第一章 遺書1
おまたせしました。好評につき、続編を創作しました! 今回も楽しんでいただけると嬉しいです!
一つ注意点なのですが、第一部のエピローグとは直接つながっていません。今回の第一章から新たに物語が始まっています。消そうとも思ったのですが、あれはあれで収まっているので、そのまま残しておいています。ご了承ください。
穏やかな日々というものは、辺境の土地によく似合う。
ロッシュ辺境伯領に勇者ルディ・グラヴナーが居着いてから一ヶ月が過ぎた。「居着いた」という表現が適切かどうかは議論の余地があるが、少なくともティナ・ロッシュの書斎に簡易寝台が常設され、薬草茶のカップが二つ並ぶようになった時点で、それは事実上の定住と呼んで差し支えないだろう。
朝。薬草畑は薄い霧に包まれていた。北東の辺境に冬が近づくと、こうした霧の朝が増える。月影草の白い花弁に露が宿り、霜竜胆の蒼い葉が冷気に縁取られている。母が好きだった景色だ。
ティナは畑の端に立ち、隣で如雨露を持っている男の手元を監視していた。
「ルディさん。水の量が多いです。月影草は根腐れしやすいので、土の表面が湿る程度で十分です」
「わかってる。わかってるんだが、加減がわからん」
「一株あたり、如雨露を傾けて三数える間。それ以上は過剰です」
「三って短くないか?」
「短いです。だから注意してくださいと言っています」
ルディは渋面を作りながら、如雨露を慎重に傾けた。一、二、三。水が土に吸い込まれる。四を数える前に手を止める。悪くない。昨日は五まで数えていたから、進歩だ。
「……六十点」
「百点満点で六十って、赤点じゃないのか」
「今回赤点は三十点以下です。合格圏内ですが、改善の余地があります」
「赤点の基準知ってるのか。副作用すごいな」
「学校という制度の概念は理解し始めています。大勢の子供が一つの建物に集まって勉強するんですよね。効率的ですが、窓から逃げ出す生徒がいるというのは本当ですか」
「いや、それはフィクション……いや、いるかもしれないけど……」
こんな会話が日常になっていた。
朝は薬草畑の手入れ。ティナが指導し、ルディが実行する。ルディの水やりは三日目に月影草を水浸しにする大惨事を引き起こしたが、一ヶ月後の今では及第点に達している。ティナは「添削の成果です」と言い、ルディは「自発的な改善だ」と返す。この定型句はもはや挨拶の一種だった。
昼はティナが帳簿をつけ、ルディが村の力仕事を手伝う。元勇者――正確にはまだ勇者だが長期休暇中――が薪を割っている姿は、最初こそ村人の目を引いたものの、一週間で日常に溶け込んだ。辺境の人間は肩書きよりも腕力を評価する。「勇者殿、その調子なら薪割り職人にもなれますな」と村の鍛冶屋に言われたとき、ルディは複雑な顔をしていた。
夜は書斎で薬草茶を飲みながら、二人でのんびり過ごす。ティナが新しい日記帳に今日の出来事を書き、ルディがそれを隣で読もうとし、ティナが「覗かないでください」と言い、ルディが「おあいこだろ」と返す。これもまた定型句だ。
洗濯物が増えた。食事の量が増えた。薬草茶の消費量が倍になった。帳簿の赤字は相変わらずだが、「この数字おかしくないか」「おかしいですね。原因を調べましょう」というたった二言のやり取りで、帳簿の重みが半分になる。
合理的な判断ではない。感情だ。誰かがいるだけで、日常の重さが変わる。それをティナはようやく、「合理的」とは呼ばずに受け入れられるようになっていた。
父ホルストは相変わらず窓を開けたまま寝ている。これだけは一ヶ月経っても改善の見込みがない。ルディに窓を閉めさせる仕事が一つ増えただけだ。
「ふむ。人手が増えると便利だな」
「父上、窓を閉める人手のために勇者を雇ったわけではありません」
「ふむ。では何のために雇ったのかね」
「雇っていません。……住んでいるだけです」
「ふむ。住んでいるだけ、か。母さんの頃もそう言っていたな。『ホルスト様はうちに住んでいるだけです』と」
「それは結婚しているからでしょう」
「ふむ」
ホルストの「ふむ」が意味深に響く夕食の席は、もはや日課だった。
その夜。
ティナは書斎で新しい日記帳に今日の出来事を書いていた。ルディは隣の部屋で眠っている。穏やかな夜。蝋燭の炎が揺れ、ペンが走る音だけが響く。
「今日の出来事。ルディさんの水やり、六十点。月影草は無事。
父上がまた窓を開けていた。明日もルディさんに閉めてもらう。
薬草の出荷量、先月比で微増。街道の橋の修繕が完了した効果が出始めている。
夕食のスープにルディさんが塩を入れすぎた。味覚の添削が必要」
書き終えてペンを置いたとき、ふと視界の端に光が見えた。
棚だ。棚の上に置いてある、母の形見の日記帳が、淡く光っている。
ティナの手が止まった。
あの日記帳が光るのは――セーブデータが書き込まれるときだ。しかしルディは隣の部屋で寝ている。ダンジョンにはいない。セーブ&ロードが発動する状況ではない。
光は微かだが、確かだった。蝋燭の反射ではない。内側から放たれている青白い光。
ティナは椅子から立ち上がり、棚に手を伸ばした。母の形見の日記帳。焦げ茶色の革装丁に金の箔押し。角はすり減り、背表紙は色褪せているが、丁寧に手入れされた古びた美しさがある。凍牙の迷宮の封印修復の後、役目を終えたと思って棚にしまっていた。
手に取った瞬間、光が強くなった。指先に伝わる振動。低く、深い振動。ルディのセーブデータの書き込みとも違う。もっと切迫した、しかし同時にもっと弱々しい振動。叫びというよりは囁き。助けを求める声が、声にならずに震えているような。
ティナは日記帳を開いた。
白紙だったはずのページに、文字が浮かんでいた。
ルディの筆跡ではない。ティナの筆跡でもない。母アネットの金色の文字でもない。
見覚えのない、丸みのある柔らかい書体。インクの色は薄い紫。文字の輪郭がかすかに震えている。書いた人間の手が、震えていたのだ。
「誰にも届かないと思って書きます。遺書、みたいなものです」
「私は糸井好葉といいます。21歳です。大学生でした」
「気がついたらここにいて、白い服を着せられて、毎日何かを"浄化"させられています」
「体がどんどん冷たくなります。指先の感覚がなくなってきました」
「ここから出られないと思います。でも、誰かに知ってほしかった」
「私がここにいたことを。消えてしまう前に」
ティナは三度読み返した。
あの時と同じだ。見覚えのない文字が日記帳に浮かんでいる。しかし――決定的に違うものがあった。
ルディのセーブデータは「愚痴」だった。上司への不満、ポーションの不味さ、死に覚えゲーへの恨み節。文面の端々に苛立ちと自虐があったが、同時に「生きている人間の体温」があった。
この文章には、それがない。
遺書。書いた人間がそう名づけている。生きることを前提とした言葉ではなく、消えることを前提とした言葉。誰にも届かないと思いながら、それでも書いた。書かずにはいられなかったのだろう。
ティナの胸の奥で、感情が動いた。帳簿の赤字を見たときとは全く別の感情。あのときルディの「えいちぴー残り12」を読んだときに似ているが、もっと深い場所で鳴っている。
――この人は、死を覚悟している。
ティナは自分の中にある「困っている人を放置できない」性質が発動するのを感じた。十年間の領地経営で磨き上げた、問題を見つけたら解決に動く習性。合理的な判断ではない。もっと根源的な衝動だ。
ペンを手に取り、少し迷ってから、浮かんだ記録の下に返事を書いた。
「ここは辺境伯令嬢の日記帳です。あなたの文章が勝手に書き込まれて困っています」
一拍。
「……でも、遺書にするには早すぎます。お話を聞きます。ご無事ですか?」
書き終えてから、ティナは自分の文面を見つめた。
あの夜と同じ言葉を書いている。意識してそうしたのか、無意識にそうなったのかはわからない。ただ――この言葉が、ルディに届いたことは知っている。一度目はルディに。今度は、この見知らぬ「糸井好葉」という人に。
効果は実証済みだ。
ティナは日記帳を閉じかけて、やめた。代わりにルディを起こしに行った。
隣室の扉を開けると、ルディは簡易寝台で毛布にくるまって寝ていた。マフラーを首に巻いたまま。寝顔は意外に幼い。勇者の威厳は就寝中には発揮されないらしい。
「ルディさん。起きてください」
「……ん……なに……朝……?」
「夜です。日記帳を見てください」
「日記帳」という単語でルディの目が覚めた。あの日記帳に何かが起きたときの反応を、体が覚えている。毛布を跳ね除け、書斎に移動する速度は、寝起きとは思えない機敏さだった。
日記帳を覗き込む。薄紫の文字を読む。表情が変わった。
「……転移者だ」
「転移? 転生ではなく?」
「ああ。俺は死んでからこっちの世界に生まれ変わった。転生だ。でもこの人の書き方は違う。『気がついたらここにいた』ってのは、生きたまま連れてこられたってことだ。転移。……しかも『浄化させられている』ってことは、何らかの能力を付与されて使役されてる」
ルディの目が鋭くなった。普段の愚痴まみれのセーブデータの文体からは想像できない、分析的な目つき。こういうとき、この人が本当に勇者であることを思い出す。
「ステータス画面については何も書いてない。セーブ&ロードの話も出てない。たぶん、俺みたいなゲーム的なシステムは付与されてないんだ。つまりHPがいくつ残ってるかもわからないし、死んでも戻れない」
「……ルディさんよりまずい状況、ということですか」
「俺よりまずい。圧倒的に。俺はクソゲーでも情報はあった。この人は情報すらない。五感と体感だけで、自分の限界がわからないまま消耗させられてる」
ルディの声に怒りが混じっていた。自分と同じ境遇の人間がいること。しかも自分以上に過酷な形で。
ティナは日記帳の文面にもう一度目を落とした。
「浄化させられている」。「体がどんどん冷たくなる」。「指先の感覚がなくなってきた」。
消耗品。あの言葉が脳裏をよぎった。ルディに対して使われた言葉。ルディが自分自身をそう呼んだ言葉。ティナが「あなたは消耗品ではありません」と日記帳に書いた、あの一行。
同じことが、また起きている。
「ルディさん。この人を助けなければなりません」
「ああ。……だが、まず情報が足りない。どこにいるのか、誰に使役されてるのか、何も」
「それは――返事が来てから考えましょう。今は、届くかどうかも」
二人は日記帳を見つめた。薄紫の文字は微かに光ったまま、ページの上で沈黙している。
返事が来るかどうかはわからない。しかしティナは知っている。最初のルディのときも、返事が来るまで一晩かかった。焦っても仕方がない。
ティナは灯りを消さずにおいた。日記帳を机の上に開いたまま。
明日の朝、返事が届いているかもしれない。届いていなくても、待つ。記録親和の持ち主は、待つことができる。記録は消えない。忘れない。
ただ――胸の奥にある焦燥だけは、「合理的」とは名づけられなかった。




