並んで見上げる空
電話を切って、私は急いで歩いた。
昨日、壊れた靴はもう履けないから、今日は以前履いていた靴を履いている。ヒールの低い靴だから、早足で歩くのも楽だった。
何よりも、ゆっくり歩いてはいられない気持ちだったから、自然と早足になってしまった。人混みの中を、私は早足で歩いていく。
夕陽の中を、私は成瀬さんに会うために歩いていた。
さっき、電話したのは成瀬さんだ。
成瀬さんはちょうど仕事が終わったところで、外にいるのか電話口から聞こえるのは周りの雑踏と聞き慣れた彼の声だった。
「今から、会いに行きます」
それに対する返事がないままに、私はもう一度言った。
「行きます」
ちょうど成瀬さんがいたのは、会社の近くだった。その場所なら電車やタクシーに乗るよりも、歩いたほうが早い。だから私は早足で先を急いだ。
信号で立ち止まる。多分、もう近くにいるはずだ。私は辺りを見渡した。
そうして、信号のずっと向こうに、その姿を見つける。
背の高い彼は、人混みの中でもすぐに見つけることができた。そのスタイルの良さと端正な顔で、彼はとても目立っていた。
日の沈む前の柔らかいオレンジ色の光が、彼の輪郭を縁取っていた。
その姿を見て、素直にきれいだなと思った。
ふと、以前のことを思い出した。
ずっと昔に見た彼の姿。初めて近くでみた、彼。
その時は、昼の眩しいくらい強い光が、彼を照らしていた。あの時も今日と同じように、きれいだなと思って、そのきれいな後ろ姿に見惚れてしまった。
違うのはあの時はまだ、彼は私の名前も存在も知らなくて、
私は彼の姿を近くで見ることも、隣に立つこともできなかった。
あの頃は、彼の後ろ姿を見る事が精一杯だった。
好きかどうかもわからない、あやふやな気持ちが、ちゃんと『好き』になったのは、彼と働いてからだった。
後ろ姿を見ることしかできなかった人が、隣で笑ってくれることにしばらく慣れなかった。だから隣を歩くだけで、何かの拍子に腕が触れるだけで、驚くほど胸がドキドキした。
本当に好きにならないようにしていたのに、いつの間にか好きになってしまった。
キスをしたことも、初めて夜を一緒に過ごした日のことも、忘れられない。
だけど同じくらい、初めて手を繋いで歩いた時は、忘れられない。
二人で並んで、同じ場所を目指して歩くのが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
見上げた先の彼は、いつも優しく笑いかけてくれた。
繋いだ手は、いつも暖かかった。
抱きしめて欲しい時は、優しく抱きしめてくれた。
彼と一緒にいたくて頑張ったのは私だ。少しでも彼の気持ちに近づきたいと頑張った。
冷たかった瞳がいつの間にか、優しくなって、いつか甘くなった。
でも、私ひとりの努力で恋人になれるわけない。
きっと、彼も同じように思って、多分たくさんの見えない努力をしてくれたはずだ。
私はいつも自分が彼を思うことばかり考えていた。自分が彼を思う気持ちの方が大きいと思っていた。だけど、きっとそうではない。
私はちゃんと、彼に愛してもらっていたと思う。
きっかけが仕事だった事で、大切なことを見失ってしまった。
仕事が始まりでも、それ以外に私たちにはたくさんの言葉や、気遣いや、お互いへの思いがあって、今がある。
私は彼を、彼は私を、ちゃんとお互いを想っている。
だから、私はあの手の暖かさを、優しさを、信じよう。
今度こそ、彼を信じよう。
信号が青になるのを待って、私は走った。
走るほどに彼が近くなる。彼が私に気がついて、立ち止まって驚いた顔をした。
「成瀬さん!」
私は彼の前で立ち止まった。
久しぶりに全力で走ったから、息が切れて、私は膝に手をついて呼吸を整える。
「里保?」
そっと、背中に手が触れて、遠慮がちに撫でられた。
「どうした?」
私は大きく息を吸って、顔を上げた。
成瀬さんは私をじっと見ていた。
それはそうだろう。こんなに突然走ってきたら、何かあったのかと思うだろう。
その顔がとても不安そうだった。
彼の後ろから夕陽が見えて、眩しくて、目を細めた。
「話があって」
私はそこで大きく息を吸った。成瀬さんの正面に立つ。私の言葉に、ほんの少しだけ、成瀬さんが顔をこわばらせた。
何を予想したかわかって、私は思わず小さく笑ってしまった。
だから、言葉よりも先に、私は両手で彼の手を握った。
「成瀬さん」
笑顔の私を、成瀬さんが不思議そうに見つめる。
「成瀬さんは、私のことをちゃんと好きでいてくれましたか?」
その質問に、成瀬さんは少し驚いて、それから大きく頷いた。
「好きだよ」
「もし、仕事の事がなくても、私のことを選んでくれましたか?」
「え?」
「あの時出会えてよかったって、一度でも思ってくれましたか?」
成瀬さんは人の中心にいる人だった。その他大勢の一人だった私を探すなんて、不可能だと思う。
だけど、あの時私たちが出会えたことは、仕組まれてもいないし、嘘でもない。
あの時、彼が私を見つけてくれた事を、大切に思いたい。素直に喜びたい。
私たちを出会わせてくれたあの偶然を、この人もよかったと思ってくれたら良い。
成瀬さんは私を見て、それから口を開いた。
「思ったよ」
そして、私を抱きしめた。
「里保に会えてよかった。…何度も思ったよ」
私はそれを聞いて大きく息を吐いた。
「なら、私はそれを、成瀬さんを信じます」
笑って、彼を見上げた。
「成瀬さんのこと、好きだから、信じます」
それを聞いて、成瀬さんは信じられないというように、一瞬顔をこわばらせて、それから緊張が解けたように笑った。
「ほら、やっぱり里保は大胆だよ」
「え?」
「前も言っただろう。里保は時々とても大胆だって」
そう、成瀬さんは言って、気まずそうに視線をそらせた。
私は腕を伸ばして、そんな彼を抱きしめた。自分から、強く、彼を抱きしめた。
「だって、好きですから」
彼の顔を見て、もう一度、言った。
「大好きです」
彼の腕が私の背中へ回った。
「俺もだ」
顔を上げたら、成瀬さんと視線が合う。私たちは自然に笑い合った。
「これからも、好きでいて良いですか?」
成瀬さんは大きく頷いた。
「たくさん迷惑かけるかもしれません」
「いいよ」
「私、心配性だから、たくさんやきもち焼くかもしれないです」
それを聞いて、成瀬さんが楽しそうに笑った。
「じゃあ、俺からも、いい?」
成瀬さんの手のひらが、私の両頬を挟んだ。
「俺も、忙しくなるから、たくさん迷惑かけるかもしれない」
「手伝います」
「それに、俺の方が、多分、きっと嫉妬深い」
「私、成瀬さんしか見てないです」
「それには…ちょっと抗議する」
「え?」
「君はいつも、俺以外の人のことばかり見ているからね」
ついこの間も、こんな話をした。私は思い出して、苦笑いして首を横に振る。
「これからは、本当に成瀬さんだけ、です」
そう言ったら成瀬さんは、少しだけ考えた後で、それでも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、期待しておく」
そう答えて、成瀬さんが私の額に自分の額を当てた。
「俺はね、君のお人好しなところも、真面目なところも、かなり頑固なところも、全部、好きだ」
鼻が触れ合いそうなくらい近い距離に彼の顔があった。きれいな黒い瞳が、甘く光った。
「君が思うよりも、ずっと、俺は君が好きだよ」
そう言って、私の顎に手をかけて持ち上げた。
「俺の方がずっと君を思っている」
そして、顔を傾けて私にキスをした。
私たちの背後で、悲鳴のような声が上がった。
多分、通りすがりに成瀬さんを見て、見惚れていた人たちが、ショックを受けたのだと思う。
その声に驚いて思わず離れようとした私を、成瀬さんは離してくれなかった。
少しして、唇を離した彼は、悪戯をした子供みたいな顔で私を見た。
「里保の真似をして、俺も大胆になってみたよ」
その顔が、とても、とても甘かった。
さっきみたいな悲鳴がもっとたくさん聞こえるような甘い笑顔で、見慣れているはずの私も、思わず顔を赤くしてしまった。
そして、その顔をみて実感する。
私はこの先もきっと、この人に敵うことはないだろうと。
その理由は、彼が好きだからに他ならない。
それから約一ヶ月の準備期間を置いて、成瀬さんは新しい部署へ異動した。
私は一緒に異動することを勧められたけれど、断った。
その話をした時、成瀬さんはちょっと眉を寄せた。
だけど、実力もないのについて行っても、結局いつまでも私は独り立ちできないまま終わってしまう。成瀬さんの隣で働くためにも、まずは自分できちんと仕事をしたかった。やっぱり今までは成瀬さんに守ってもらっていたから、一人で頑張らないといけない。
自分の足でしっかり、彼の隣に立ちたい。
そう、話をしたら、それを理解してくれた。
成瀬さんがいなくなった後、私は柳原さんに付く事になった。神田さんが異動する事になって、柳原さんのアシスタントがあいてしまったこともある。
課長がそれを提案してきた時、成瀬さんは絶対に嫌がるだろうと思った。
嫌な反応を予想していた私と課長の前で、意外にも成瀬さんは即答でO Kした。それに驚いていると、成瀬さんはあっさりと
「今となっては、あの人以上に安全な人間もいないからな」
そう言って、それをしっかり聞いていた柳原さんに早速文句を言われていた。
だけど柳原さんのことを信用しているのは事実らしく
「あの人の仕事はちゃんとしているし、きっと里保を成長させてくれる」
と言っていた。その後に
「それに意外と真面目だから、無理に俺から君を奪うようなことは絶対にしないよ」
そう言って笑っていた。
「じゃあ、おせわになりました」
成瀬さんはそう言って大きなダンボールに荷物を持って、営業を出た。営業のみんなが彼を見送る。
「私もついていっていいですか?」
荷物を持って新しい部署までいくのに私もついていく。
同じ社内で異動するだけなのに、なんだか離れ難い気がした。
ついていかない、と言ったのは自分なのに、一緒に働けなくなるのをとても寂しいと思ってしまうのも、自分だ。
「またすぐ家で会えるのに、そんな顔をしなくても」
隣からそんな声がかかる。私も苦笑いした。
相談して、私たちは一緒に住む事にした。
以前その話が出た時は、成瀬さんがそうしたいと言っていた。だけど今回は私が強く頼んだ。
できるだけ一緒にいる時間を作りたかった。
以前はあんなに一緒にいたいと言っていた成瀬さんが、今回は無理しなくてもいいと言ったことに驚くと、成瀬さんは苦笑いした。
「あの時はね、俺も焦っていたの」
あの時は私たちが付き合って間もない時だった。成瀬さんはいつか、そう遠くない時期に、私にアシスタントになった経緯がわかってしまうだろうと思っていた。
その前に、少しでも自分との繋がりを強くしたいと焦っていたらしい。
「もう焦る必要もないから、里保のペースでいいよ」
そういう彼の顔も、以前より晴れやかだった。
「早く成瀬さんの下に呼んでもらえるように、頑張ります」
私は彼を見上げた。成瀬さんは視線を下げて、私を見て肩をすくめた。
「あんまり遅いと、待ちきれなくて迎えにいくから」
「頑張って、急ぎます」
私の返事に成瀬さんはまた、苦い顔をした。
「約束、したのに」
「あ」
上司と部下だったせいか、いつまでも敬語が抜けないことを指摘されて、それを少しづつ変えるために練習しているところだった。
だけど慣れというのは恐ろしくて、なかなか変えられない。
立ち止まると、隣の彼も立ち止まった。
私は意を決して、口を開く。
「光輝…さん」
成瀬さんはそれを聞いて、笑った。
「よくできました」
私は彼に向かって笑って、あることに気がついた。
「どうした?」
ちょうどその場所は、以前私が成瀬さんの後ろ姿を見かけたところだった。
それから何度もここで立ち止まって、空を見上げた。
今日はあの時みたいな青空だろうか。
思わず空を見上げると、成瀬さんが近寄って、私と並んで空を見上げた。
「今日はいい天気ですね」
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。
以前は一人で見上げていた場所に、今は彼と二人で並んでいることが、恥ずかしいような、不思議な気持ちになる。
隣の彼は、降り注ぐ窓の光に照らされていた。
また、こうして私たちは同じ景色を見るだろう。
たくさんの時間を共に過ごして、同じものを見るだろう。
二人で並んで。
私は隣の彼を見上げる。
「行こう。光輝さん」
彼は私を見て、笑顔でそれに答えてくれた。
私の大好きな笑顔で。
<完>
読んでくださった方、ありがとうございました。




