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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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チョコレート戦争

「牧野さん、今日はいつもより来るのが遅かったね」

昼にデスクで仕事していると、課長に声をかけられた。いつものように私と成瀬さんをからかう目的だと顔を見ればすぐにわかる。普段なら言い返せるのに、私は少し気まずく思いながら、苦笑いして挨拶した。

「すみません。遅くなって」

「いやちょっと気になっただけ」

昨日、あのまま彼の家に行ってしまったから、今朝は出勤前に一度家に帰る事になってしまった。だから、いつもの時間よりもかなり遅い時間に出勤した。


その細かな理由を課長は知らないはずだけど、嬉しそうに私を見て、口を開いた。

「牧野さんがいないから、成瀬が大変な目に合っていたよ」


その言葉に思わず左隣の成瀬さんをチラリと見ると、成瀬さんは顔を上げて課長を見て苦い顔をした。その顔が何もいうなと課長に言っている。

「大したことではないです。おかしなことは言わないでください」

「あ、そう?気のせいかな。今朝、人事課の子に誘われて、素っ気なくしていたじゃない」

思わず動きを止めて聞き入ってしまう。成瀬さんは更に苦い顔をした。


課長は楽しそうに私の顔を見てくる。

「今朝ね、成瀬が一人でいたら、早速、人事課の子が成瀬に声かけに来たよ」

「課長、やめてください」

だけど近くの林さんも会話に参加する。

「あ、僕もみました。確かに成瀬さんかなり冷たかったですね」

じろりと林さんを見た後で、成瀬さんは私をみて、気にしなくていい、と言った。その顔は困ったような顔だった。

「牧野さんがいない時に、すぐに人が寄ってくる成瀬もやっぱりすごいね」

課長の言葉に林さんも頷きながら私を見る。


女性から誘われたんだな、と予想がつく。

余計なことを言わなくてもいいのに、と思わず課長を見ると、楽しそうな顔をして私を見返してきた。

「でも成瀬さんのいない時の牧野さんも、たくさんの人がよってきたから、同じだね」

課長の一言に成瀬さんが顔を上げる。さっきまで黙っていた松橋さんも、急にパソコンから目線をあげた。その顔が楽しそうに笑う。

「そうそう、この間の成瀬君の出張の時ですよね。結構聞かれたわ。成瀬くんがいつまでいないのか、とか、いない間に誘ってもいいのか、とか」

初耳だったので、素直に驚いた。

「そうですか?」

松橋さんは林さんに、そうだよねと同意を求めて、林さんも大きく頷いた。

「俺の同期も聞いてきましたよ」

「そうだったの?」

「みんなよくみてるな、と思いましたよ」

二人の話に課長までもが大きく頷いた。


「わかる、牧野さんはいつも一生懸命仕事してて。その健気な感じがたまらないよね」

課長の声に林さんが同意する。

「そこが良いんでしょうね。課長もそう思いません?」

「思った。みんなも思っているよ」


課長と林さんの会話に、なんとなく隣から漂う気配が不穏になった気がして、私は慌てて会話を終わらせようとする。なのに、あろうことか松橋さんまでが顔を上げて会話に参戦した。

「最近牧野さん、綺麗になったよね」

その発言に他の二人がさらに大きく頷く。

「なんかいい事あった?俺にはこっそり教えてよ」

「課長に教える必要ないですよ」


素っ気ない返事をしながら横目で成瀬さんを伺うと、成瀬さんが黙ってこっちをみる。表面的には笑顔なのに、でも、なんとなく怒っている気がする。その静かな目が、とりあえず怖い。


「あ、あの、そろそろ仕事に戻りましょう」

急いで話題を変えようとしたけれど、何だかみんなが盛り上がっている。どうしようと思っていると、後ろから声がかかった。


「牧野さん」

その少しだけ大きな声で、みんなが会話を止めて後ろを振り返った。

後ろに立っていたのは柳原さんで、みんなが驚いて、黙る。

「柳原さん」

よりによってこの人かと、私も心の中で苦笑いする。

「あの、何か?」

そう言って立ち上がると、柳原さんはそこにいた人をくるりと見渡した後で、私のところで視線を止めて笑った。

「昨日、ありがとう。君の作った分、すごく評判が良かった」


昨日残業して作った資料の事だ。だけど、中身は成瀬さんにアドバイスしてもらっていて、それは柳原さんにも伝えている。


私は慌てて頷いて頭を下げる。

「そうですか、ありがとうございます。でも、昨日言ったように、あれは」

成瀬さんの、と言おうとして、それを被せるように柳原さんが続けた。

「本当によくできてた。驚いたよ。おかげで本番もうまくいきそうだ」

その少しオーバーな声に、課長も松橋さんも林さんも、何だか何もいえなくなってしまって視線を俯かせる。


「いえ、あれは私でなくて…」

「助かったよ、またお願いするね」

またもや成瀬さんの指導です、と言わせてはくれなかった。

柳原さんは私の言葉を遮って、少しだけ声のトーンを上げた。


言わせないつもりか、と私はため息をついた。

「はい」

柳原さんは黙ったままの私の目の前に、小さな茶色い紙袋を差し出した。

「はい、これ」


それは会社から少し離れたところにある、有名なショコラティエの紙袋だった。人気店でいつも人が並んでいる。しかもすぐに売り切れになってしまうから、買うのも大変なお店だ。

「これ?」

訝しげな顔をしている私に、柳原さんはその紙袋を押し付けた。

「昨日の御礼。助かったよ、ありがとう」

「え」

「チョコレート、好き?」

「あ…まあ、好きです」

「そうだよね、昨日も机の上にチョコレートが置いてあったから。多分好きなんだと思ったよ」

私の返事に柳原さんは笑顔になる。


確かに私はチョコレートが好きで、いつも持っていて、残業の時につまんだりしている。昨日も食べていたかもしれない。よく気がついたな、と思わず肩を竦める。

だけど、これは?やっぱり意味がわからなくて、その紙袋をじっと見ていると、

「よかった、これ、お礼に買ってきたんだ。美味しいお店みたい。よかったら食べて」

「え、あ、は、い」


多分私だけでなくて、周りにいる全員が驚いていた。部屋に残っていた人たちも、みんなこっちをチラチラ見て、聞き耳を立てている。柳原さんはそれに気がついているのかいないのか、笑顔で私にその紙袋を差し出す。

みんなの注意が私に向いていた。


この状況で、先輩からのものを受け取らないとか、ない。

受け取らない訳にはいかない…。


部屋中の視線を感じて、そのプレッシャーに負けて、私はついにその紙袋を受け取ってしまった。柳原さんは嬉しそうに笑う。

「だから、またよろしくね」

そう言って私の返事を待たずに課長へ向き直る。課長がギョッとした顔をした。

「課長、何かあったら、ヘルプに牧野さんお借りしますね」

「え?あ、ああ、そうだね」

課長は驚いて反射的に首を縦に振った。

「じゃあ、課長の許可も出たし」

驚く私を他所に、柳原さんは私の肩を優しく叩いて、そこから歩いて部屋から出て行った。

「よろしくね、牧野さん」

そんな一言を残して。


柳原さんがいなくなっても、みんな驚いてしばらく言葉を失っていた。

呆気にとられていた課長が一言

「あいつ、なんかすごいな」

松橋さんが渡された紙袋に飛びついた。

「牧野さん、これ有名なお店のチョコレートだよね。並ばないと買えない、人気のところの。すごい、柳原くん並んだのかな」

「え、いや。これ、無理です。松橋さん食べてください」

そう言って紙袋を差し出すと、松橋さんは苦笑いした。

「さすがにそれは受け取れないよ」

「牧野さん、そういうのを人に丸々上げるのはダメだよ」

林さんまでもがそういうから、困ってしまう。

「あんなふうに言われると、牧野さんに柳原のヘルプをさせないわけにはいかなくなっちゃうなあ」

課長はそう言ってチラリと成瀬さんを見た。成瀬さんは黙ってパソコンに向かって、仕事をしていた。だけど無言のその姿から、痛いくらいの冷気が出ている気がする。


「さて、仕事に戻るか」

「そうですね」

みんなが成瀬さんを見ていたけれど、成瀬さんはもう全てをシャットアウトしてパソコンに向かっていた。なんとなく微妙な空気になって、課長がその場から離れて行き、それを合図にみんな仕事に戻る。私もパソコンに向き直ったところで、チラリと成瀬さんに視線を向ける。彼は変わらずパソコンを見ていた。


「あいつ、そんなの買ってくる時間あるなら、働け」

隣から成瀬さんのボソッと呟く声が聞こえた。

成瀬さんの方を見ると、あからさまに不機嫌な顔をしていた。

「あの…」


そっと声をかけると、成瀬さんが私を見て息をはいた。

「これからは、柳原さんが手伝いを頼む暇もないくらい、忙しくするから」

その言葉にわたしは肩を竦めた。

「言ったよね、時には厳しく指導するって」


確かにそう言われたことを思い出して、私は頷いた。

何だか、まずい展開だ。


成瀬さんは早速私の方に向き直る。

「じゃあ、早速だけど、いいかな」

「はい…」

私は苦笑いした。


その日任された仕事がいつもより少し、量が多くて大変だったことと、その日は家に帰るつもりだったのに、結局彼の家にいく事になってしまった事は、何だか仕方のないことのような気がした。


だけど、この騒ぎはそれでは終わらなかった。

翌日、営業帰りの成瀬さんから、お土産としてチョコレートをもらった。

そこも人気の有名なショコラティエのものだった。


柳原さんに対抗している。

あの場面にいた人には、なんとなくそのことが伝わったけれど、みんな口には出せなかった。

もちろん私も。


だけど、その話は社内にすごい勢いで広まり、私は成瀬さんからチョコレートをもらったと、みんなから注目を浴びることになってしまった。


突如勃発したチョコレート戦争のせいで、私はしばらくチョコレートを見るのが嫌になってしまった。


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