エピローグ
ルディがロッシュ辺境伯領に滞在するようになって、一ヶ月ほどが過ぎた。
日常は穏やかだった。朝はティナと一緒に薬草畑の手入れをする。ルディの水やりは最初こそ加減がわからず月影草を水浸しにしたが、三日目にはまともな量を注げるようになった。ティナは「添削の成果です」と言い、ルディは「自発的な改善だ」と返した。いつものやり取りだった。
昼はティナが帳簿をつけ、ルディが村の力仕事を手伝う。元勇者が薪割りをしている姿は村人たちの目を引いたが、すぐに慣れた。辺境の人間は、役に立つ人間を歓迎する。肩書きより腕力だ。
夜は書斎で薬草茶を飲みながら、二人でのんびり過ごした。ティナが日記をつけ、ルディがそれを隣で読む。「覗かないでください」「おあいこだろ」というやり取りは、もはや挨拶のようなものだった。
ティナは新しい日記帳を使い始めていた。母の形見の日記帳は役目を終え、書斎の棚に大切にしまってある。新しい日記帳には、ルディのセーブデータは書き込まれない。ティナだけの日記帳。純粋に、その日の出来事と、本音と、ときどきルディへの苦情を書くための場所。
「今日の出来事。ルディさんが水やりの量を間違えて霜竜胆が傾いた。指導が必要。あと、父上がまた窓を開けたまま寝ていた。ルディさんに閉めさせた。人手が増えて助かる。――追記。ルディさんが夕食の後にこっそりタルトの残りを食べていた。記録済み」
穏やかな日々。ティナが十年間一人で守り続けた日常に、もう一人の人間が加わった。それだけのことだが、それだけのことが、こんなにも日常を変える。
洗濯物が増えた。食事の量が増えた。薬草茶の消費が倍になった。厨房に立つ時間が長くなり、会話が増え、笑うことが増えた。帳簿の赤字は相変わらずだが、一人で悩まなくてよくなった。「この数字おかしくないか」「おかしいですね。原因を調べましょう」――たったそれだけの会話で、帳簿の重みが半分になる。
合理的な判断ではない。感情だ。誰かがいるだけで、日常の重さが変わる。それをティナはようやく、「合理的」とは呼ばずに受け入れられるようになっていた。
ある晩のこと。
ティナは書斎で新しい日記帳に今日の出来事を書いていた。ルディは隣の部屋で眠っている。穏やかな夜。蝋燭の炎が揺れ、ペンが走る音だけが響く。
ふと、視界の端に光が見えた。
棚だ。棚の上に置いてある、母の形見の日記帳――あの古い日記帳が、淡く光っている。
ティナの手が止まった。
あの日記帳が光るのは――セーブデータが書き込まれるときだ。しかしルディは隣の部屋で寝ている。ダンジョンにはいない。セーブ&ロードが発動する状況ではない。
ティナは棚から古い日記帳を取り出した。光は微かだが、確かに内側から放たれている。
開いた。
白紙だったはずの最後の数ページに、見慣れない文字が浮かんでいた。
ルディの筆跡ではない。ティナの筆跡でもない。母アネットの金色の文字でもない。
まったく見覚えのない、角張った硬い書体。インクの色は――薄い赤。血の色に近い。文字は所々かすれ、途切れ途切れで、書いた人間の手が震えていたことが伝わってくる。
「……ここ、どこだ」
「声が聞こえない。誰もいない。暗い。寒い」
「ステータス画面が表示されない。ログアウトもできない。日付もわからない」
「これが読める誰かがいるなら――頼む、返事をくれ」
ティナの心臓が跳ねた。
この文面。この切迫感。この「ステータス画面」という言葉。「ログアウト」という言葉。
――ルディと、同じだ。
別の転生者。ルディとは別の、もう一人の、この世界に来てしまった人間。しかもルディとは状況が異なる。ステータス画面が表示されない。ログアウトもできない。暗くて寒い場所に、一人でいる。
ティナは日記帳を持って立ち上がり、隣室の扉を開けた。
「ルディさん。起きてください」
「ん……どうした……」
「日記帳を見てください」
ルディは寝ぼけ眼で日記帳を覗き込み――一瞬で目が覚めた。
「……これ、俺と同じ転生者だ」
「やはりそうですか」
「しかもログアウトできないって書いてある。ステータス画面も出ない。――やばい、これ相当まずい状態だぞ。俺が転生した直後もパニックだったけど、少なくともステータス画面は見えてた。こいつは何のサポートもなしに放り込まれてる」
ルディの顔から眠気が完全に消えていた。鋼灰色の目が、日記帳の文字を真剣に追っている。
「暗くて寒い場所。日付もわからない。――ダンジョンの中か? あるいはもっと別の――」
「ルディさん」
ティナは静かにペンを手に取った。
あの日と同じだった。見知らぬ誰かの記録が、日記帳に勝手に書き込まれた夜。あのときティナは、意味もわからないまま返事を書いた。「ご無事ですか」と。そこから、すべてが始まった。
今夜も同じだ。日記帳の向こうに、困っている人がいる。怯えて、孤独で、助けを求めている。
ティナに何ができるか。同じことだ。返事を書く。
「ここは辺境伯令嬢の日記帳です。あなたの文章が勝手に書き込まれて困っています」
――少し迷って、書き足した。
「……でも、お話は聞きます。ご無事ですか?」
ルディは隣でその文面を読み、呆れたように――しかし温かく――笑った。
「お前、またそれで始めるのかよ」
「効果は実証済みですから」
「……確かにな。俺はそれで救われたし」
ルディはティナの隣に座った。肩が触れる距離。二人で日記帳を覗き込む。返事が来るのを待つ。あの夜と同じように。
「今度は二人だな」
「ええ。二人です」
「攻略記録も、書けるな」
「書けます。――あなたのセーブデータも、今度は最初から記録できます」
「最初から記録するなよ。恥ずかしい愚痴が多いんだから」
「記録親和ですから」
「その万能の言い訳やめろ」
古い日記帳は、まだ役目を終えていなかったらしい。母が遺した記録の魔導具は、新たな声を拾い上げた。
ティナの記録親和は、痛みも喜びも「なかったこと」にしない力だ。この日記帳に書かれた文字は消えない。ルディのセーブデータも、母の遺言も、そして今夜届いた新しい誰かの声も。
すべて、記録されている。忘れない。忘れさせない。
窓の外は深夜の闇だったが、書斎の蝋燭は明るかった。
二人は肩を並べて、日記帳の前に座っていた。返事を待ちながら。
新しい物語の最初のページが、静かに開かれた。
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