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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
アナザーストーリー

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ティナ過去編 記録親和2

 帰り道。


 ホルストがティナの手を引いて歩いた。大きな手だった。左手にティナの小さな手。右手に釣り竿。アネットは少し後ろを歩いている。


 ティナは黙っていた。ホルストも黙っていた。


 街道の両脇に薬草畑が広がっている。収穫を終えた畝の茶色い土と、まだ葉を残した月影草の緑が交互に並ぶ。空は鉛色に曇っていた。辺境の秋はいつもこんな色だ。


 しばらく無言で歩いてから、ホルストが口を開いた。


「ふむ。ティナ」


「はい」


「記録が得意というのは、素晴らしいことだぞ」


 的外れだった。ティナが今欲しい言葉は、たぶんそれではない。でもホルストにはこれしか思いつかなかった。アネットなら的確な言葉を選べるだろうが、ホルストは言葉が下手だ。剣の腕は立つが、口は立たない。いつもそうだった。


「父さんは帳簿が苦手でなあ」


「知ってます」


「母さんにいつも叱られる。収支の計算が合わないと、母さんの眉間にこう皺ができるんだ」


 ホルストは空いた手で自分の眉間に皺を寄せた。似ていない。アネットの皺はもっと繊細で、もっと怖い。


「似てません」


「似てないか。ふむ。似せるのは難しいな」


「母上は、もっとこう……静かに怒ります」


「ああ、そうだな。母さんは静かに怒るのが上手い。父さんは静かに叱られるのが上手い」


「それは上手いとは言いません」


 ティナの口から、少しだけ笑いが漏れた。本当に少しだけ。唇の端がわずかに上がっただけ。しかしホルストはそれを見逃さなかった。


「お前が帳簿をつけてくれたら、助かるなあ」


 八歳の娘に領地の帳簿を頼む。常識的に考えれば無茶苦茶だ。しかしホルストは大真面目だった。この人は昔からこうだ。言葉が足りないくせに、ずれた角度から核心を突く。


 ティナは少し考えた。


 帳簿。数字の羅列。収支の記録。地味だ。火は出ない。水も出ない。でも――帳簿がなければ領地は回らない。薬草の売上を記録し、修繕費を計算し、冬の備蓄を見積もる。誰かがやらなければならない仕事だ。


 字が綺麗に書ける。記録が得意。それを帳簿に使えば――少しは役に立てるかもしれない。


「帳簿くらい、やります」


 八歳の声で言った。背伸びした、少しだけ震えた声。しかし目は真っ直ぐだった。


 ホルストは娘の手をぎゅっと握った。大きな手が、小さな手を包む。


「ふむ。頼もしいな」


「……頼もしいかどうかは、帳簿をつけてから判断してください」


「はは。お前は母さん似だ」


 ティナは否定しなかった。母に似ていると言われるのは、嫌ではなかった。



 家に帰ると、アネットが玄関で待っていた。


 少し後ろを歩いていたはずなのに、いつの間にか先回りしていた。母はそういうところがある。気がつくと先にいて、気がつくと準備が終わっている。


 ティナの顔を見て、何も聞かなかった。


 しゃがんで、ティナの目線に合わせて、両腕を広げた。


 ティナはその腕の中に飛び込んだ。集会所では泣かなかった。帰り道でも泣かなかった。でも母の腕の中は別だ。ここだけは、泣いてもいい場所だ。


 泣いたかどうかは、ティナ自身にもよくわからなかった。目が熱くなった。でも涙が頬を伝ったかは覚えていない。母の胸に顔を押し付けると、古い紙とインクの匂いがした。日記帳の匂い。母がいつも持ち歩いている、革装丁の日記帳の匂い。


 アネットの腕に力がこもった。抱きしめる力だけが、言葉の代わりにすべてを語っていた。


「お母さん」


「なあに」


「記録親和って、本当は何ができるの?」


 アネットは少し間を置いた。ティナの髪を撫でながら、言葉を選んでいた。


「記録するということは、忘れないということよ。大切なことを、ずっと覚えていられる。それはね、ティナ――とても、大切なことなの」


「……大切?」


「ええ。世界にはね、忘れられてしまうことがたくさんあるの。誰かが頑張ったこと。誰かが泣いたこと。誰かが笑ったこと。そういうことを覚えておける力は、地味に見えても、とても大切なのよ」


 ティナは母の言葉を聞きながら、首を傾げた。わかるような、わからないような。八歳には少し難しい。でも母がそう言うなら、きっとそうなのだろう。


「ふうん」


 それだけ答えた。母の腕の中は温かかった。それだけで十分だった。



 その夜。


 寝る前に、アネットがティナを書斎に連れて行った。


「ティナ、これを触ってごらん」


 机の上に置かれた革装丁の日記帳。焦げ茶色の表紙に金の箔押しで蔦模様が施されている。母がいつも持っているものだ。ティナは何度も見たことがあるが、触ったことはなかった。母の大切なもの。子どもが勝手に触ってはいけないもの。


 おそるおそる手を伸ばした。


 指先が革に触れた瞬間、不思議な感覚があった。


 温かい。


 革の表面が、手のひらにしっくりと馴染む。まるで日記帳のほうからティナの手を迎えにきたような、自然な温もり。体の奥で何かが響いた。心臓の鼓動に似た、しかしもっと静かな振動。


「あ……」


「感じるでしょう? 記録親和の魔力が、日記帳と共鳴しているの」


「共鳴?」


「仲良くなった、ということよ」


 アネットがペンを差し出した。


「何か書いてごらん」


 ティナはペンを受け取り、日記帳の白紙のページにペン先を下ろした。何を書こうか、少し迷った。


 今日あったことを書こう。日記帳だから。


 ペンが走った。驚くほど滑らかに。インクが紙の上を流れるように、文字が生まれていく。線が真っ直ぐで、曲線がなめらかで、字の形が整っている。八歳の字ではなかった。いや、八歳の手が書いているのだが、記録親和の魔力がペンの動きを補正して、文字を美しく定着させている。



「きょうのけっか。きろくしんわ。じつようせい、ひくい。――でも、じがきれいにかけた」



 書き終えて、ティナは自分の文字を見つめた。


 綺麗だ。本当に綺麗に書けた。今まで書いたどの字より、ずっと綺麗だ。鑑定士が言った通りだ。字が綺麗に書ける。それだけのことだが――自分の手から生まれた文字が、こんなに整っていると、少しだけ嬉しかった。


 顔を上げると、アネットが泣いていた。


 ティナは慌てた。


「お母さん、泣かないで。字が綺麗に書けたのは、いいことでしょう?」


 アネットは涙を拭い、少しだけ鼻を啜って、それから笑った。


「ええ、いいことよ。とてもいいことよ」


「じゃあなんで泣くの」


「嬉しいの。あなたの字がとても綺麗で」


 それは嘘ではなかった。でも、全部でもないようであった。



 翌朝。


 ティナは夜明け前にこっそり起き出した。


 足音を忍ばせて父の書斎に入る。書斎といっても小さな部屋で、机の上に帳簿と羽根ペンと空になったインク壺が雑然と並んでいる。ホルストが管理している領地の帳簿だ。管理という言葉を使うのがためらわれるほど、乱雑な管理だが。


 帳簿を開いた。


 数字の羅列。薬草の売上、修繕費の見積もり、季節ごとの支出。八歳のティナには難しい。全部は読めない。計算の仕組みもよくわからない。


 しかし――記録親和の目が、数字の並びの中に「おかしい場所」を見つけた。


 理屈ではない。直感だった。数字の流れの中で、一箇所だけ調和を欠いている場所がある。音楽の中の不協和音のように、記録の中の不整合が、ティナの感覚に引っかかった。


 三行目の合計欄。足し算が合っていない。ティナは指を使って数え直した。23と15と8。足すと46。でも合計欄には48と書いてある。2ずれている。


 ティナは帳簿の余白に、昨日の日記帳と同じ丁寧な字で書き込んだ。



「ここの数字、合ってないと思います。23と15と8は46です。――ティナ」



 書き終えて、帳簿を元の場所に戻した。それから自分の部屋に戻り、まだ暗い天井を見上げた。


 字が綺麗に書ける。帳簿の間違いに気がつく。


 たったそれだけ。火は出ないし水も出ない。毛虫は明日も手で取らなければならない。


 でも――帳簿くらいは、やれる。父が「助かる」と言ってくれた。その言葉を信じてみよう。


 ティナは目を閉じた。



 数時間後。


 ホルストが書斎で帳簿を開き、娘の書き込みを見つけた。


 小さな丁寧な字。計算の間違いを指摘する一行。署名つき。


 ホルストは確認した。23と15と8。確かに46だ。48ではない。2ずれている。娘が正しい。


 白髪交じりの髭を撫で、「ふむ」と頷いた。


 それから帳簿のペンを手に取り、ティナの書き込みの下に一行だけ書き足した。



「ふむ、助かった。――父より」



 筆跡はホルストらしく大ぶりで少し歪んでいたが、温かみのある字だった。


 朝食の席でホルストは何も言わなかった。ただ、いつもよりパンを一切れ多くティナの皿に乗せた。ティナは首を傾げたが、何も聞かなかった。


 アネットだけが、夫と娘の間に流れる空気の変化を察して、微笑んだ。


「ティナ、今日の畑の巡回、一緒に行きましょうか」


「はい。――あと、父上の帳簿、これからは私が確認します」


「あら」


「帳簿くらい、やりますから」


 同じ言葉を、ティナは二度目に言った。昨日より少しだけ声が大きかった。


 ホルストは薬草茶を啜りながら「ふむ」と頷いた。アネットはパンをちぎりながら笑った。窓の外は相変わらず鉛色の曇り空だったが、領主館の食卓には朝の光が差していた。


 記録親和。実用性、低。


 しかし八歳の少女は、その力で最初の一歩を踏み出した。帳簿の間違いを見つけ、余白に書き込み、父から「助かった」の一行をもらった。


 それが、ティナ・ロッシュの最初の「添削」だった。


 十年後、見知らぬ勇者の愚痴を赤ペン添削する辺境伯令嬢の原点が、ここにある。本人はまだ知らないが、日記帳はすべてを覚えている。


 記録するということは、忘れないということ。


 この日の悔しさも、父の温もりも、母の涙も、帳簿の余白の小さな字も。


 全部、記録されている。




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