動かす理由
「分かってくれた?」
「はい」
目の前の女性は満足した顔で出て行った。残された私は大きく息を吐く。
彼女は、私がアシスタントになってすぐに忠告してきた人だ。今日は、また同じようなことを言いに来た。
最近、特にチョコレート事件が知れ渡ると、みんなの視線はさらにキツくなった気がする。
実はチョコレートをもらっただけでなくて、お付き合いしています、とは言えない。
チョコレートでこれでは、そんなこと言えるはずもない。
私はため息をついた。
あれ以来、柳原さんは私に仕事を頼むようになって、その度に成瀬さんが少し、他の人にはわからない程度に苦い顔をする。柳原さんからの仕事は、本当になんでもない物で、だからこそ断りづらい。
些細な仕事だから、これくらいすぐに終わる、というずるいところを突いてきている気がする。
「牧野さん、今日もありがとう」
そう言って笑いかけてくる柳原さんに私は苦笑いを返す。
「いいえ。でも、成瀬さんもこれから忙しくなるようなので、しばらくお手伝いできないかもしれません」
「そうなの?じゃあ、また様子を見て頼むよ」
私はやんわりと断ったが、それでも柳原さんは分かっているのに笑顔で返してきた。
「牧野さんの作ったもの、評判いいんだ」
「あれ、わざとだね」
松橋さんがささやいてきて、私は苦笑いで返す。
「それ、大丈夫?」
指差された先にはまたもやチョコレート。もう、さすがに困る。今日は左隣の成瀬さんはいない。それに安心しながら、帰ってきて、このチョコレートを見てどんな顔をするかは予想できるから、次こそは断わろうと心に決める。
「牧野さん、ちょっといい?」
課長から休憩しようと誘われて、休憩室でコーヒーを飲む。
「柳原、大丈夫?」
私はため息で返す。
「こなせない仕事ではないですけど」
「ちょっと目立つよね」
課長も苦笑いした。一応注意したけどね、と言う。
「私はいいですけど、柳原さんのアシスタントさんが…」
「良くは思っていないかな」
その返事にため息をついた。
柳原さんのアシスタントは私の2つ上の神田さんという、大人しいけど、仕事はきちんとする人だ。多分私が頼まれている仕事も、神田さんは十分にこなせるだろう。
課長も息をはいた。
「これ以上は人を動かす必要が出てくる。例えば君を動かすとか」
「私を?」
困った顔をして課長はコーヒーを飲んだ。
「成瀬からも柳原からも離すとなると、松橋につけるのが無難だけど。それでは成瀬を納得させられないかな」
「成瀬さんを?納得?」
どういうかと聞き返すと、課長は苦笑いした。
「成瀬と君を離すのが、一番簡単だけど。でも成瀬からは絶対に君以外とは組まない、と言われているから、拒否されるな。後はうまい理由で一時的に君を動かすか」
確かに成瀬さんから離れたら、柳原さんが私に固執することもないだろう。黙っていると、課長は嬉しそうに笑う。
「やっぱり寂しい?成瀬と離れるの」
否定しようとして口を開くより前に、課長がニヤリと笑った。
「だって君たち、付き合ってるでしょ」
私は手を止めた。目を見開いて課長を見ると、課長は肩を竦めた。
「成瀬から聞いたよ」
それを聞いて私は急に恥ずかしくなる。
「僕が柳原に言われて君を異動させるかもしれないから、僕には話したんだよ。仕事はちゃんとするから、自分たちに手出しするなって事」
なんとなく成瀬さんが言いそうなことではある。課長は真剣な顔を少し崩した。
「でも、分かってたよ。成瀬、君には最初から優しかったし」
私は最初の頃を振り返る。そっけなかったし、視線が冷たかったと思う。
「最初は私にもそっけなかったですよ」
反論した私に、課長はおかしくてたまらないと言うように笑った。
「牧野さん、本気でそう思ってるの?だとしたら相当鈍いね」
課長は笑いを止めて私を見た。
「好きな人には優しいの、当たり前でしょう。成瀬は君を選んだ時点で、すでに君に対して好意はあったんだよ。多分本人も自覚はしていなかったけどね」
課長は笑ってはいるけど、私をしっかり見ていた。
「特に最近の君への態度はあまりにも違うから、成瀬のことを好きな人ほど、絶対におかしいと思っている」
そして呆れた顔をする。
「あいつはみんなにバレてもいいと思ってるし、あえてそういう態度をとっている気もするよ」
課長はそう言って笑って私を見た。
「で、一つ相談があるんだけど、いい?」
その顔はもうすっかり仕事の顔だった。
***
「で、何、これ」
訝しげな成瀬さんの問いに、私は苦笑いした。ソファに座っている彼の手には、課長からもらった資料がある。そこには大きく社内講習会のお知らせ、と書いてある。
「これ、課長が私に受けて見たらって。ためになるって」
今日の昼、課長から渡されたのは、社内講習会のお知らせだった。年に何回か希望者を募って講習会が開かれる。内容は語学だったり、接遇だったり多岐にわたる。内容によって回数や期間は異なるけれど、数ヶ月間、週に1−2回は必ず行われる講習会である。人気の講座は抽選で受講者が決まることもある。
「まあ、でもこの内容が…」
「え、でもいいと思うけど」
成瀬さんは納得できない、と言うように資料をテーブルにおいた。
資料には『女性の仕事について〜女性キャリア養成〜』とある。
「俺は別に里保にキャリアを目指して欲しいわけじゃないけど」
成瀬さんはじとっとした目でこっちを見る。私は苦笑いした。
「里保が講習を受けるなら、こういうものじゃなくて、語学とかの方が良いと思うけどな」
課長がこれを渡した理由は、ただ私を営業から離す時間を作りたいだけだ。
私が営業にいると柳原さんが声をかけて、色々おかしくなる。だから私が営業から離れれば、今の状態も変わるだろう、というものだ。
課長としては勧める講座はなんでも良かったのだろう。たまたま女性目当てのものだったから、私に声をかけるにも都合が良かっただけだ。
「私も別にキャリアを目指してるわけでは…」
「じゃあ、別に」
「でも、いろんな意見を聞くのも大切だし、やっぱり勉強になるかなと思って」
私は成瀬さんにもう一度パンフレットを示す。こういう話もやっぱり勉強にはなるだろう。
「きっとアシスタントの仕事にもいかせるって」
そう言ってチラリと成瀬さんを見ると、彼は渋々、と言った感じで頷いた。
「まあ、良いか。勉強してきなよ」
「ありがとうございます」
ほっとして息を吐くと、私は成瀬さんの隣に座った。手を伸ばしてテーブルの上にパンフレットを戻す。
「これ、詳しくは何も書いていないけど、外部講師ですかね?」
「そうだろうな、大体外から人を招待するから」
パンフレットには時間や場所が書いてあるだけだった。みただけでは詳しい事はわからない。
「でも、仕事に影響しないように、頑張ります」
私はそう言って成瀬さんに向かって笑った。
成瀬さんは横からパンフレットを見ていた。私は成瀬さんに向き直る。
「仕事が疎かになったら、途中でやめます」
「中途半端は良くないから、やるならしっかりやって」
「はい」
成瀬さんはそっと私の背に手を伸ばしてきた。そのまま背中から彼の方へと引き寄せられる。成瀬さんは悪戯っぽく笑った。
「忙しいなら、いつでもうちに来ていいよ」
口角が綺麗に上がって、甘い笑顔になる。私はその笑顔に思わず見惚れてしまう。
「はい」
「今日は、どうする?」
そう言って、これ以上ないくらい甘く笑いかけてくる。背中の手に力が入って私は彼の胸に飛び込む。
そっと視線を上げて時計を確認する。本当なら、この話をしたら帰るつもりだった。
私は視線を動かすと、成瀬さんは笑顔のまま、そっと手を上下させて私の背を撫でた。何だかそれだけでとても気持ちがいい。何だか帰るなんて、言えないな。そう思っていると、成瀬さんは私の顔を覗き込む。
「一緒に、住む?」
「えっ?」
思わず変な声が出てしまった。驚いた私を成瀬さんは意外そうに見つめた。
「そんな驚くことか?」
「いや、驚きました」
「前も言ったような気もするけど」
「何だか気持ちが固まらないというか、少し急すぎる気がして」
正直、展開が早くて、早すぎると思ってしまう。仕事もプライベートも一緒で、しかも私はこの人に頼りきりだ。それでいいのかと思う。
何よりもこんなに急に一緒に住むなんて、ちょっと踏み切れない。こういう事は焦って決めたくない。
だけどその返事に、成瀬さんは挑戦的な顔をした。
「俺は絶対にこれと決めた交渉は落とさないから」
私は恐る恐る返事する。
「お手柔らかにお願いします」
「ひとまず、今日はどうする?」
そっと視線を動かして、時計を見て、もう一度彼を見る。ほんの少し迷った後で、私は口を開いた。
「もう少し、一緒にいてもいいですか?」
「少しだけ?」
わざと言わせようとする彼に、私は言い直す。
「今夜は」
それを聞いて、彼はまた笑った。私は何だか苦い顔をしてしまう。
我ながら流されてるな、とは思うけれど、でも仕方ない。
私は横の彼の顔を見る。
色々言っても、私は彼にとても、甘いのだ。
これが『惚れた弱み』だなあ、と心の中でそう呟いた。




