2
浜辺に辿り着いたラデアは、濡れた髪を軽く手で絞ると、周囲を見回しました。足元はまだ膝の辺りまで浸かっており、穏やかな波が押し寄せては引いていきます。
時刻はちょうど朝焼けの頃のようでした。
藍色に染まった空が、海との境界線から、少しずつ赤く染まっていくさまを、ラデアはじっと眺めていました。
力強く羽ばたく鳥が、頭上を駆けていきました。風が吹き抜け、乾いた髪を巻き上げては水平線へと消えました。
かつて、教えて貰った歌がありました。もはや顔すらも覚えていない、優しい姉が教えてくれた歌でした。
地上の海の美しさを讃えた歌です。決して手に届くことがないものへの憧憬が滲み出た歌でした。
そんな優しい姉は、人間によって殺されました。首を撥ねられて殺されました。
おぼろげにそんなことを考えていた矢先、いきなり何かに押し倒されて、ラデアは思わずぎゅっと目を閉じました。
動物が吠え立てる声でした。
「こら、エル! いきなり走り出して何を、」
砂浜に点在する岩の影から現れた男が、ラデアに向かって唸る犬を取り押さえたあと、顔を上げます。そして彼は、はっと息を飲みました。
「何と美しい……」
呟いたのは、まだ若い男でした。レヴェンよりは年上ですが、まだ一般的に若者と言われる年齢の青年でした。
「貴女は、一体」
呆然としたように言いながら、一歩踏み出した青年は、ラデアの足元を見て、目を剥きます。
「どうして下に何も履いていないのですか、誰にこんな酷いことを……」
ラデアは人魚『でした』。人魚は下半身に衣類など身につけないのです。ラデアが身に纏っているのは、上半身と太ももを申し訳程度に覆うだけの、簡素な貫頭衣でした。
ラデアは首を傾げます。答えかねる、という意思表示のつもりでした。
「……分からないのですか?」
ラデアは、ええ、と頷きました。無論、声は出ません。
「記憶が、ない、と?」
ラデアは暫くの間思案しました。考えた結果、そうすることが一番楽だという考えに落ち着きました。
(そうよね、人魚だなんて知られたらどんな目にあうか、分かったものじゃないもの)
こくりと頷くと、青年は痛ましげに顔をしかめました。
「ともかく、僕と一緒に来て下さい。近くに別荘があるので」
そう言って、青年は自分の上着を脱ぐと、ラデアの肩にかけました。服からは嗅ぎ慣れない匂いがしました。
肩の辺りに顔を寄せて匂いを嗅ぐラデアに、青年は嫌味なく笑いました。
「それは花の香が焚き込めてあるんですよ、母の趣味なんですけれどね。良い匂いでしょう」
ラデアはにっこりと微笑んで頷きます。地上の花にはあまり馴染みがないけれど、少し甘やかですっきりとした匂いでした。
手を引かれるままに歩き出そうとして、水から上がった瞬間に、ラデアは倒れ込みました。
足の裏が、つんざくように痛みました。乾いた砂の上に、そっと足を置いた、その瞬間のことです。
倒れてしまったラデアは、体の右の側面を苛む痛みに悶えました。砂に触れている部位が、じんじんと痛みました。それは決して命に関わる痛みではありませんでした、傷も出来ません。体を内から炙るような不快感でした。
「大丈夫ですか!」
慌ててラデアを助け起こした青年は、「すみません」と一言置いてから、ラデアを抱き抱えます。
「何だか脚が悪いように見受けられましたので」
早足で砂浜を駆け上がりながら、青年は鋭い声で呼びかけました。その声を聞きつけてわらわらと出てくる人々が、青年の腕の中で身を縮こまらせている少女を見て、驚いたように目を見開きます。
「殿下、そちらは?」
「浜辺にいたのだ、記憶が無いようで、脚も悪いらしい。どうやら酷い目に遭ったようだ、湯浴みの準備をしておけ」
頭上で交わされる会話の意味がよく分からず、ラデアはただひたすらに身を小さくしているしかありませんでした。
***
「貴女のお名前を伺っても? あ、いえ、分かるのならということですが」
砂が付いた体を洗い流され、小綺麗なワンピースを着せられたラデアは、柔らかいソファに沈みこんだまま、ええと、と唇を尖らせます。
顎を反らして喉を指さし、首を横に振ると、青年は沈痛に眉を下げました。
「喋ることも出来ないのですか?」
頷くと、彼は、いたわる様にラデアの前に盆を差し出しました。盆を置いたその手を掴み、ラデアは手のひらに文字を書きます。
「お名前ですか?」
頷くと、青年はラデアの指の動きを注視し始めました。しかし、何度書いても要領を得ません。
その頃になって、ラデアは自分の綴っているのが、200年前の文字であることに気付きました。これでは伝わるはずもありません。
諦めたラデアは、首を横に振って、溜息をつきます。
「お名前も忘れてしまったのですか?」
もういっそのこと全て失ったことにすれば楽になる、と、ラデアは頷きました。全てを捨てて地上に上がって来たのです。残して持っているのはレヴェンへの想いだけで十分でした。
「僕はへユテと言います」
へユテ、と、唇を動かして答えました。
へユテ。……へユテ、何だったかしら。
「分からないのも当然ですよ、これは150年前くらいまで使われていた、昔の言葉なんです。そのときと話し言葉は変わりませんけど、物の名前や文字は多く失われました」
首を傾げるラデアに、へユテは優しく語りかけました。声と記憶を失うほど酷い目に遭って、まともに服すら着ていないまま海岸に放置された、哀れな少女を見る目でした。
「古語では、こういう字を書くんですよ」と、先程のラデアの真似をして、手を取って指で文字を書くへユテを、ラデアはじっと見つめます。
綴られた文字を見て、ラデアははっと思い出します。
「まあ、僕が知っている古語って、これしかないんですけどね」
苦笑しながら言ったへユテは、自分の胸元を指さして見上げてくるラデアを見て、怪訝に瞬きしました。
「ええと?」
(青玉、海の色をした青い宝石の名だわ)
ラデアが口を開閉させながら、胸元を再度指し示すと、へユテは驚いたように自分の体を見下ろします。
かかっていた銀色のペンダント、そこについている大粒の宝石を指さすラデアに、へユテは破顔しました。
「よくご存知ですね、そうです、この石の昔の名です」
ラデアは微笑みました。
「それにしても、何と美しい女性なのでしょうか」
へユテは、海を見ているラデアの横顔を見ながら、溜息をつきます。強い色をした瞳も、流れるような長い髪も、ほっそりとした首筋も、まるで人間のものではないかのように整っていました。
「もし行くあてがないのなら、私と共に、都へ来ませんか」
差し出された手を、ラデアはしばし眺めました。優しい手でした。でも求める手ではありません。
(都に行けば、天使に会えるの?)
よく分からない、と言いたげに思案したへユテに、ラデアは手を上下させました。
「……鳥ですか?」
ラデアは首を横に振ります。手を背中に回して、肩甲骨の辺りでぱたぱたと動かすと、へユテは得心が行ったように指を鳴らしました。
「天使ですか? 貴女も噂をお聞きになったんですね」
へユテは邪気のない笑みで答えました。
「ええ、我が王家が最近保護した天使も、都に行けば見ることが出来ますよ」
(本当!?)
ラデアは目を輝かせて立ち上がります。瞬間、足裏に鈍い痛みが走って、再びソファに座り直しました。ここは二階だから、地面よりは大地の気が薄いのでしょう。
「おっと、大丈夫ですか」
よろめいたラデアに手を伸ばしかけたへユテは、ソファに沈んだ彼女を見て、ほっとしたように息をつきました。
「どうぞ、僕と共に都へ来て下さい。悪いようにはしませんから」
「殿下、本当にその者を連れていくのですか」
非難するように声を上げた従者を、ちらと振り返ったへユテは、「何か問題でもあるか」と返した。
「……しかし、出自も分からぬ女を殿下の傍に置いておく訳には参りません」
「別に手元にずっと置いておく訳ではない」
その会話を、ラデアはじっと見守っていました。ラデアの両目に見据えられていることに気付いた従者は、居心地悪く身動ぎします。
どうせ本懐を果たしたらすぐに帰るのです。何か複雑な立場になってしまったら、たまったものじゃありません。
それに、口ぶりから察するに、へユテは随分と高位の存在のようです。あんなに大きな宝石を当然のように身につけているんだから当然かも知れないけれど、少なくともきっと、相当なお金持ちでしょう。
(私、都に連れていってもらうだけで良いのよ)
ラデアは身振りを交えながら、必死に訴えます。
げんなりするほど、時間と手間をかけて伝えると、へユテは、顎に手を当てて考えました。
「本当に、それだけで良いのですか?」
(ええ)
笑って頷くと、へユテは目を細めて笑いました。
「分かりました。もし居住されるようであれば、働き口くらいなら用意できますので」
(そうね、助かるわ)
***
ハイヒールの人魚、と言われるようになったのは、海から来たラデアが、常に踵の高い靴を履いていたことに由来しました。
出来るだけ足から伝わる大地の気から遠ざかりたくて、高さのある靴を選びました。脚の病気で、その角度のまま保っておくのが楽なのだと、周囲にはそう説明をしました。
海のように青い靴に、しなやかで美しい足を差し入れ、城を行き来するラデアに、誰もが見とれました。
第一皇子が海辺へ避暑に出かけたかと思ったら、砂浜で見つけて拾って帰ってきた、身元不明の美しい少女。伏せられた目を覆う長い睫毛も、その下に隠れた煌めく瞳も、どれもが人々を魅了します。
『リーティア』と呼ばれるようになったラデアは、城の各階を回って、洗濯物を回収して回ります。上階に近付けば近付くほど楽になるので、ラデアは上階での仕事を好みました。階段を上らなくてはならない上階での仕事を担当してくれるラデアを、皆が歓迎しました。
「リーティア、今晩食事でもどうかな」
かけられた声を、ラデアは笑顔で黙殺します。何故なら声が出ないのです、答えられようはずもありません。それを分かっているのか、声をかけた方も、笑顔のまま立ち去りました。
「人気者ね、リーティア」
シーツを両腕に抱えて部屋から出てきた、同僚の少女が、悪戯っぽく笑います。
「駄目よ、しっかりとした食事の作法を身につけるまで、私達が外には出さないからね」
「そうよリーティア、殿方と一緒にお食事に行くんなら、少なくともいきなり料理に掴みかかろうとする癖は直した方が良いわね」
ラデアは頬を膨らませました。こうして度々からかってくる少女が、その頬をつついて遊びます。
「リーティア、貴女、料理に掴みかかったりしたんですか?」
愉快そうに笑いながら、背後から現れたへユテが、ラデアの腕の中にシーツの山を乗せながら言いました。
驚いたのは同僚です。
「殿下!?」
「り、リーティアあなた、殿下に自分の仕事やらせたの!?」
(だって集めてきてくれるって言うんだもの)
「不満げな顔しても駄目よ!」
「皇子殿下を顎で使う下働きがどこにいると思ってるのよ!」
どうやらいけないことだったようで、本人の目の前で散々叱られたラデアは、拗ねて唇を尖らせました。それを見て、へユテがまた笑います。
「天使の儀までは客人が多く来ますからね、貴女たちも仕事が多くて大変でしょう」
「いえ、殿下にお気遣い頂くほどの重労働じゃございませんので!」
「この甘えんぼが怠けてるだけですわ!」
(失礼ね、私だってちゃんとやってるわ)
シーツを抱えたまま、ラデアは不服げにそっぽを向いて見せました。
***
美しい自己犠牲の人魚リーティア。伝承の中にしか生きていない、はるか昔の人魚。
闇を封じる為にその命を擲った、美しく儚い、人魚リーティア。
人間を見捨てて海の底に潜った人魚とは違って、人を愛し、人に愛された、伝説の人魚。
そんな綺麗で清らかな人魚に準えて、人々は汚いラデアを『リーティア』と呼びました。
馬鹿にするな、とラデアは内心吐き捨てました。
大好きな姉でした。そして、とってもお馬鹿な姉でした。
自分の命を捨ててまで人間を救って、何になったと言うのでしょう。
美しい姉リーティアが、地上の美しさを讃える歌を教えてくれました。リーティアは地上が好きだったのです。
そんなリーティアは、地上を襲った恐ろしい死病を救うために、自ら生贄となりました。
ラデアからしてみれば、あまりに馬鹿らしい献身でした。何も帰ってきやしないのに。どうして自分の身を削ってまで、人間を救ったのか、200年考え続けて、まだその答えは出ていません。
ラデアは、そんな、愛おしく愚かしい姉の名で呼ばれることが、心底嫌でした。
***
「天使の儀ってあと何日後だったかしら」
「3日後よ」
「いやー、大変ね」
次々と埋まっていく客室を回り、シーツを回収しながら、同僚が口々に言います。耳慣れない言葉に首を傾げたラデアに、同僚は顔を見合わせました。
「リーティア、半年くらい前に、天使様が一人、保護されたのは知っている?」
ラデアが頷いて、窓から遠くに見える神殿を指さすと、同僚は微笑みました。
そうです、レヴェンの居場所は分かっているのです。レヴェンは、街の外れの神殿に囚われているのです。何度も出向きました、でも、身分すら証明できない、ただの下働きは、神殿に出入りすることは出来ないのです。一目すらも見ることが出来ず、ラデアは完全に行き詰まっていました。
「天使の儀っていうのはね、皆で天使様を讃える儀式なの。その日だけは神殿に誰でも入ることが出来て、天使様にもお目見え出来るわ。それで、天使様が逃げないようにーー」
「こら、無駄口叩いてる暇があったら次の階を回ってきなさい!」
二人同時に頭を叩かれ、ラデアと同僚の少女は涙目で振り返りました。怖い上司が、腰に手を当てて目を怒らせていました。
「すみませんでしたー!」
(ごめんなさい!)
二人で謝ると、これ以上の叱責を避けるため、同時に走り出します。
「ふん、だ。こないだ3年間付き合ってた男に捨てられたもんだからカリカリしてんのよ、まったく」
鼻息荒く言いながら、ベッドからシーツを無理やり引っぺがして回収する同僚が、ふと窓の外を見ました。
「あ、外天使だわ」
言って指さす先には、青い空を舞う天使が見えました。神殿の上空で旋回しています。
「保護されていらっしゃる天使様を誑かしにでも来たのかしら」
首を傾げているラデアを振り返って、心優しく快活な彼女は教えてくれました。
「人と共に生きることを選ばなかった天使のことを、私達は外天使と呼ぶの」
彼女は、酷く当然のことを言うように告げました。
「ほんと、我儘な天使よね」
***
時はあっという間に過ぎました。
詳細不明の、その『天使の儀』とやらの日は、皆、仕事が休みです。
ラデアが行きたがったので、へユテが連れて行くと申し出てくれました。
「あくまでお忍びですからね、目立つといけないから、あまり良い席には案内してあげられないのですけれど」
(それで良いわ)
ラデアは微笑みつつ、普段は着ないような、足元まであるマントを体の前でかき寄せました。
「それは?」
(人混みが苦手なの、知らない人と体が触れるのが嫌で)
私、他の人、と指し示して伝えると、へユテは漠然と理解したように頷きました。もちろん嘘でした。マントはラデアが持参している剣を隠すためのものです。
疑う様子もなくラデアを気遣うへユテを、彼女は静かに眺めました。
神殿は綺麗なところでした。磨き抜かれた大理石の床も、装飾的な壁も、天井を支える力強い柱も、どれも、美しく飾られています。
でも、ここがレヴェンの住む場所だと思うと、何だか気に食いませんでした。だってこんなの、まるで檻のようじゃあないですか。
誰も、聖堂に入ることは許されませんでした。人々は皆、聖堂の前に群がって中を覗き込みます。
「リーティアも中に入りたかったですか?」
ラデアが頷くと、「今度連れていってあげましょう」と微笑んで、へユテは考え込むように腕を組みました。
「なら、リーティアの身元引受人でも探して、後ろ盾のある状態にして……」
何やらぶつぶつと呟いているへユテを無視して、ラデアは身を伸ばして聖堂を見やりました。
果たして、そこにレヴェンはいました。
息が止まるような心地でした。
(ーーレヴェン!)
ラデアは必死に叫びました。しかし、レヴェンに会うために声は捨てたのです。大きく開いた口からは何の言葉も飛び出さず、ラデアは絶望したような表情で、伸ばしかけた手を下ろしました。
しかし、叫ぼうとしたのは、何もラデアだけではありませんでした。
聖堂の奥にレヴェンの姿が見えた瞬間、居並ぶ群衆は、拳を振り上げて歓声を上げます。大地が轟くような大音声でした。
聖堂の奥で、レヴェンはびくりと肩を震わせました。
(レヴェン! ーーレヴェンっ!)
ラデアは胸元を掴んで、必死に呼びかけます、でもどうしてその言葉がレヴェンに伝わることがありましょう。
美しい天使はそこにいました。走り出せば10秒とかからず触れられる場所に立っていました。
「……リーティア?」
へユテが、様子のおかしいラデアの肩を掴んで軽く揺すります。そうしてやっと我に返ったラデアは、悔しさに唇を噛んで、身を縮めました。
「ーー静粛に!」
重々しい鐘の音と共に、神官の声が空を裂きます。一気に静まり返った聖堂前が、修道女たちによって割り開かれ、広場に円状の空間が出来ました。皆は聖堂の入口に張り付き、人智を超える美しさを持った天使に手を伸ばしました。
レヴェンが、一歩を踏み出す、その足音が。
敏感な、ラデアの足裏に伝わりました。
美しい銀色の髪は、さっぱりと切りそろえられ、その毛先が、彼が一歩を踏み出す度に揺れました。
俯き加減に顎を引いて、彼は自分の足元を見つめています。そうすると、切りそろえてもなお、十分に厚い前髪が、彼の顔を隠しました。
力仕事をしなくなった腕はすっかり筋肉が落ち、引き締まっていた肉体は、ただの貧相な体となっていました。頬はこけ、髪の隙間から垣間見える目に、生気はありません。
(……レヴェン、)
それでも、彼の美しさなど、全く損なわれやしないのです。むしろ、儚く退廃的な美しさによって縁取られたレヴェンは、白い体でありながら、どこも白い聖堂から、くっきりと浮かび上がって見えました。
(レヴェン、)
それは美しい男でした。
(レヴェン)
豪奢な服を着せられて、体の重たげな彼は、両手を体の前に、だらりとぶら下げていました。
背中を反らして、諦めたように顎を引き、手を、まるで差し出すかのように、前に出しているのです。
(嗚呼、神様)
醜い醜い、手錠でした。おぞましい鉄でした。
重たい鉄を、レヴェンはその両手首に付けられていました。
鉄は汚いのです。醜く嫌らしいラデアよりももっと、穢れて薄暗い物質です。ラデアの体を強く貫いたものです。
(これの何が、信仰なのですか)
その場にいる全ての人民は、紛うかたなく、レヴェンを信仰していました。それはもはや熱狂と言うに等しく、彼らは皆、神を信じ、神を敬愛しているのです。
レヴェンの中に神を見ているのです。
ここにいる誰もが、敬虔な狂信者でした。
(どうして、レヴェンが飛ぶことを禁じるのですか)
レヴェンが歩きます。諦観したように、一歩一歩が、どこか頼りないような歩き方でした。胸を張って、顔を上げて、笑いながら走るレヴェンは、もうどこにもいませんでした。いえ、そもそも、レヴェンは、歩くような、走るような存在じゃないのです。そんな下賎ではないのです。高潔にして崇高な天使なのです。
もしかしたら、レヴェンも、ずっと足が痛かったのでしょうか。大地を嫌い、大地に嫌われたラデアと同じように。
きっと水も嫌いだったのでしょう。ラデアが、自らの側にある火を厭うように。
それなのにレヴェンは、島を巡り、ラデアの為に食べ物を探してきてくれました。
そればかりか、レヴェンは岩を蹴り、ラデアに手を伸ばすために、水に飛び込んできてくれました。
(レヴェン、)
こんなに苦しいなんて思いませんでした。嗚呼、そうです、エフェカの言う通りです。
一目見るだけで良いなんて嘘でした。そんなの嘘でした。
だって見れば、こんなに苦しくなるのです。
卑しい人間たちが、レヴェンに手を伸ばします。どうか祝福を与えてくれと、感激に目を涙に濡らしながら、澄んだ空のように穢れなき天使に慈悲を乞いました。
赤い絨毯を踏みしめて、聖堂の奥から徐々に近付いてくるレヴェンを、じっと見守っていました。群衆の中には道が出来ていました。聖堂前に出来た空間に向かって、真っ直ぐに出来た道です。ラデアは、その道が伸びた先、広場を取り囲む群衆の最前列にいました。正面から、レヴェンが、ゆっくりと歩いてきます。
レヴェンは裸足でした。
一歩、踏み出す度に、その足首に付けられた装飾品が揺れて、軽やかな音を立てました。
静粛に、と言われたからでしょうか、抑圧された騒音が、ざわめきとして、波のように広がっていきます。すすり泣く声もちらほらと聞こえました。
「リーティア、この儀式は、我々と共に生きることを選択して下さった天使様を、祝福し、歓迎するための儀式なんですよ」
呆然としたように動きを止めているラデアに、へユテが優しく声をかけました。ラデアは、半ば心ここに在らずとでもいうような顔で、へユテを見上げました。
「ほら、こちらへ来ますよ」
それはあまりに美しい羽でした。頭上は快晴でした。明るい光に照らされたレヴェンの銀色の髪が、まるで本物の銀ででもあるかのように輝きました。
レヴェンが、木で作られた階段を、登っていきます。作られた舞台の上、彼は、ゆっくりと顔を上げました。
金色の瞳が、青い空を映しました。その背から生えた、真っ白な翼が、風に吹かれて揺れました。
顎を反らして、天を見上げたレヴェンが、そのまま目を閉じました。なすがままとでもいうような姿に、ラデアは痛ましく顔をしかめます。
刹那、その眦から、一筋、頬を伝う透明な雫が零れました。
(レヴェン! レヴェン!)
それを見たラデアは必死に叫びました。胸を掻き毟るようにしながら、目を見開いて、レヴェンを抱きしめるべく、手を伸ばします。それを押しとどめたのは、へユテでした。
「駄目ですよ、儀式の邪魔をしたら、神様に罰を受けます」
(罰ならもうとっくに受けたっ!)
ラデアは泣き叫ぶようにして反駁します、でもその喉から出るのは息の音だけなのです。
これでまだ、レヴェンが幸せそうにしていたのなら良かったのです。人間に大事にされて、健康に過ごしていて、笑っていたのなら、まだ、諦めだってついたのです。
(レヴェン! レヴェン、レヴェンお願い返事をして!)
体を折って何事か伝えようとしている少女に、周囲も異変を感じて、ラデアを遠巻きにします。ラデアの側にいるのは、必死に彼女を取り押さえようとするへユテだけでした。
へユテはラデアを抱き竦めました。どちらかと言えばそれは拘束の意味合いが強いものでしたが、いきなり人の胸に顔を押し付けられて、ラデアは思わず動きを止めました。
(……一体、天使は、何をされるの?)
ラデアは、唇を動かして問いました。
何かを訊こうとしている気配だけは察したのでしょう、へユテは、腕の力を緩めながら応えました。
「もう終わりますよ、大丈夫です、リーティア。
あとは、天使がどこにも行かないことを示すために、
天使の羽を片方、切り落とすだけです」
瞬間、レヴェンの背後から、大きな刃を持った神官が、階段を上がって来ました。
目の前が真っ暗になる気がしました。太陽の光を浴びて輝く、忌々しい鉄。
人間は、その鉄で姉の頭を切り落とし、ラデアの胸を貫くだけでは飽き足らず、レヴェンの羽すら奪おうというのか。
ラデアは必死に祈りました。
嗚呼、どうか優しい神様、レヴェンを救って下さい。今こそ、彼に羽を解放し、彼を逃がして下さい。
……願いは、聞き届けられません。
ラデアは、体がかっと熱くなるのを感じました。
聖堂の中から、清らかな歌声が響きます。柔らかい幼子のソプラノが、忌まわしい空間を揺らし、否が応でもその場にいる者の気持ちを昂らせました。
レヴェンは、静かに床に手をつき、膝を屈し、地面に座り込むと、背中を丸め、頭を垂れました。
音もなく、振り上げられる刃を、レヴェンは微動だにせずに待ち構えていました。その動きには気付いているのでしょう、レヴェンの視線の先には、刃を天に向かって突き上げる、男の影がありました。
(嫌だ、レヴェン、レヴェン!)
叫んだラデアの胸元で、軽やかな音がしました。はっとして見下ろせば、そこには、エフェカから貰ったペンダントが揺れています。
逡巡は、ありませんでした。
仮令二度と海を見ることが叶わなかったとしても、それでも良いと、そう思ってしまうほどの激情でした。
ラデアは、ペンダントを引きちぎりました。
鎖に擦れた首の後ろの皮に、血が滲むのが分かりました。喉に何かつっかえていたものが、一瞬にして消えました。
……嗚呼、この先どうなろうと知ったことか。
決して、あの美しい天使から、羽を奪わせる訳にはいかないのだ。
ならばどうする、ならば走れ。
こんな、自らを拘束する大きなマントなぞ脱ぎ捨ててしまえば良い。身を守る靴など放っておけ。
戦え、その刃をもって戦え。
そして呼ばわるのだ。
「ーーーーレヴェン!」
喉も枯れよと絶叫したラデアに、彼は確かに顔を上げました。ついさっきまで、死人のように何も移さなかった、その顔が、泣き出しそうに歪みます。
「ラデアっ!」
ラデアは思い切り跳躍しました。裸足が地面を強く踏みしめた瞬間、激痛が脳天まで突き抜けます。それをおくびにも出さず、ラデアは愛する天使に向けて、大きく踏み出しました。
マントを脱ぎ捨てて身軽になった彼女の腰にある、大きく無骨な剣が、一思いに抜かれます。
今、天使の背に振り下ろされんとしていた刃は、少女の細腕によって阻まれました。天使を抱き寄せ、庇うように体の後ろに隠した彼女が、 猛然と、剣を持った神官に打ちかかりました。
「神など死ねば良い!」
それは、神を信仰するこの神殿において、どれほど不釣り合いの呪詛だったことでしょう。
「レヴェンに飛ぶことを許さない、忌まわしい神なんて、廃されれば良いのよ!」
慄いたように、神官が一歩下がりました。取り囲む群衆が、怯えたように息を飲みます。
「レヴェンが何をしたというのよ! 罪のない天使を害することが信仰なの、それが神の意思なの!?」
ラデアはもはや泣いていました。澄んだ声が、厳しく広間に響き、神を糾弾しました。
「だったらそんな神、私が殺してやる!」
荒々しい声でした。ラデアとて、これほどまで激昂して怒鳴ったことなどありません。
ラデアは、レヴェンを拘束する手錠に触れました。こんな重苦しい金属、レヴェンには似合いません。
瞬間、レヴェンの手錠が、砕け散りました。それを見た人々が、怯えて悲鳴を上げます。
ラデアは、神殿を睨みつけました。その瞳はまるで炎でも揺らめいているかのように獰猛で、視線の矢面に立たされた人々は先を争って逃げました。
自分の体に力がみなぎるのを感じました。
ああそうね、とラデアは呟きます。エフェカが常々、魔法なんて禄なものじゃないと言いながら、使ってしまう気持ちが分かりました。
それは凄まじい快感でした。
何も持たぬ手を振りかざし、振り抜く。それだけで、神殿の柱は粉砕されました。
「そうよ私は背教者よ」
ラデアは吐き捨てながら、聖堂に飾られた像を見据えました。像は少し悲しげに微笑んだ気がしました。
そして、全てを受け入れる、とでも言いたげな、鷹揚で大らかな、慈愛に満ちた優しい笑顔。
ーー君はその道を選ぶんだね、と、声が聞こえた気がしました。
その瞬間、ラデアは、像を打ち壊しました。足元にひびを入れられた像は、ゆっくりと傾き、轟音と共に、聖堂の中に伏しました。衝撃で粉々になった像が笑います。
ーーいつでも私は君を愛しているよ、と、神は最後にラデアの頭を撫でました。
いえ、何も見えないのです。何も聞こえないし、匂いもしないのです。でも、そこには確かに神がいました。
彼女が真っ向から否定し、打ち壊した神がいました。
「もうこの世界は、あなたがいなくたって生きていけるんです」
ラデアは、囁きました。神は、黙ってその言葉を聞いていました。
そして、最後に、ラデアは、満面の笑みを向けました。初めて神に向けて見せた笑顔でした。
「ありがとう、神様」
何も言わず、神は軽く微笑んだまま、首を傾げました。
ーー君は自らを背教者と自称するけどね、
温かい気配が、目の前から消え失せました。それをきっと、他の人も感じたのでしょう。嘆くような声が響きます。
ーー私をそこまで真っ直ぐに見つめて、感情をぶつけてきた子は他にいないよ。
神は肩を揺らして笑っていました。酷く嬉しそうに笑っていました。
ーー誰よりも君は私の存在を肯定してくれた。それが、何よりの信仰だと私は思うんだ。
気配が遠のきます。ラデアが200年の間、ずっと憎んで呪い続けた存在が、風に散らんとしていました。
隣のレヴェンが、息を飲みます。
……嗚呼、大嫌いです、神様。だって、こんなに美しい天使なのに、空を飛べないだなんて、あんまりじゃないですか。
ラデアに祝福の手を差し伸べてくれた優しい神様。死に方が可哀想な未来が見えるのなら、辛い目に遭う前に、幸せなまま殺してやりましょうと微笑んだのです。それを拒むのなら、だったら死なないようにと老いを奪われました。殺されるまで死なない、永久の呪いです。その優しさが憎くて憎くて仕方ないのです。
ーーだから私は、君が大好きなのさ。
言葉を残して、神は消えました。依り代を失った神は本当に失われたのでしょうか。それを知る術は、ラデアにはありません。
ラデアは、黙って空を見上げていました。そんなラデアに背後から寄り添ったレヴェンは、震える体で彼女を抱きました。
その体をさり気なく遠ざけ、ラデアは唇を噛みます。
ラデアが気丈に立っていられるのにも時間制限があるのです。声を出せばたちまちのうちに足は元に戻ってしまうとエフェカは言っていました。
腰のあたりから、徐々に鱗が生えてくるのを感じました。
ええそうです、声を出したのだから、当然の運命です。
力を入れていた膝がかくりと抜け、崩れ落ちかけたラデアを、レヴェンが抱え上げました。そしてそのまま、ラデアの髪をかき回して、強く抱きしめます。
肩口に押し付けられた顔を濡らして、ラデアは泣いていました。泣き叫んでいました。
「行って、レヴェン」
ラデアはレヴェンの耳元で囁きます。虚を突かれたように動きを止めたレヴェンは、何故、とラデアを強く抱き締めました。
「あなたはもう、空をどこへなりと飛んでゆけるのよ」
でもラデアは駄目なのです。ラデアは卑しい人魚でした。周りは、刃を向ける人間が取り囲んでいます。
言っている間にも、ラデアの足は少しずつくっついていきます。光沢を持った鱗に覆われ始める足を見て、レヴェンは苦しげに顔をしかめました。
「私は逃げきれないわ、だからレヴェン、あなただけでも逃げて」
レヴェンは、ラデアと人間を、何度も見比べます。その頃には、既にラデアの下半身は完全なヒレとなっていました。
「私のこと、どうか忘れないでね」
ラデアは、震えるレヴェンの体に腕を回しました。
それは、あまりに美しい抱擁でした。
レヴェンの頬を包み込んだ両手が、小刻みに震えていることに気付いて、ラデアは自嘲するように頬を歪めました。
きっとラデアは、レヴェンの人生に存在してはいけなかったのです。どだい、世界の違う人だったのです。
顔を寄せ、呆然としているレヴェンの唇の端に僅かに触れると、ラデアは強くレヴェンを突き飛ばしました。その瞬間、舞台から落ちかけたレヴェンの羽が、動きます。
レヴェンは、呆気に取られた顔で、羽を上下させました。問うような視線に、ラデアは黙って頷きました。
頭上を見上げると、はるか上空で様子を伺う外天使がいます。
「さよなら、レヴェン」
レヴェンは強く羽ばたきました。あまりに強すぎて、勢いで白い羽が数本抜け、広場に舞い落ちました。
青い空に、天高く舞い上がっていくレヴェンが、小さくなります。もう姿形も判別出来なくなったレヴェンから視線を外し、ラデアはやるせなく微笑んで、ぱたぱたと涙を落としました。




