応援
職場恋愛はうまく行かない時に辛い。仕事中に、いやでもその人と顔を合わせてしまうからだ。逃げ場がない。
朝、いつも通りに会社に行く。予想通り、彼はもう先に仕事をしていた。私を見て声をかける。
「おはようございます」
そう、声を返すことはできたけれど、顔を見ることはできなかった。気まずい、と実感する。
良くないけれど、休むこともできたと今更気がついて、思わずため息を吐きそうになって、飲み込む。
「里保、大丈夫?」
少し大きな声がかけられて、私は急いで声のする方を見て、彼と思い切り視線があってしまう。
「あ、すみません」
視線のあった彼は、心配そうにこっちを見ていたけれど、とても疲れた顔をしていた。私も疲れているけれど、きっと彼だって疲れているだろう。
「昨日の話だけど」
そう彼が切り出そうとした時に、ドアが開いて、人が入ってきた。
それで会話が終わったことに、安心した。
***
午前中は全く仕事がうまくいかなかった。
打ち間違いは多いし、コピーの部数は間違えるし、散々だった。それを心配そうに見る成瀬さんが、午後から出てしまうと、気が抜けてしまった。
「今日は早く帰ろう…」
夕方に休憩室で休みながら、そう呟く。今日やるべき仕事は終わったし、こんな状態では仕事もちゃんとできない。
今日は早く帰って、ゆっくり休もう。
でも、今日はどこに帰るのか?
そう思って、またしても悩んでしまう。
何も言っていないから、このまま自分の家に帰ることだってできる。だけど、そうしたら、彼の家から足が遠のいて、さらに彼の家に行きにくくなる。そしてそれが続けば、もう私たちが会わないと言う事になってしまう。
もう会えないのは、とても辛い。
だって、彼のことは今だって好きなのだから。
だけど治らない気持ちもたくさんある。
戻りたい気持ちはあっても、簡単に戻りました、とは言えない。
また大きなため息が出た。
この半年、いろんなことがあったなあ、と思う。
仕事も大変だったし、たくさん頑張ったけれど、思い出すのは成瀬さんのことばかりだ。
初めて頭を撫でられた日。
抱きしめてもらった夜。
初めてキスした日。
そういうこと、よりも、ただ二人で過ごした時間の方がよく思い出される。
そんな時間に見せてくれる笑顔が、実はとても好きだった。
あの人は、少しでも私のことを好きでいてくれたのかな。
すっかり冷めた目の前のコーヒーに手を伸ばしたら、後ろから声がかかった。
「牧野さん、今日はもう終わり?」
「柳原さん」
柳原さんは近くの自販機でコーヒーを買って、私の隣に座った。そのまま黙ってコーヒーを飲んで、私を見て口を開いた。
「成瀬、決まったな」
「…そうですね」
「それで、落ち込んでんの?」
私はため息をついて、窓から外を見る。
「柳原さんの言った通りでした」
「え?」
「成瀬さんが、私のことを騙すって」
わずかな説明だったけれど、それでわかったみたいだった。
「本人から、聞きました。どうしても、後輩の指導実績が必要だったって」
簡単に言ってしまうと、それはとてもあっさりした理由だった。
予想していたことと同じだったのか、柳原さんがそれ以上詳しく聞いてくることはなかった。
「成瀬なら、別にそこまでしなくてもなれた気もするけどな」
「柳原さんのこと、気にしてましたよ」
そう言ったら、柳原さんは目を丸くした。
「まあ、あいつと競ったのは俺だと思うけど」
少しだけ自慢げに柳原さんは笑った。だけど横目で私を見る。
「結局、結果は成瀬で変わらなかった気もするけど」
「完璧主義ですから、確実に自分が選ばれるためにしたのかもしれないです」
「そうかな」
「だって、それで人生変わりますから」
柳原さんは黙ってコーヒーを飲んだ。
ただ、黙っていてくれたから、余計、話しやすかったのかもしれない。
私はつい柳原さんに話し続けてしまった。
「実際は、指導実績ってほどのものは求められていなくて。私は会社に来るだけでよかったのかもしれないです。私も仕事を頑張る事もなくて…、無駄に努力しちゃいました」
話しているうちに、情けなくなって私は笑って続けた。
「別に、私である必要もなくて、偶然私がそこにいただけで、誰でもよかったんですよ。笑っちゃいますよね」
だけど、笑っているのに、急に視界がぼやけた。私は目元を拭って、笑った。
「たまたま私に会って、なんとなくいいなって思ったみたいです。なんとなく忘れられなかったから、って。それだけの理由で選ばれたみたいです」
私は俯いた。瞼を下ろしたら、涙が静かに下に落ちた。
「本当、笑っちゃいますよね」
初めて言葉に出して、私は自分が何を一番嫌がっていたのかわかった気がした。
昇進の道具にされたことよりも
誰でもよかった、と言う事実が、一番許せなかったのだと。
あんなに優しくしてくれたのも、抱きしめてくれたのも、彼が私を想うからだと思いたかった。
自分は、彼の特別なのだと。
でも、好きだったのは、自分だけだった。
「一人で真剣に頑張って、本当、馬鹿みたいです」
私は俯いたまま、そっと両目を拭った。その時、急に隣から肩を叩かれた。
「おい」
顔を上げると怒った顔の柳原さんがいた。柳原さんは大きく息を吐いて腕を組んだ。
「牧野さんが手伝ったから成瀬が出世したとか言われたら、あいつに負けた俺が、情けなくなるだろう」
そうして大きく息を吸った。
「それに、牧野さんが仕事を頑張ってたのは、俺がよく知ってる。誰よりも成長したのも、俺はわかっている」
そう言うと腕を解いて、目の前のテーブルを叩いた。
「自分の努力を、無駄とか言うな。もっと胸を張れ」
怒られて、私は驚いて目を丸くしたまま、柳原さんを見た。すると柳原さんも急に冷静になって、気まずそうに目を逸らせた。
「悪い、言い過ぎた」
その姿が少しだけ子供みたいで、私は思わず笑ってしまった。励まそうと言う気持ちが伝わったから、落ち込んでいた気持ちが少し軽くなる。
「ありがとうございます」
「…うん」
柳原さんは誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。
「あのさ」
「はい?」
振り向いた柳原さんは少しだけ、気まずそうに顔をしかめた。
「こう言うのは俺が言うことではないと思うし、これが成瀬のためだと思うと、言うのも腹が立つけど」
「はい?」
迷って口籠もっていた柳原さんは意を決したように口を開いた。
「たまたまあった君のことを、なんとなくいいなと思って、忘れられなかったって、あいつ言ったんだろう?」
「そうですけど…」
柳原さんはため息をついて言った。
「それって、ただの一目惚れだから」
言われたことの意味が分からなくて、私は柳原さんを見つめた。柳原さんはものすごく苦い顔をしていた。
「つまりあいつが、牧野さんに一目惚れしたってことだよ。あいつ、自分でもそれに気がついてないんだよ」
あんなにモテてるとそうなるのかもな、そう言って柳原さんは笑った。
「最初からお互い好きだったってことで、いいんじゃないの?」
頭の中で、それをもう一度よく考える。
もし、本当にそうなら、それが正しいのなら。
あの人は、ちゃんと、しっかり私を想ってくれていたのだろうか。
私はもう一度、あの人を信じてみてもいいのだろうか…。
「ねえ、牧野さん」
ぼんやりと考えていると、突然声がかかる。私は柳原さんを見た。柳原さんは真剣な目になって私を覗き込んだ。
「また泣くなら、もう成瀬のところには行かせられない」
そして、私の前に手を差し出した。
「泣き止まないなら、今すぐに抱きしめて、牧野さんのこと俺のものにするけど、どうする?」
それを聞いたら、涙が止まった。
どうしたいのかなんて、どうして欲しいのかなんて決まっている。
もう、ずっと最初から。
ためらいなく、私は立ち上がった。
私の顔を見て、柳原さんは理解したのか呆れたように笑った。
「あのさ、少しくらい悩んでくれない?」
私は笑った。涙はもうこの人の前では見せられないから。
「すみません」
「まあいいけど」
柳原さんは立ち上がった。その彼に向かって私は頭を下げる。
「柳原さんには大切な事に気づかせてもらって、感謝してます」
気がつかない方が俺はいいんだけど、と柳原さんは苦い顔をした。だけどすぐに、この間みたいに笑った。
「言っておくけど、これからすることは恋愛感情でするんじゃない」
そう断った後に、柳原さんの腕がそっと私を囲った。
驚いて目を丸くしていると、私の背中に回った手が、私の背をそっと2回優しく叩いた。
「これは応援だ」
そうして手を離すと、笑った。
それを見たら、もう一度泣きそうになった。だけど私は笑った。
「応援、すごく効きました」
そのまま柳原さんに向かって一礼して、私は部屋を飛び出した。
営業に戻るとそのまま自分のバッグを持って部屋を出て、そのまま早足で会社を出る。
歩きながら電話をかける。
すぐに聞こえてきた声に、私は話しかけた。
「今、どこですか?」
相手も外なのか、背後から騒がしい声が聞こえてくる。私はそれに構わず口を開いた。
「話したいことがあるんです」
今夜中にもう1話投稿します。
次回で完結です。




