不安
「おかえりなさい」
リビングに入ってきた成瀬さんは驚いた顔をした。
「食事、作ってくれたんだ」
「はい」
机の上には私が作った夕食が並べられている。
今日は最初から成瀬さんの家に行く予定だった。外食にしようと言っていたけれど、急に考えて食事を作った。
「あんまり手の込んだものではないけど」
「十分だよ」
本当はもっと豪華なメニューにしたかったけれど、やっぱり時間が足りなかった。不満そうな私に、成瀬さんはありがとう、といって軽く私を抱きしめてから、着替えに行った。
「疲れてる?」
隣から声がして、そっと手が握られた。心配そうな眼をした成瀬さんが私を見ている。私はあわてて頭を横に振る。
「疲れてない。元気ですよ」
笑顔で成瀬さんの手を握り返すと、成瀬さんは視線を私から逸らせた。
「講習もあるし、大変だろ?無理はしなくていい…」
「無理してないですよ」
思わず彼の言葉をかき消すように声を出した。
「今日の講習もとても勉強になりました。それによくできてるって褒められて」
笑って成瀬さんを見る。だけど、その顔はまだ心配そうに曇っている。
「大変なところもありますけど、頑張ります。あ、仕事もちゃんとしますので、心配しないでください」
いい終わって成瀬さんを見ると、成瀬さんはそっと手を伸ばして私の頭を撫でた。
「わかった」
その言い方が、まるでなだめられているみたいだった。
成瀬さんは黙って、私を自分の腕の中に引き寄せた。私はそっと目を閉じる。
「成瀬さん」
「何?」
「やっぱり、しばらくここから通ってもいいですか?」
ずっと一緒に住もうと言っていたのは、成瀬さんで、むしろ私はそれを躊躇っていた。だけど急に気持ちを変えた私に、成瀬さんは驚いたのだろう。少しの沈黙の後、背中の手が優しく私の背を撫でた。
「いいよ。いつからでもいい」
断られたわけでもないのに、涙が出そうになって慌てて飲み込む。
今日の私はおかしい。その理由は、もうわかっている。
吉田さんの事だ。彼女の存在が、私を不安にさせていた。
あんなにきれいな大人の女性と付き合っていて、どうしていま、私と付き合っているのだろう。
私はあんなに美人でも、仕事ができるわけでもない。
こんな私と一緒にいて、楽しいのだろうか。
私があの人に勝てるものなんて、きっと、何もない。
そんなどうしようもないことを考えてしまう。
だからあの人に負けないように、自分をよく見せたくて、必死だった。
背中の手が、そっと私を撫でた。
「俺はね、里保と仕事をするのも、こうして一緒に過ごすのも好きだ。だから、里保と一緒に暮らすのはきっと楽しいだろうし、嬉しい」
後頭部に添えられた手が、そっと私の頭をなでる。
「だけど、今は、もっと力を抜いてほしい」
それを聞いたら、また涙が出そうになった。
「俺と一緒にいるために無理しないでほしい」
確かに、私は無理をしている。
何か、成瀬さんが喜んでくれることを、自分にできる事をしないといけないと思っている。
「今すぐに理由を話してくれなくていいから、無理はしないで」
「別に無理なんてしてないです」
だけど、本当のことは言えない。言ったら、吉田さんのことを話すことになる。そうしたら、成瀬さんの気持ちが離れてしまう気がして、怖い。
「むしろ今は頑張りたいです」
「そう」
頭の上で、笑い声がした。私は彼の胸に身を寄せる。彼の腕は私を受け止めて、そして優しく包む。
「無理していないので、まだ頑張れます。仕事も頑張ります。だから…」
そばにいさせてください。
最後まで言えなかった。
彼の腕が強く私を引き寄せて、そして頭を撫でられる。
これ以上話さなくていいというように、ゆっくりと撫でられて、私は目を閉じる。
私だけが不安で、とても頼りなかった。
閉じた瞳から一粒涙がこぼれた。
その涙はとても上手に隠したから、きっと彼にはわからなかったと思う。
***
この先も講習会に行くかは、とても迷った。正直とても行きたくない。だけど、行くしかない。あんなに張り切っていた講習会に行かないと言ったら、きっと成瀬さんが不審がる。上手に言い訳できる自信がなかった。
ため息をつきながらもその日の仕事をする。
「休憩しよう」
成瀬さんは会議中だけど、おそらく講習会の前には戻るだろう。私はデスクから立ち上がった。
温かい飲み物が欲しくて、ビルの1階に入っているコーヒーショップへ行こうと歩いていると、運悪く反対側から吉田さんが歩いてきた。
「牧野さん」
そう言って笑顔で私に近寄ってくる吉田さんに、私は立ち止まって頭を下げる。
「ずいぶん早いですね」
講習の1時間以上前だから驚いて声をかけると、吉田さんは苦笑いして私を見た。
「今日は準備もあって」
重そうなバッグの他に、大きな紙袋を二つも持っている。
「お手伝いします」
そう言って荷物を受け取る。本当ならあまり話したくはないけれど、見過ごせなかった。
吉田さんと歩きながら当たり障りない話をする。彼女は笑顔で話しかけてくる。
「なんだかこうしているととても、懐かしいな」
そう言って息を吐く。私は曖昧に頷いた。
「いつも何かの拍子にここでの事を思い出すの。楽しかったなあって」
懐かしがるその姿には嘘はなさそうで、たぶん、彼女にとってここで働いていた時が本当に楽しかったのだろう。楽しかった理由が、純粋に仕事が楽しかったからなのか、成瀬さんと付き合っていたからなのか…詳しいことは、気になるけれど知りたくはない。
そういえば、とふと思い出す。会社を辞める時、データ持ち出しをしたという噂があった。
それはどういうことなんだろう。
隣を見ていると、急に彼女も私を見てきたから、思い切り視線が合う。
「今日も、たくさん準備してきたから、よろしくね」
「あ、はい」
思わず返事が疎かになってしまう。それをきっかけにお互い黙ってしまう。
すると彼女が立ち止まった。
「牧野さんにお願いがあるんだけど、話してもいい?」
立ち止まって振り返ると、吉田さんが思いつめたような顔で私を見ていた。
吉田さんは少しためらって、でも思い切ったように私に向き直った。
「私がここで働いていたことは話したけれど、実は辞めた後もずっと心に残っていることがあって…」
彼女の視線を下げる。あんなに華やかな美人なのに、今は暗い顔をしていた。
それを見て、確信する。きっと「心残り」は成瀬さんの事だ。橋本さんでなくて、私に話すのは、それが私に近い人の話だからだ。
吉田さんは顔をあげた。私の目を見る。
「成瀬君に、会わせてくれないかな」
その顔は頼りなくて、たぶんとても勇気を出しているのだろうとわかる。
「伝えたいことがあって。どうしても謝らないといけないことがあるの」
私たちはしばらくお互いを見ていた。少しして、私はなんとか平静を装って笑う。
「なら、吉田さんが成瀬さんに直接連絡したらいかがですか?そのほうが自然です」
ごく常識的な返事だ。普通は誰でもそう答えるだろう。だけど全部言い終わる前に、吉田さんは首を振った。
「それはできないの」
そう言って唇をかんだ。
「ちょっと色々あって、私が連絡しても成瀬くんは応じてくれないと思う。だからアシスタントの牧野さんが間に入ってくれたら、きっと話してくれると思うの」
吉田さんは表情を緩めて、小さく笑った。
「あの成瀬君が女性をアシスタントにするなんて思わなかった。ずっと、女性がついて困ることが多かったから、女性のアシスタントはつけていなかったの。だけど、そんな成瀬君のアシスタントができて、しかも仕事もうまく行っているなんて、牧野さんはかなり信用されていると思うの」
吉田さんは私に笑いかける。
「信用する人からの話だったら、きっと成瀬くんも聞いてくれるって思って」
それはずるい話だと思った。
いくら私と成瀬さんのことを知らないからと言って、流石に引き受けられない。
今だって、本当はこうして彼女が社内を歩くことが怖い。今日は成瀬さんも社内にいるから、何かの拍子にあってしまうかもしれない。
どうしても、成瀬さんに彼女を会わせるのは、いやだった。
会わせたら、おしまいだと思ってしまう。
そうしたら、成瀬さんの気持ちが彼女に向いてしまう気がした。
「それは…」
なんとか出した声は、かすれていた。どう話すべきか混乱する。でも本心はここから逃げ出してしまいたいくらいだった。
なのに、どうして悪いことって重なるのだろう。
「牧野さん?」
背後から私をよぶ声がかかった。
その声の主は振り返らなくてもわかる。
私が振り返ると、そこには成瀬さんがいた。成瀬さんは私を見て、笑顔になって私に向かって歩いてきた。
「牧野さん。どうした…」
来ないでほしい。
そう思ったのに、伝わるはずはなくて、そのまま成瀬さんは歩いてきて、そして、私と、私の横の吉田さんをみて、表情をこわばらせた。
「…吉田さん」
だけど、私は気が付いてしまった。
彼が彼女の名前を呼ぶ前に、別の呼び方をしようとしたことを。
それが、彼女の名前の最初の文字であった事を。
成瀬さんは『香織』と呼ぼうとしていた。
吉田さんは少し顔を歪ませて、じっと成瀬さんをみて、それから成瀬さんが持っているノートパソコンのところで視線を止めた。パソコンと一緒に持っていた資料には、成瀬さんがいつも使っている万年筆が挟んであった。吉田さんはそれをみて、口を開いた。
「成瀬くん、今もその万年筆、使ってるんだ」
そう言って笑った。
「懐かしい。変わらないのね」
その顔は本当に懐かしいと思っているのが伝わるような顔だった。
その万年筆は、成瀬さんがいつも大切に使っているものだ。
以前、成瀬さんは『あれは大切な人からの贈り物』だと言っていた。
もしかして、あれは吉田さんからのプレゼントなのかもしれない。そんな、とても嫌な予想が頭を過ぎる。
その万年筆は私が初めて成瀬さんと話をしたきっかけになったものだった。
吉田さんからのプレゼントが、私たちを結びつけたなんて…思いたくない。
やりきれない気持ちになって、私は思わず二人に背を向けてその場から逃げるように走った。
「里保!」
背中から聞こえてきた声には、振り返る事はできなかった。




