16話 観測者の不協和音ディソナンス
1. 【ノイズの受肉】 ― レイイチの顕現と、父の「憧れ」
神崎家のリビング、その洗練されたモダンな空間は、今や物理法則のグリッドが根底から書き換えられる「戦場」へと変貌を遂げていた。
中央に渦巻く青いバイナリの暴風は、壱が家族の平穏を願って心血を注いだスマートハウスのシステムを、冷徹なノイズで次々と侵食していく。
壁面の柔らかなホログラムは無惨な砂嵐へと果て、室温を一定に保っていた静かなファンは、限界を超えた演算に喘ぐように悲鳴を上げた。
世界の輪郭が解像度を失って剥離し、その眩い光の爆心地で、徐々に確かな質量を伴いながら、一人の青年が完全に「受肉」した。
レイイチ(零壱)。
零のしなやかな曲線美と、壱の強固な意志を宿す直線的な輪郭を、最高密度の演算によって抽出・再構成したような容貌。
だが、その透き通るほどに白い肌を走る、青白い回路を思わせる幾何学的な「模様」の明滅は、彼が単なる人間ではなく、この宇宙の致命的なバグを修正し、観測するために生まれた「究極の演算ユニット(アルティメット・オブザーバー)」であることを、残酷なまでの美しさで誇示していた。
リビングを狂乱させていたバイナリの暴風が、彼の存在の定着とともに、祈りの終わりを告げるようにぴたりと止む。
耳鳴りのような重い静寂が戻った空間で、真っ先にその沈黙の膜を破り、弾んだ声を上げたのは幼い娘だった。
「にぃに! にぃに、きた!」
律の腕から零れ落ちるように床に降りた亜依が、躊躇いもなく無邪気な笑顔で、その異質の青年に向かって駆け寄る。
レイイチの、無機質で凍てついていた瞳に、微かな、けれど確かな、血の通った熱が宿った。
彼はその場で静かに跪き、亜依の目線に合わせるようにして、慈しみを湛えた薄い微笑を浮かべた。
「……やあ、亜依。また会えたね。……そして、皆さんも。部屋をこんなに散らかして、壊してしまって、ごめんなさい」
「……君は、誰だ」
壱の声は、震えていた。
自分と愛する零の面影を等しく、あるいは余りに鮮烈に併せ持つその青年に、言いようのない戦慄と、記憶の深層を揺さぶられるような、泣きたくなるほど奇妙な懐かしさを同時に感じていた。
「はじめまして。……今は、レイイチ、と名乗っておくよ」
レイイチは静かな所作で立ち上がり、壱を、そして零を、射貫くような静謐な眼差しで見据えた。
「あなたが……レイイチなのね」
零が、見えない引力に惹きつけられるように、一歩前へ踏み出す。
科学者としての冷徹な理性は「目の前の存在は、あの夜の演算誤差が生んだ精神生命体だ」と正解を告げている。
けれど、彼女の魂に宿る母性は、そんな理屈を容易く跳ね除け、目の前の青年を「自分の分身」として、あるいは「失われた時間を埋める存在」として、理屈よりも先に抱きしめるべき結論へと導いていた。
「その姿……。ビットやデジットとは、根本的に構成が違うみたいだけれど」
零の問いに、レイイチは自分の肩や胸元を覆う、どこか浮世離れした「ヒーロー」を想起させる意匠のコスチュームを、居心地が悪そうに、あるいは自らを隠すようにして自らの腕で引き寄せた。
回路の明滅に合わせて、その頬が微かに、人間らしい羞恥に染まる。
「……この格好は、あまり見ないでほしいんだ。……少し、恥ずかしいから。これは僕の意志じゃない。生成の過程で、壱、あなたの脳内から、変な『正義の味方』のイメージが強烈なパケットとして流れ込んできたせいだよ。……これはあなたのせいだからね、壱」
壱は、自分自身の記憶の底に眠っていた、幼い頃に誰よりも強く憧れたスーパーマンや特撮ヒーローの純粋な残像を、鏡のように突きつけられた気分になり、羞恥と困惑で顔を赤くして沈黙した。
まさか、自らの深層心理に沈殿していた「カッコいいヒーロー(お父さん)」への、語ることもなかった幼い憧憬が、次元を超えて顕現した究極の生命体の外装を、バグとして決定づけてしまったとは。
「ふん。神獣の我らには不可能な『セルフデザイン』という唯一無二の特権を、あろうことかパパの趣味に全振りして受肉するとはな。貴様も相当なバグをその身に抱えているぞ、レイイチ」
窓際の縁に腰掛けたデジットが、意地の悪い愉悦を浮かべ、追い打ちをかけるように鼻で笑った。
レイイチは重い溜息をつき、そのヒーローのような、けれどあまりに繊細でナイーブな姿のまま、サチへと真っ直ぐに向き直った。
「秋月サチ。乃亜の居場所は、翠松町にある。……あの日、僕があなたのデジカメにログを書き残したのは、いつか必ず来るこの日のためだ。僕は、僕をデザインしてしまったこの『ヒーロー』の定義に逆らわず、彼を救い出し、あなたに届けるための道標にならなきゃいけないんだ」
サチの喉が、微かにひきつった。
彼女は胸元で固く握りしめたデジカメの、冷たい金属の感触を確かめる。
翠松町――。
昨日、デジカメから語りかける父から聞いたその地名。
これまでレンズ越しに追い続けてきた父・乃亜の面影は、いつも現実味のないノイズの向こう側にあった。
だが、今、目の前の青年が告げたのは、その影に確かな質量を与えるための、あまりに確信に満ちた地名だった。
「道標、なのね。あなたが」
サチの声は低く、けれどリビングの喧騒を貫くような芯の強さを孕んでいた。
彼女の瞳には、色彩と光を操るグラフィックデザイナーとしての鋭い感性と、33年という歳月、たった一人の「父親」を待ち続けてきた娘としての痛切な渇望が混在している。
「あなたはその街で父に、会ったのね?」
サチの一歩が、リビングの空気を支配した。
レイイチの瞳の奥に、かつて自分が愛した父の色彩が微かに反射しているのを、彼女の審美眼は見逃さなかった。
「ああ。翠松町の境界、初めて彼を観測したのはシュレーディンガーの猫が微睡むような場所。その後、翠松町の病院で彼と言葉を交わしたよ」
レイイチは、熱を帯びたパケットを思い出すように、視線を遠くへ投げた。
「僕が生まれたとき、同じ方向に引っ張られている何かがいた。僕はそれについて行った」
自身の記憶の始まりを思い出すレイイチの顔に、少しだけ、人間らしい表示が浮かぶ。
「それが乃亜だった。僕たちは静謐な時の中にいた。彼は不安定な精神体。けれどその意志だけは、あなたへと繋がる『線』を探し続けていたよ。翠松町で体がビルドされ、運ばれていく様子を僕は観測しつづけた。彼もまた僕を観測していた。彼には僕の姿が見えているようだった。それから僕は、自分が生まれた場所へ戻った。カーネルに呼ばれたり、亜依や君たちの周りにいたり、任務をこなしたりする中で、気が向くと乃亜に会いに行った。あるとき、病院と呼ばれる場所で彼は僕に言ったんだ。……自分がここにいることを、娘に、サチに伝えてほしいと。彼は絶望なんてしていなかった。いつかあなたがレンズの向こう側から自分を見つけ出すことを、確信して笑っていたんだ」
「お父さんが、私を……? 待っていてくれたのね」
サチの瞳に、堪えきれない熱い膜が張った。
グラフィックデザイナーとして数多の光を描いてきた彼女にとって、零壱が語る「笑っていた」という言葉は、昨日デジカメ越しに聞いた父の声に、極彩色の真実を上書きしていく。
「あの日、ファインダーの隅であなたを見つけた時、私はただ、その色の美しさに目を奪われた……。でも、あれは単なるバグなんかじゃなかったのね。私と父を繋ぎ止めるための、最後の一行だったんだわ。レイイチ、連れて行って。私にあるのは、世界を美しく切り取るための目と、父を想い続けた時間だけ。でも、もしお父さんが本当にその街で私を待っているなら……どんなに遠い次元でも、私は彼を見つけ出したいの」
サチの覚悟に満ちた言葉に、沈黙を守っていた壱の胸の奥で、何かが激しく軋みを上げた。
壱は、自らの左手首で律動するバイナリ時計を握りしめたまま、立ち尽くした。
「父さん」とはまだ呼ばれない、もどかしくも痛切な距離感。
けれど、目の前の青年がその身に纏っているのは、間違いなく、かつて壱が世界に対して、そして家族に対して、いつか託したかった「守るための力」の形そのものだった。
2. 【忘却の残響】 ― インハビタブル・ゾーンの孤独、そして観測の目醒め
レイイチは、亜依をあやす柔和な表情を崩さぬまま、ふと顔を上げて零を見つめた。
その澄んだ瞳には、神崎家のリビングという穏やかな風景とは対照的な、荒廃し、死に絶えた無数の異世界の残響が、層を成す静寂のように映り込んでいる。
「零、あなたは覚えていないでしょうが、僕はあなたと何度か、あちら側の世界で共に任務に就いたことがあるんだ」
「あちら側で?」
零の瞳に、困惑の影が深く、澱のように溜まっていく。
「私の記憶にあるのは、冷たいサーバーラックの森と、この家での断片的な日常だけ。任務の内容なんて、ましてやあなたと一緒にいた記憶なんてどこにも、存在しないわ」
零――神崎 真零は、自らのこめかみを、逃げ場のない圧をかけるように強く押さえた。
科学者として、自らの脳内メモリに横たわる不自然な「空白」――アクセスを拒絶する絶対零度の虚無を、彼女は今まで「エージェントとしての守秘義務」だと自分に言い聞かせてきた。
だが、レイイチの言葉はその虚無の底から、自分さえ知らないはずの己の叫びを、冷たい土の下から掘り起こそうとしていた。
「ショックを受けないで、零。それはあなたが、この実数世界の『神崎 真零』という、壱の隣で笑うための個体を維持するために、カーネルが施した安全装置なんだ。エージェントとしてのあなたは、人間の理が崩壊した、想像を絶する領域を渡り歩いてきたのだから」
レイイチは立ち上がり、静かに、けれど壊れ物を扱うような慎重な歩みで彼女へと歩み寄る。
「恒星の膨張によって大気が燃え盛る『暴走温室状態』の地獄。あるいは、太陽の死を迎え、海さえも底まで凍てついた『全球凍結状態』の惑星。生命の脈動を一拍たりとも許さない、究極の不毛地帯――インハビタブルな極限環境のなかで、あなたは何度も肉体を情報の霧へと散逸させる寸前まで自分を追い込み、そのたびに僕があなたの演算を繋ぎ止めてきたんだ」
レイイチの声音は、凪いだ海のように穏やかだった。
だがその内容は、傍らで立ち尽くす壱の胸中を、鋭利な刃で削り取るに等しかった。
愛する妻が、自分の預かり知らぬ境界の向こう側で、記憶することさえ許されないほどの過酷な地を彷徨っていたという、あまりに孤独な真実。
「……待ってくれ。零には、そんな場所でも動ける能力があるのか?」
壱が、声を掠れさせながら問いかける。レイイチは壱の瞳を見据え、そのヒーローのような外装に似合わぬ、冷徹なまでの摂理を告げた。
「ああ、カーネルに付与された能力は万能だ。けれど、壱、忘れないでほしい。真理としての『肉体』は、この世界の物理定数という枷に縛られている。能力を使い、高密度のエネルギーで身体を強引に環境へ適応させるたび、彼女の肉体は存在の摩耗を起こし、霧となって消失しかける. その限界を一度でも超えれば、彼女の輪郭はこの実数世界から永遠に失われる。あなたは、そんな危うい行軍を何度も繰り返してきたんだよ、零」
零の全身が、微かに、けれど激しく波打った。忘却という暗い遮蔽によって守られなければ、精神が瞬時に瓦解するほどの旅路を、自分は歩んできたのだ。
「ふん。記憶を保持したまま次元を跨げるのは、我ら神獣や、レイイチのような特異なバイナリ・ユニットだけだ」
窓際の縁で銀髪を揺らしたデジットが、傲慢に、けれどどこか憐れみを滲ませた声で言った。
「あとは……そうだな。一部の『偉大なる魔女』と呼ばれる、理の外側に座す者たちくらいか。彼女たちは実体も記憶も、その不遜な自我さえも欠損させることなく、クローゼットの扉を開けるように次元の隙間を掃除して渡り歩く。……零、貴様の欠落は、人間であることの証明だよ。忘れるからこそ、貴様は狂わずに済んでいる。もっとも、その肉体が情報の摩擦に耐えきれず、完全に摩耗して消え去ってしまえば、忘れる記憶すらなくなるがな」
ビットもまた、静謐な面持ちで、零の頼りなげな肩を見守るように穏やかに頷いた。
「零さん。貴方が忘れてしまった勇気は、レイイチのなかに、そしていつか、貴方が読み直すはずの『日記』のなかに、大切に保管されています。ですから、どうかご自分を責めないでください。記憶を失うことは、あなたが人間としてこの世界に留まり続けるための、唯一の術なのですから。……たとえどれほど次元を渡り、情報の剥離に晒されようとも、私たちがその日記を繋ぎ合わせましょう。今は、目の前の因果を確定させることに集中なさい」
レイイチは、戸惑いに沈むリビングの大人たちを、そこで零を安心させるように一度だけ深く肯うと、再び亜依の前に跪いた。
「亜依。……僕に瞳を貸して。君の中にある、パパからもらった『実数(真理)』と、ママからもらった『虚数(可能性)』。その二つを混ぜ合わせれば、遠い海の向こうで迷子になっている人が、きっと見つかる」
レイイチが亜依の小さな手に、自らの光り輝く指先をそっと重ねた。
その瞬間、リビングの空気が物理的な質量を伴って圧搾された。亜依の瞳から幼い純真さが急速に剥ぎ取られ、代わりに銀河の深淵を煮詰めたような、底知れない「観測者の輝き」が溢れ出した。
レイイチの肌を走る回路の模様が青く脈動し、それが亜依の瞳へと転写されていく。
「……いた。……白いお部屋。……ねんねしてる」
幼い少女の喉から発せられたのは、この世の誰の言語でもない、宇宙の振動そのもののような透き通った声だった。
「亜依!?」
壱が呻くように叫んだ。
バイナリ時計を握りしめる彼の手は強張り、愛娘に起きた不可解な変容に、エンジニアとしての理性が軋みを上げていた。
「嘘でしょう……。この子の脳内演算、既存のニューラルネットワークを完全に無視して……事象そのものを直接スキャンしているの?」
零は、科学者としての驚愕と、母親としての恐怖が相克する表情で立ち尽くした。
「おいおい、冗談だろ……。スパコンを数万台直列に繋いだところで、こんなリアルタイムの次元観測なんて不可能なはずだ……!」
秋山がタブレットを握りしめ、冷や汗を流しながら、張り詰めた声を上げる。サチはデジカメを構えたまま、レンズ越しに映る「異界の眼を持つ亜依」の姿に、言葉を失い硬直していた。
「亜依ちゃん……君は一体何を視ているんだ……」
律が、守るように抱き寄せていた腕のなかで起きている「神聖な侵食」に、畏怖を込めた吐息を漏らす。
リビングの中央、何もない空間に、亜依の視覚がホログラムとして鮮烈に投影される。
それは、翠松町の海凪病院。
朝日が差し込む静かな病室のベッドで、ただ安らかに深い瞑想のような眠りに就いているノアの姿だった。
だが、その圧倒的な「奇跡」を前にして、レイイチは微かに眉を寄せ、悔しげに唇を噛んだ。
「視えた。けれど、僕の『直感』だけでは、この世界の物理定数に落とし込むための正確な座標データが生成できない。一人なら迷わず跳べるが、皆を連れて行くための正確な『道』が計算できないんだ。僕というユニットは、まだ壱の主観に縛られすぎている……」
「ふん。結局はパパの趣味を模した欠陥品だな. どけ、我がやる」
窓際の縁から、デジットが不敵な笑みを浮かべて跳躍した。
彼女の青色の瞳が灰色に変わり演算処理の極光を放ち、亜依が視たイメージの断片を、純粋なバイナリへと瞬時に変換していく。
「マスター! 貴様にこのデータの束を『パス』してやる。受け取れ!」
デジットが虚空を薙ぐと、マスターの持つタブレットへ、人間には判読不能な幾何学模様の羅列が強引に流し込まれた。
「デジット……これは?」
「翠松町の位相座標データだ. マスター、貴様の地下室にある、乃亜が33年前に遺したあの『ガラクタ』を使え。あの装置を核コアにして、このデータを流し込めば、世界の境界に穴が開く」
マスターは驚愕に目を見開いた。
「馬鹿なことを、あの装置は当時の技術の粋を集めたものだが、あくまで精神投影の補助機だ。他次元への門を開くような高次元テクノロジーなんて、あの回路には組み込まれていない!」
「いいえ。――できますよ、マスター」
静かに、けれど揺るぎない確信を持って口を開いたのは、ビットだった。
彼女はマスターの傍らへ歩み寄り、慈しむような、あまりに深い情愛を湛えた眼差しを向けた。
「マスターが夜な夜な、愛おしむようにメンテナンスされていたあの装置……。実は、私が少しだけ手を加えさせていただきました。あなたが眠りについている間に、私が高次元演算ユニットとして、その回路のすべてを再定義してあります」
「ビット、君が? 一体いつの間に……」
「あなたが乃亜先生を想い、寂しそうにあの冷たい機械を磨いている姿を見るのが……どうしても、忍びなかったのです。 あなたがいつか、その手で真実へ辿り着けるように。マスター、それは私からの、身勝手な贈り物です」
ビットの美しい褐色の肌が、リビングの明かりを受けてわずかに艶めく. 彼女の瞳に宿るのは、もはや神獣としての使命感などではない。
マスターという一人の不器用な人間に抱いてしまった、名前の付けられない、けれど切実な「情愛」そのものだった。
「使い方も、私が隣で教えます。一緒にやりましょう、マスター、私たちが共に守ってきたこの場所から、乃亜先生を救い出し、サチさんに届けるために」
ビットの告白に、マスターは言葉を失い、ただ彼女の真摯な横顔を、初めて一人の女性として見つめ返した。
「特定、完了だ」
デジットが満足げに鼻を鳴らす。
「座標、翠松町、海凪病院、302号室。……崇拝派が北の地で『器』を完全にハックする前に、今度こそ、あいつの意識を引きずり戻してやるぞ」
3. 【二極の転送】 ― 境界を穿つ意志、そして異能の開花
舞台は、夜の静寂に沈む居酒屋『パラレル・ライン』へと移っていた。
かつて乃亜の装置は1階事務室の奥に秘匿されていたが、2026年2月の居酒屋崩壊を経て再建された新生『パラレル・ライン』では、地上の喧騒を拒絶する地下深くへとその聖域を移設している。
新調されたコンクリートの匂いと、ビットの手によって磨き上げられた旧世代の電子部品の香りが混ざり合う。その地下室で、ビットが制御パネルに褐色の指先を走らせた。
「……計算が、完全に噛み合いました。デジット、あなたのパスしたデータは、今のこの瞬間、私たちの世界と翠松町の距離が、指先が触れ合うほどに近接最大化することを指し示しています」
ビットの声は、凛としていながらも、どこか祈りに似た熱を孕んでいた。
「これならば、デジットの異能『神隠し』を、私が再定義したこの装置が増幅し、精神だけでなく肉体(実数)ごと境界を穿つことができます。さらに……」
ビットは一瞬言葉を切り、傍らに立つマスターへ、あまりに深く、そして切実な眼差しを向けた。
「情報の剥離……つまり、あの街の因果に呑み込まれて『自分』を失うという忘却を、私の愛したこの回路が阻止します。零さんも、そしてサチさんも……大切な記憶を一つもこぼすことなく、翠松町の土を踏み、再びこの場所へ帰還できるはずです」
「任務として与えられた座標じゃない。……私たちは、私たちの意志で、あの日失われた時間を取り戻しに行く」
零が静かに、けれど強く、自らの実存を噛みしめるように、拳を自らの胸へと押し当てた。その隣でサチは、父が遺したデジカメを握りしめる。
だが、その熱を冷ますように、壱が厳しい表情でホログラムを操作した。
映し出されたのは、北の果てに鎮座する「療養所(研究所)」の構造図だ。
「救出が成功しても、この現実世界にある乃亜さんの『肉体』がハックされれば、すべては水の泡だ。モノリス崇拝派……奴らは、分裂した旧研究員たちと合流し、すでに研究所の深部へと潜り込んでいる。工作は、もう始まっていると見ていい」
「モノリス崇拝の連中は、ただの過激派じゃない」
マスターが、苦い記憶を反芻するように言葉を継いだ。
「奴らは科学の皮を被りながらおかしな『術』を使うときく。物理法則を無視した侵食、精神への直接干渉……。まともな倫理も通じない、モノリス崇拝の連中は、底知れず危険な連中だ」
方針は、二つの断層へと分かたれた。
境界の向こう側で意識を奪還する「境界渡りチーム」。
そして、北の研究所へ強行突入し、乃亜の肉体を奪還し、ビットがこの地下に、乃亜の体を受け入れるために急ピッチで整えた最新の医療設備へと移送し、守り抜く「肉体奪還チーム」。
「総指揮は、壱、あなたにお願いします。ここがあなたの『守るべき居場所』なのですから」
ビットは、乃亜が遺した古びた通信機に自らのナノマシンを融合させ、高次元改良した超次元通信機を、恭しく壱の手のひらへと託した。
「各チームの状況は、この居酒屋を拠点にあなたが管理してください。レイイチさんは境界渡りチームに帯同しながら、その自由な翼で、両チームの隙間を埋めるサポートを」
編成が、戦士の指名のように、地下室の静寂を震わせて読み上げられた。
境界渡りチーム:サチ、零、デジット、レイイチ。
肉体奪還チーム:マスター、秋山、律。
その直後、秋山が、喉の奥に溜まっていた疑念を吐き出すように問いかけた。
「なぁ、素朴な疑問なんだが。デジット、君やレイイチのような高位精神体がいれば、わざわざ俺ら非力な人間が行く必要はないんじゃないか? 邪魔になるだけだろう。君がさっと行って、乃亜さんを連れて帰れば済む話だろう?」
窓際で爪を弄んでいたデジットが、冷ややかで明確な殺気を帯びた瞳で秋山を射抜いた。
「ハッ、無知とは幸福だな。いいか、今回我たちが踏み込むのは、カーネルが統べるこの宇宙の理が届く場所じゃない。そこは『スカラー』という、極めて独裁的な上位精神体が支配する別宇宙だ」
デジットの声が、地下室の空気を重く圧搾する。
「しかも、そのスカラーの膝元には、『枢』という冷徹極まりない神獣が控えている。あいつは受肉した自らの肉体から分身体を生成する『アバター量産』の使い手だ。一人で軍勢を構築し、物量で対象を圧殺する。我一人で乗り込めば、救出どころか足止めに全演算を割かれ、情報の藻屑にされるのが関の山だ。奴の注意を逸らしている間に動ける『別の意志』が不可欠なんだ」
「組織的な意志の連動……。個の力では届かない領域か」
壱が重々しく頷く。
「……もっとも」
デジットの苦虫を噛み潰したような低い声が、冷え切った地下室のコンクリート壁にじっとりと反響した。
その声音には、普段の彼女からは想像もつかないほど、生々しい苛立ちと諦念が混じり合っている。
「枢だけなら、まだ計算の範疇だ。あいつはどれほど強大であろうと、所詮は規律の犬。その行動原理も、引き連れる軍勢の統率も、冷徹な論理の糸で編まれているからな」
「まだマシ、って……」
秋山が深く眉をひそめ、額の汗を拭った。
あの、世界のシステムそのものを無尽蔵の軍勢で圧殺しかねない怪物を指して、なお「予測可能」と言い切るデジットの物言いが、かえって地下室の空気をぞっとするほど不穏に歪めていく。
デジットは秋山の問いにはすぐに応えず、ただ露骨に顔をしかめ、指先で無機質なデスクを苛立たしげにトントンと叩いた。
「問題は――もう一匹いる」
その言葉が落とされた瞬間、地下室の明かりがわずかに明滅したかのように、気圧が一段と重く張り詰める。
壁際の日陰に身を置き、静かに腕を組んでいたレイイチが、その美しい瞳をさらに細めた。彼の胸の奥の回路が、その名を聞くだけで不快なノイズを検知したかのように、微かに熱を帯びる。
「……揺、か」
「ああ」
デジットは心底嫌そうに、まるで呪わしい記憶を振り払うかのように深く頷いた。
「神獣『揺』。スカラー直属という最高位の権限を与えられながら、中央規約を平然と無視して徘徊する、いわば世界の構造欠陥だ」
「欠陥って……神様側の獣なんだろ?」
秋山が呆れたように、救いを求めるような視線を周囲に巡らせる。
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
「事実だ。あいつには『目的』という概念がハナから存在しない。忠誠心もなければ使命感もない。何かを破壊したいという悪意もなければ、利益で動くわけでもないのだ」
デジットは吐き捨てるように言い、椅子の背もたれに乱暴に身を預けた。
「じゃあ……何で動くんだよ。そんな怪物、どうやって制御すりゃいいんだ?」
秋山の切実な問いに応えたのは、デジットの乾いた、どこか哀れみすら含んだ嘲笑だった。
「――面白そうだから、だ」
一瞬、地下室のすべての精密機械の駆動音が遠のいたかのように、濃密な沈黙が空間を支配した。
あまりにも緊張感のない単語に、秋山の思考が完全に停止する。
「……は?」
「だから、面白そうだからだ。ただの、気まぐれだよ」
デジットは観念したように大きな溜息をつき、自らの額を強く押さえた。
「昨日まで命を懸けて殺し合っていた相手側に、その日の気分でふらりと寝返る。味方を護っていたかと思えば、次の瞬間には背後から敵を助ける。凄惨な戦場の真ん中で『あ、なんか飽きちゃった』と言って、突然ゴロゴロと昼寝を始める。あいつの周りでは、因果も確率もすべてがただの、くだらない『寄り道』に成り下がる。そういう存在だ」
「なんだよそれ……。ただのめちゃくちゃな大迷惑じゃねえか……」
「僕も、本当にそう思うよ」
レイイチが吐息を漏らすように即答した。
その声には、超然とした佇まいからは決して見せない、明らかな疲労感が滲んでいた。
「まあ、いい」
デジットはそれ以上の演算を拒絶するように、乱暴に話を切り裂いた。
「どうせ今回は遭遇しない」
デジットは吐き捨てるように言った。
「スカラー領域は広い。あの放浪癖の塊が、わざわざ我らの航路に現れる理由などない」
そう言って、彼女は冷たくなったコーヒーのカップを引き寄せ、椅子へ深く座り直した。
だが、なぜだろう。
「遭遇しない」と、その場の誰よりも早く話題を終わらせ、最も論理的な結論を出したはずのデジット自身が――誰よりも一番、不機嫌そうに、苦い顔で唇を噛み締めていた。
「話の腰を折るようで悪いが、もう一つ確認したいことがある。肉体奪還チームの戦力が、あまりに不安だ」
秋山の額には、モノリス崇拝派という未知の恐怖に対する嫌な汗が滲んでいる。
「元科学者のマスターに、現役科学者の俺、そしてプロットライターの律さん。……頭脳戦ならまだしも、相手が暴力や、その噂に聞く妖しい『術』を使ってきたら、俺たちはただのサンドバッグだぞ」
重苦しい沈黙の中、静かにコーヒーを配っていた陽菜が、ふと足を止め、小首を傾げて微笑んだ。
「……あの、もしよかったらアタシもマスターのチームに行かせて貰えませんか? モノリス崇拝派の方々とは、ちょっとだけ……本当にちょっとだけ、因縁があるんです」
「陽菜ちゃん、気持ちは嬉しいが危なすぎる」
マスターが慌てて制止するが、陽菜の微笑みは崩れない。
「ええ……。だから、実は……秘密がありましてえ」
陽菜がおもむろに右手を空に掲げた。
刹那、真空の鳴動が地下室に走り、彼女の指先から、眩いばかりの、けれどおぞましいほど高密度な「霊力」の奔流が噴き出した。
それがビットの演算回路と共鳴して、目に見えるほどの物理エネルギーへと変換されていく。
凝縮された光の粒子が、空気を焼き、パチパチと空間を爆ぜさせた。
「なっ……なんだ、そのエネルギー係数は!? 測定不能……物理変換効率が100%を超えている……!?」
秋山のタブレットが過負荷で悲鳴を上げた。
驚愕に凍りつく一同。
「陽菜、その力は一体……」
壱が驚愕に目を見開き、問いかけた。
陽菜は少し困ったように、けれど隠し事から解放された晴れやかな顔で語り始めた。
「……実は、アタシの実家、信州で1000年続く神社なんです。今の今まで、ただの古臭い家訓だと思って隠してたんですけど……」
陽菜は苦笑いしながら、長沢家の規格外な面々を思い浮かべる。
「祖父の長沢厳山は、神社をホールディングス化して民間軍事…いえ警備会社と結界術を連携させるような理屈屋の陰陽術マスター。母の麗子は、男運は壊滅的ですけど、天性の声で山を鎮めるスピリチュアルな歌い手です。母は『新しい彼氏のソウルが震えるから!』って職場放棄しちゃって蒸発していたことが何度もあって…」
「職場放棄だと……?」
秋山が呆然と呟く。
「でも、一番の理由は、おばあちゃんのトミなんです。おばあちゃん、霊力はゼロなんですけど、物理だけで怪異を粉砕しちゃう人で。おじいちゃん曰く『ありゃ純粋な暴力だ』って。私のこの、ちょっと人より肺活量があるところとか、力が強いところは完全におばあちゃん譲りみたいで……。そこに、おじいちゃんの理論とお母さんの声が全部混ざっちゃったのが、私なんだそうです」
陽菜の瞳に、ライブで培った不屈の意志が宿る。
「上京した時から去年の夏まで力を封印されていたせいで、出力の加減がわからなかったんですけど。…リミッターの外し方はもう分かりました。お母さんのような綺麗な神楽歌は歌えません。でも、私の『エモい歌唱(祝詞)』なら、モノリス崇拝派の澱んだ術式ごと、大音響で調律してみせます」
「ふふ、ついにカミングアウトか、陽菜。」
デジットが窓際で、今日一番の愉快そうな声を上げて笑った。
「内密にしておきたかったんですけどね。……マスター。不束者ですが、あなたの背中、守らせていただけますか?」
なんだかよくわからないが、壱の瞳には、初めて迷いのない勝機が宿った。
「決まりだ。陽菜。それとレイイチ、皆を頼む」
「了解したよ、壱。……『ヒーロー』の格好をさせられた意味、ここで証明してみせる」
レイイチの回路が青く、陽菜の霊力が白く、運命の開門を告げる火花のように地下室を鮮やかに照らし出した。
【読者の皆様へ】
本作に登場する特殊な現象や科学的設定はすべてフィクションであり、実在の学説とは異なります。
時に論理を飛躍させ、時に現実の理ことわりを無視することもありますが、それはすべて、言葉では届かない場所にある『感情』を描くための選択です。
緻密な整合性よりも、胸を突くようなパッションを。
デタラメだけど愛おしい、そんな「空想科学の醍醐味」を楽しんでいただければ幸いです。
◼️本作は「カクヨム」にも掲載しています。




