すことができなかった。




