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赤子を拾ったのは偶然でした。
海辺に捨てられた幼子が、弱々しく泣いているのを、ラデアが見捨てられなかっただけのことです。ラデアの甘さ故のことでした。
近付いてはいけない、と分かってはいたのです。情を移してしまえば、辛くなるのはラデアの方だと、触れる前から、そんなことは分かりきっていました。それでも、その赤子に触れようと、手を伸ばしてしまうのを、ラデアはこらえ切れなかったのです。
別種族の子供を、こんなに間近で見るのは初めてでした。ふくふくとした頬を指でつつくと、小さな手がラデアの指を握り返します。
「……あなた、お母さんは?」
赤子はむにゃむにゃと口を動かして、言葉にもならない返事を返しました。
「そりゃそうよね、」
まだ1つになるかならないか、とても一人じゃあ生きていけない幼い子供を、ラデアはそっと抱き上げます。
「どうする? ……私と一緒に、来る?」
ラデアが囁くと、子供は、目を開けました。瞼の下に隠れていた、澄んだ金色に、息を飲むラデア。
「一緒に来たって、私はあなたに何もしてあげられないよ」
赤子は、その滑らかな頬を、一気に綻ばせます。丸みのある指が、ラデアの細い指を、きゅ、と掴むのです。
「それに、ずっと一緒にいることはきっと不可能だよ、それでも良いの?」
どうせ何を話しかけたって分かりやしないのですから、ラデアは好き勝手に語りかけて、頬を何度もつつきながら告げました。赤子は嬉しそうに笑いながら、ラデアの腕の中で体を捩らせます。
「幸せにだってしてあげられないよ、ねぇ」
小さな額にまばらにかかった、銀色の髪を、優しく払い除けてやると、ラデアは目を細めて笑いました。
「でも私なら、あなたに名前をあげられる」
愛らしい幼子の額に口付けて、ラデアは慈愛に満ちた微笑みで言いました。
「私の名は蒼海」
そして、これまでになく優しい声で、宝物の名でも口にするように、ラデアは囁きました。
「私と一緒においで、ーー碧空」
背中に真っ白な羽を持つ幼子は、与えられた名に、酷く嬉しそうに笑って応えたのです。
天使の子を抱いたラデアは、慎重に海へ体を浸しました。そして身をくねらせると、輝く鱗を煌めかせながら、その尾ひれで力強く水を蹴って、海へ泳ぎだしました。
***
「レヴェン、勝手に出歩いちゃ駄目よ」
「やだぁ!」
「駄々こねないの」
「僕も一緒に泳ぐ!」
「レヴェンは泳ぐ必要なんてないの」
「やーだーっ!」
勢いよく海に向けて走り出そうとしたレヴェンを取り押さえたラデアは、困ったものだとため息をつきました。やんちゃに育ったレヴェンは恐らく、そろそろ6つか7つになります。
海へ向かうラデアを見て、毎日のように海に突進する日々。そのまま海に落ちることも毎度のことで、その度にラデアは苦笑いしながら海までレヴェンを回収しに行くのでした。
海岸線の入り組んだ、離れ小島。ラデアの住処は、そのうちの一つ、海と繋がった洞窟の奥でした。そこにレヴェンを連れて帰って、さあ育てようとしましたが、如何せん子育てなんてしたことがないのです。
結局、海の底に潜って、知り合いのエフェカ婆さんのところに行っては、子育て法の伝授を乞う毎日でした。
「ラデア、ラデア」
岩場に腰掛けて髪を梳かしていたラデアの背中に、ひしと抱きつくレヴェンが、嬉しげに羽を動かします。綺麗な、真っ白な羽です。
「僕もラデアみたいな、綺麗なヒレが欲しい」
その言葉に、ラデアは微妙な顔をして唇を引き結びました。純粋な瞳で告げられた言葉に、返す言葉もなく、黙り込んでしまいます。
「駄目よ」
ラデアは、ようやくそれだけ答えました。不満そうに頬を膨らませたレヴェンに、ラデアは淡く微笑みました。
レヴェンは、美しい少年です。金色の瞳をした、穢れのない白い羽を持つ、尊い天使なのです。
対してラデアは、卑しい人魚でした。人の上半身に、醜い魚の尾を持つ、汚い化け物でした。
地上に住む人間は、上空を舞う天使を祀り上げ、信仰します。
地上に住む人間は、足元を泳ぐ人魚を蔑み、迫害しました。
いつか別れる時が来ることは自明でした。
***
レヴェンが声変わりを済ませる頃には、二人の食料はレヴェンが調達するものになっていました。海へ出て魚を捕らえようとするラデアを押し止め、島を巡っては、鳥やその卵、果実を集めてきてラデアの前に並べてみせます。
褒めて、と言わんばかりに破顔して、岩場の上にしゃがんで見つめてくるレヴェンに、ラデアは何がどうしてこうなった、と首を傾げました。
「どう、美味しい?」
「うん、鳥の肉ってのもなかなか美味しいものね」
火で炙った鳥から滴る油が、火をいっそう激しく燃え上がらせます。元来水の生き物で、火が苦手なラデアは、ほんの少し、身を竦めました。さりげなくラデアから火を遠ざけながら、レヴェンは鳥を両手で持ったままのラデアに微笑みます。
「ラデアは、鳥を食べるのは初めて?」
その問いに、ラデアは困ったように目を逸らしました。
「私には、鳥は、絶対に捕まえられないから……」
困ったのはむしろレヴェンの方です。自嘲するような顔をしたラデアを慰めようと、言葉を尽くして話しかけ、ラデアの顔を慌てて覗き込みました。
人魚の機嫌を窺う天使の慌てようにラデアは笑って、首を横に振りました。
「だから、レヴェンのおかげで食べることが出来て嬉しいわ」
そう言って頬を緩める人魚を、レヴェンは黙って見つめていたのです。
「……ラデアは、今、何歳なの?」
時間は夜でした。星の見える、晴天の夜でした。揺らめく火だけが光でした。
赤い炎に照らされたラデアの顔は、愕然としたように強ばっていました。その頬が、風に煽られる焚き火の明かりを反映して、陰影の中に浮かびました。
「……さあ、ね」
見開かれた目に、レヴェンの呆気に取られた表情が写っていました。
「人魚の生は人と変わらない。ーーでも私、とっくに200は超えてるわ」
息を飲んだレヴェンに、ラデアはやるせなく笑みを向けます。
「呪いなんだわ、分不相応に私が死を拒んだから」
レヴェンは、暗い目をしているラデアに、手を伸ばしました。
「予言を受けたの、とっても重要な予言よ」
水底に沈む人魚の郷を思い出します。光も届かない暗い暗い海の底にひっそりと隠れ住む同胞たちを思います。
「神様は仰ったわ、いつかこの娘はとても可哀想な死に方をするから、」
そこで言葉を切ったラデアは、小さく息を吸いました。その音は泣いているように引きつっていました。
「今のうちに殺してしまえ、と」
嗚呼、何と慈悲深い神様。惨たらしく死に向かわんとするラデアの苦しみを取り除くべく、この場で自らの手で祝福をもたらそうとしてくれるとは。
何て優しい、優しい神様。この子が死した後はきっと、美しい泡沫となって消えゆくでしょうだなんて、嗚呼、しがない人魚に救いの手を差し伸べてくれる優しい神様。
穢れを知らない泡となったその瞬間に、全ての罪は許されるのです。汚い人魚として生まれてしまったという恥ずべき罪も、半分は同じである魚を捕食するという救いようのない罪も、全てが、水泡となって消えゆくのです。
決して光を見ることのないこの子は、光となるのですから。
「私は、それを拒んだの」
ラデアは、天を見上げました。決して届くことのない星空が眼前に広がりました。
「神様に逆らって、地上に出ることまでした。そんな私に、神様は祝福を授けて下さった」
ラデアが失意のうちに死んでしまわぬよう。神様の愛し子が苦しみの中でその命を落とさぬよう。
「そのときから私は年を取らなくなったわ。年齢を数えることも、もうしない」
「ラデア、」
「私きっと、殺されるまで死ねないわ」
言葉に詰まったレヴェンが、手を伸ばし、ラデアの背を強く掻き抱きました。
彼女は、それを拒みませんでした。
***
「ラデア、おいで」
入り江で身をくねらせて潜っていたラデアに、レヴェンが声をかけました。
レヴェンから離れたところに頭を出したラデアが、顔にかかった髪をかき上げて笑います。
「嫌よ、あなたからおいでなさい」
水面に広がった髪が、彼女が水をかいて進む度に揺れました。
そんなラデアを、レヴェンは眩しいものを見るように目を細めて見下ろします。その背に生えた白い羽は、立派に生え揃い、今に空を駆けることが出来そうなほど。けれど天使は空を飛べません。飛ばないのではありません、飛べないのです。
神様が天使に空を禁じたのです。
かつて、ラデアが生まれてから100年ほど経った頃、ある天使が太陽を目指しました。神様の制止を聞かずに高く舞い上がった天使は、そのまま太陽に焼かれて塵と消えたのです。
その死を嘆いた神様は、まだ若い天使に、勝手に飛ぶことを禁じました。十分に分別がついたと判断された、成熟した天使のみに与えられる特権となったのです。
水に飛び込んできたレヴェンを見て、ラデアは高らかに笑いました。何て不格好な泳ぎ方でしょう。両足をばたつかせて、腕を必死に動かして、沈まないようにもがきながら笑うレヴェンを、しばらく鑑賞して楽しみました。
それから、頭が水の下に潜ってしまう時間の方が長くなってきた頃になって、見るに見かねたラデアは、水の底に一旦潜って、レヴェンの体をぐいと押し上げました。水の中で背負われたレヴェンは、息を荒くしながらラデアの背に抱きつきます。
こういうとき、レヴェンは水の中で生きる生き物ではないのだと、痛烈に感じました。
「やっぱり僕は泳げないや」
どうやら羽が濡れて重いらしいのです。ラデアにひし、と抱きついて、肩で息をするレヴェンは、悔しそうに歯噛みしました。
「レヴェンは泳げなくったって良いのよ」
だってじきにあなたは空を飛べるようになる。
言いかけた言葉を、ラデアは飲み込みました。
天使とは空を駆ける種族なのです。気高く尊く高潔な、神の使いなのです。
***
熱を出したレヴェンの額に手の甲を押し当てながら、ラデアは小さく息をつきました。
「私は魚しか捕ってこられないけれど、それでも良い?」
苦しげに息をしたレヴェンは、何か言いたげに唇を動かします。なあに、と何気なく耳を寄せたラデアは、途切れ途切れのレヴェンの言葉に、眉根を寄せました。
「……僕は、絶対に、君を、」
熱い息が頬にかかり、ラデアは知らず唇を引き結びます。伸ばされた手を握り返し、その熱いたなごころを、自らの冷たい頬に押し付けて、ラデアは静かに瞼を下ろしました。
「君を、見捨てたりは、しないから、だから、」
一体何を見たのでしょう。熱に浮かされたレヴェンは、何を垣間見、どうして、
「どうか、一人で死なないでくれ」
どうして、一人で泣いているのでしょう。
きゅ、と指を絡めて、上体を起こしたレヴェンが、ラデアに顔を寄せました。ずっと切らないままで伸ばしていた、銀色の髪が、耳から零れて、ラデアの頬を撫でては滑り落ちて行きました。
「……そうだね、もしかしたら君はここで死んだ方が幸せなのかも知れない」
それはやけに獰猛な目でした。喉笛でも噛み千切られるのではなかろうか、と、ラデアは身を引いて、レヴェンを上目で見ました。金色の瞳は、真っ直ぐにラデアを見下ろしていました。
「でもきっと君はそれを嫌がるだろう」
思いつめたような目をして、言うのです。見たことのない顔をして、ラデアの肩を抱く彼が、どこか遠くを見るように目を眇めていました。
「だったら僕が、神に、」
金色の瞳が、ゆっくりと青く染まっていくのを、ラデアは黙って見守っていました。
これは何の青でしょう。
花の青ですか。
海の蒼でしょうか。
それとも空の碧なのですか。
かつて見た神様と同じ色を湛える、レヴェンの双眸を、ラデアは、静かに見据えていたのです。
***
そのまま眠り込んでしまったレヴェンを置いて、ラデアは海へ泳ぎ出しました。島から離れたところまで行くと、くるりと体を反転させて、水底目掛けて一気に水を掻きます。一直線に潜水したラデアは、手に持っていた短刀を取り出し、岩場の影に近付きました。
ラデアの短刀捌きは正確でした。寸分も違えることなく貫かれた魚は、岩場に押し付けられて苦しげにもがきます。水にぱっ、とひらめく、鮮やかな赤色。
自分と同じ、輝く鱗を持った魚が、手の中で力を失い、息絶えるのです。
人が人を食べぬように、人魚が魚を食べるなんて、摂理に合わないと、その意見にラデアは賛同しかねました。
だったら天使が鳥を食すのだって、大罪なんじゃあないのですか。天使と共に鳥の肉を食べ、その卵も摂って、それは果たして許されることなのでしょうか。
思案しつつ、別の魚に狙いを定めた頃、ふわ、とラデアの髪が、下から煽られて浮かびました。ラデアを包み込む、清らかな白い泡に、彼女は何が起きたのかを察しました。
人魚は死ぬと、泡になるのです。
そしてこの海の下には、人魚たちの住まう海底の郷がありました。きっとその住人の誰かが生を終えたのでしょう、ただそれだけのことでした。
死した仲間たちの遺体は、決して残りません。故人の家族や友人たちが葬儀を行う間もなく、その死を悲しみ、悼み、弔う間もなく、全ての罪を内包して昇華していくのです。
最期の死に顔は如何なるものであったのか。笑って逝ったのだろうか。さぞや苦しかったろうな。ああ、そういえば、あの人はどんな顔をしていたのですっけ。
消されるのはきっと、罪だけではないのです。
跡形もなく消失したその命はきっと、仲間達に徐々に忘れ去られていくのでしょう。
死した後には、体も、魂も、想いも、記憶も、何一つとして残らないのでしょう。呆気なく消える様はまさに泡沫のようで、次世代に何も引き継がれぬ悲しみと常に背中合わせで在らねばならぬのが、人魚の宿命なのですから。
揺らめき立ち上りながら、一心に水面を目指す、無数の小さな気泡が、ラデアの体を撫でました。
それは人魚が唯一空へと駆け出せる瞬間でした。重い水に押し潰されて生きた生涯から解放されて、まるで天使であるかのように天へ舞い上がる、1分にも満たない、最期の祝福でした。
***
魚を手に島に戻ったラデアは、妙な気配に顔を険しくしました。森がどうにも騒がしいのです。鳥が慌ただしく空へ飛び立ち、空気が大きく揺らぎます。
「ラデアっ!」
切羽詰まったようなレヴェンの声に、ラデアは魚を放り捨てると、身を翻して水に潜りました。
「レヴェン!」
ラデアはレヴェンの名前を呼びながら、いつもいる入り江で水面から勢いよく顔を出します。
「ラデア、来ちゃ駄目だ!」
尋常でない怒鳴り声にはっとしたときには、もう遅かったのです。
地面に取り押さえられて、這いつくばるレヴェン。その背を押さえつけている複数の手に、ラデアは表情を強ばらせました。
「っレヴェン!」
ラデアは思わず叫んでいました。弾かれたように振り返る顔に、一瞬怯みます。
「今すぐレヴェンを放しなさい、人間!」
歯を剥き出しにして睨みつけてくるラデアに、どこからともなく現れた人間達は、顔を見合わせました。短刀を抜いたラデアは、深く海に潜ります。海底に転がる石を抱え、そして勢いをつけて水面から伸び上がりました。
大きく振りかぶって投げた石は、レヴェンの頭を岩に押し付けていた男の肩に当たりました。間髪入れず、次の石を投げようと腕を後ろに引いた瞬間、空を切る鋭い音がします。
「ラデア!」
レヴェンの近くに立っていた若い女が、弓を構えたままこちらを見るのを、黙って睨みました。
肩口に深く刺さった矢を抜こうとして、矢を掴んだラデアは、痛みに呻きました。赤い血が、水面に広がります。
「さあ天使様、我々と共に行きましょうぞ」
「嫌だ! 放せ!」
……レヴェンは、美しい天使なのです。
穢れなく清らかな、天の使いなのです。
碧空を舞う、何より自由な命なのです。
決して、そう、まるで家畜ででもあるように、首に輪を嵌められて、拘束されるべき存在じゃあありません。
「レヴェン、」
矢を抜くより早く、次の矢が腕を掠めました。切り裂かれた腕から流れ出づる血の色は、目に痛い鮮やかな赤でした。
天使も人間も人魚も、変わりやしないのです。皆、傷つけば赤い血を流すのです。
海獣のように吠えたラデアは、陸地めがけて勢いをつけて突き進みました。
「危ない、ラデア!」
いきが、とまりました。
いくつもの矢が、ラデア目掛けて飛んできては、細い体に寸分違わず刺さりました。今までの矢とは違う、黒くて冷たい矢です。それに、何だか、随分と硬いのです。
そのうちの一つが、ラデアの胸を貫きました。背から生えた矢を見て、レヴェンが半狂乱になって叫びます。
「ラデア! ラデアっ!」
ごめんなさい、とラデアは唇だけ動かしました。
……ごめんなさい、返事が、出来ないの。
ひゅ、と喉笛が鳴りました。伸ばした手が宙を彷徨い、自分の周りの人間を振り飛ばしたレヴェンに向けられました。
「ラデア!」
けれどその手はレヴェンには届かないのです。
嗚呼、どうか飛んで逃げて。神に逆らったって良いじゃない、その二枚の羽で、何で羽ばたかないの。
水に飛び込んで来たレヴェンが、必死に手を伸ばします。泳げないレヴェンが、溺れながら、ラデアの手を強く掴みました、
「レヴェン、」
でもそれが何になるというのでしょう。
「いけませぬ天使様! そのような穢れに触れては、貴方が汚されてしまいます!」
声を無視して、レヴェンはラデアを腕の中に引き込みました。レヴェンは酷い顔をしていました。
水を含んで重くなったレヴェンの服を握り締めて、ラデアは淡く微笑みます。
「わすれないで、レヴェン」
天使は人魚を蔑みはしないのです。人間と違って、暴力なんて振るいやしないのです。
でもそれは、ただの無関心ゆえです。
仮令人魚が天を仰ぎ、頭上を舞う天使に手を伸ばしたとて、天使は決して下を見やしないのです。きっとラデアとレヴェンもそうあるべきでした。
「どうか私のことを忘れないで」
為す術もなく水に広がっていく赤が、二人を取り囲みました。
「忘れやしないさ」
そう言って、血の気の失せた顔を指で撫でます。頬を歪めて笑ったレヴェンの体が、無理矢理に引き剥がされました。その体に腕を回して、ラデアは最後に伸び上がりました。
「貴方が幸せでありますよう」
囁きつつ、頬に押し付けた唇が、確かにわななきます。レヴェンの頬の上で、唇の端がひくりとしました。
……清らかなレヴェンは知らなくて良いのです。
(私を置いてどこかへ行くレヴェンなど)
捕獲されるレヴェンを見たラデアは、水面の下に沈みながら、そっと、唇を動かして囁きました。
(私のあずかり知らぬところで幸せになるレヴェンなど)
磨かれた宝石のように澄んだ光を放つレヴェンは、知ることはないでしょう。
こんなに汚くて醜いラデアを知る必要など、どこにもないのです。
(どこか遠くへ飛んでいってしまえばいい)
それが出来ないことを、ラデアは確かに知っていたのです。羽を禁じられた天使が、どんな思いで空を見上げているのか、ラデアには想像もつきません。
ラデア、と、呼ぶ声が聞こえました。それはもはや絶叫でした。狂ったように母を呼んで怒鳴る声は、いつかの可愛らしい赤子のものではありません。
呼応するように、レヴェン、と呼ばわります。言葉はただの泡となって消えました。
ラデアはきっと、誰よりレヴェンを愛していました。ラデアはレヴェンの母でした。母は子供の幸せを祈るのが道理なのだと教わったことがありました。
ーーレヴェン、あなたがどこかで泣いていませんように。
ーー貴方がどこかで幸せに笑っているのなら、それだけで良い。
……そんな風に願えるほどラデアが清らかだったなら良いのです。ラデアが純粋無垢で幼気な少女であれば良かったのです。
しかしそこにいるのは、世界の理を超えて命を繋ぎ、ただひたすらに生き恥を晒すだけの、醜い人魚でした。
レヴェンが自分の知らないところで泣くのも、自分の知らない顔で笑うのも、自分の知らない別の誰かを抱き寄せるのも、きっと我慢なりません。何故ならラデアの性根が汚いからです。
ラデア、と呼ぶ、その響きが徐々に遠のいていくのを感じながら、彼女は、静かに目を閉じました。
***
「目覚めたのかえ」
こぽこぽ、と、気泡の立ち上る音が、そこここから聞こえます。
「……ここ、」
「意識のないままここに辿り着くとは、お主もなかなかやるものよの」
大鍋をぐるりとかき回したその人は、何本もある足の一つを、ラデアの額に押し当てました。
「……よし、熱も下がっておる。起きてよいぞ」
「エフェカ婆さん、何で……?」
「何ではこっちの台詞さね」
退屈そうに頬杖をつきながら、エフェカはパイプをふかしました。やや色を含んだ泡が、ぷくりと出て、上へ昇っていきます。
「私、生きてたのね、」
「お主が生きたのではなく、妾がお主を生かしたのじゃ。勘違いするでないぞ若造」
「はいはい……」
エフェカは火を止めて、大鍋の縁に頬杖をつきました。どうやって水の中で火を焚いているのかはラデアにも分かりません。
「お主、月が一巡りするまで眠っておったことには気付いておるかいの?」
「月が一巡り……一ヶ月!?」
ラデアは目を見開いて叫びました。それを宥めるように、足の一本でラデアの肩を押して落ち着かせると、エフェカは肩を竦めます。
「何だって、あんなに大怪我をしておった。お主の恋人はどうしたのじゃ」
「こ……っ! 違うわ、あれ、息子だから、べ、別にそういう、」
エフェカの明け透けな言葉に、頬を赤くしたラデアは憤慨して身を起こしました。
「起きてよいとは言ったが、跳ね起きろとは言ってないぞ」
エフェカはしれっと言い、ラデアは全身に走った痛みに呻きます。
「ほれ、安静にしておれ」
エフェカが動かした指先一つで、ラデアは寝台に強制送還されました。
「魔法って便利ね」
ラデアが言うと、エフェカは素っ気なく答えます。
「そんなことが言えるのは、お主が、まだ、魔法を解放するだけの熱情を経験したことがないからじゃ。やめておけ、魔法など使うものじゃないからの」
一体魔法のおかげでどんな痛い目に遭ったか知りませんが、エフェカは海の魔女でした。蛸のようにいくつもの柔らかい足を持った、海溝に住む、美しい魔女でした。
今は、ラデアのいる寝台より一段高い岩の上に座り、時折鍋を混ぜています。
彼女もまた世界の理を無視した長寿者で、同じような存在として、交流が100年以上続いてきた、お互いに唯一の友人です。
「で?」
たった一文字の催促に、ラデアは俯いて、唇を噛みました。
「人間たちに、レヴェンが攫われたの」
「ほう、それはそれは」
関心なさげに頷くエフェカが、チョコレートがいくつか乗った盆をラデアの前に差し出しました。盆ごと受け取ったラデアは、一番可愛らしい形をしていたものを指先でつまみ上げ、口に押し込みます。
「……きっとこれで良かったんだわ」
「馬鹿者」
「あうっ」
盆を渡したまま、その辺を漂っていた足の一本が、ラデアの頬を張りました。腰で何とか踏ん張り、岩の上で、つん、と見下ろしてくるエフェカに、非難めいた目を向けます。
「それは本心かえ」
「……だって、レヴェンだって私といるより、人間に大事にされてる方が」
「たわけ」
エフェカの吸盤が、ラデアの頬をつねりました。頬を引っ張られたラデアは、涙目でエフェカの足を叩きます。痛いから泣いているのです、断じて別の理由なんかじゃありません。
「痛いわエフェカ婆さん」
「婆さんと言うでない」
きゅっ、と再び頬を引っ張ってから、吸盤を離したエフェカは告げました。
「お主はレヴェンとやらに会いたくはないのか」
ぴたり、と動きを止めたラデアに、エフェカは意地の悪い笑みを浮かべました。
「……会えるの?」
「普段はそんなに親切じゃあないよ、特別さね」
そしてエフェカはするりと岩を降り、硬直するラデアの頬に手を当てて囁きました。
「はて、お主はこんなところでうじうじしている場合かいの?」
ラデアは俯いたまま呟きます。
「一目で良いの、ただ、レヴェンが幸せにしていると分かれば、それだけで、」
ラデアが訴えると、エフェカは自らの顎に手を当て、首を傾げました。
「その男に、幸せになって欲しいのかえ?」
「ええ、それだけで良いの」と、ラデアは勢い込んで頷きます。
嘘をつけ、とラデアを見据えるその目は言っていました。
何故ならそれは嘘でした。
だからエフェカは、意地悪なことを言いました。
「そうよの、いっそのこと殺してしまえば、そのレヴェンとやらは、もう苦しむことはないのではないか? 対価はお主の唇の薄皮少々で結構じゃ。人魚の体は役に立つでの」
「馬鹿言わないでよ、殺すなんてありえないわ。救いたいって言ってるのに!」
「冗談じゃろが、まったく、顔を赤くして怒りよって」
呆れたように眉を上げたエフェカに、ラデアは唇を尖らせました。
「冗談がきついわ、エフェカ婆さん」
「婆さんと言うでない」
「はいはい」
溜息をついて、ラデアはエフェカを見上げました。
「……そのレヴェンとやらは、一人で泣いておるぞ」
エフェカはラデアの目を見据えながら言い放ちます。
「見えるの?」
「そうともさ」
エフェカは当然のように言ってのけると、ラデアに微笑みかけました。
「レヴェンが泣いておるのは、お主を探しているからじゃ」
歌うようにエフェカは告げます。
「お主と出逢わなければ、知ることもなかった痛みであろ」
蒼白になったラデアの頬を優しく撫でながら、エフェカは美しい顔を悲しげに細めました。
「ならばお主の髪7本で、その男から、お主の記憶を全て消してやろうかの」
「嫌よ」
断固として答えたラデアに、彼女とは比にならないほど永く生きているエフェカは、全てを見透かしたような目を向けました。
「要するに、お主は、その男を取り返したいのじゃろ?」
言い当てられて、ラデアはうっと言葉に詰まります。
「それで、またかつてのように一緒に暮らしたい訳じゃないのかの?」
ラデアは降参するように諸手を上げました。
「……エフェカ婆さんには負けるわ」
「次に婆さんと言ったら張り倒すでの」
「ごめんなさい婆さん」
***
容赦というものを知らないんだわあの婆さん、と内心毒づきながら、ラデアは水を蹴っていました。さんざんこねくり回された頬が、水に冷やされて気持ちいいのです。
ラデアは、しなやかな二本の脚で、海の中を、海岸に向かって真っ直ぐ泳ぎ続けました。
人間が泳いでいることに興味を示した魚達が、ラデアに寄っては、その正体が人魚であると分かると、怯えたように去っていきました。その様子を眺めながら、ラデアはついさっきまでいた海底を思い出しました。
『この魔法は、何かを消すものではなく、作るものだから、代償が必要じゃ』
そう言って、あの美しい魔女は笑いました。慈愛に満ちた優しい声をした魔女は、ラデアの細い首に触れながら言いました。
『人魚に足を生やすには、声が必要だと、何故だか昔からそういう風習での』
私の声が欲しいの、と問うたラデアに、エフェカは、馬鹿言え、と、あっけらかんとして笑いました。
『妾は自分の欲しいほぼ全てのものを持ち合わせておる。足りないのは古の時に亡くした、ただ一人だけじゃ』
だがな、と片目を閉じた魔女は、ラデアの肩をぽん、と叩いて言いました。
『友が去るのは何度経験しても辛いものよ、きっと戻ってくるのだぞ』
そう言って微笑んだ、綺麗な魔女に、醜いラデアは力強く笑んでみせました。
『お主は人魚じゃ。人魚に大地の気はきっと辛いであろ、地面に足を付く度に、刺すような痛みが襲うやもしれぬ』
『それくらい何てことないわ』
『良いかの、お主のその脚はお主自身の声と引き換えじゃ。声を封じた力でその脚が生えておるのじゃぞ。間違って声を漏らさぬよう、お主に今渡した、そのペンダントが声を封じておる』
『……要するに?』
難しい話は嫌いよ、と胡乱げな表情をしたラデアに、エフェカは鼻を鳴らしました。
『お主がペンダントを外して、一言でも言葉を発すれば、たちまちの内にその足は、元のヒレに戻ってしまうだろうからの』
しっかりと釘を刺すように言われた言葉を反芻しながら、ラデアは見えてきた水面に目を輝かせます。
あの向こうにきっと、レヴェンが待っているのですから。
全3話です。
連日19時投稿します。




