星降シルク
――『拓海くんさぁ、昨日の修正完璧だと思って出してきた? 確かに言った通りだけどさ、なんか今の気分と違うんだよね。今から全部デザインやり直して? あ、明日の朝イチの会議までにね』――
深夜二時、終電のなくなったオフィスで、冷めきった缶コーヒーを握りしめながら虚空を見つめていたあの夜。
完璧な納品物を提出した直後に食らった、クライアントの気まぐれな全否定と深夜の呼び出し。
目の前でボロボロになり、頬にハイヒールの跡をつけて撃墜された大胸筋の姿に、拓海は社畜時代の苦いトラウマを強烈にフラッシュバックさせていた。
(……くそっ……! 現場の血の滲むような努力を、気まぐれ一言で踏みにじりやがって……!)
気づけば、拓海の手は固く握りしめられていた。
あんなにウザがっていた大胸筋の肩に、そっと優しく手を置く。
「……お前も、大変だな……」
滲み出るような拓海の優しい言葉。大胸筋は一瞬ポカンとしたあと、パーッと表情を輝かせた。
「わかってくれるか拓海クン! ならそんな私にトレーニング部屋と特級プロテインを用意してくれたまえ!」
「するかっ!! 俺の同情を返せーーーっ!!!」
拓海は全力で大胸筋の肩を突き飛ばした。
(もう絶対、二度とこいつに甘い顔は見せない……!!)
「だ、だが拓海クン! 【星降シルク】のドレスがなければ、私は二度と神界へ戻れんのだよ!」
「ハァ……ハァ……分かってますよ! 乗りかかった船だ、ドレスくらい作ってやりますよ……」
拓海はため息をつくとユグドラシルに【星降シルク】について尋ねる。大胸筋には聞くまでもないだろう。しかしユグドラシルは葉を小さく左右に振った後しょんぼりと項垂れてしまった。
その葉を撫でて慰めながら考える。
(ユグドラシルが知らないってことはこのあたりにはないって事か。)
思い悩む拓海の脳裏に黒髪の少女の顔が浮かんだ。
◇
「——【星降シルク】を知っているかって!?」
アラクネの里を訪ね、ツバキに目的の布地の名前を口にした瞬間、拓海の視界が激しく揺れた。
「ひゃっ!?」
ツバキの反応は凄まじかった。
白くしなやかな上半身を乗り出し、頬を朱に染め、その瞳を爛々と輝かせながら、拓海を押し倒さんばかりの勢いで肉薄してきたのだ。巨大な蜘蛛の下半身の脚が、興奮でカサカサと小刻みに揺れている。
「【星降シルク】!! 知っているどころの騒ぎじゃない! アラクネにとって、そのシルクを織り上げることは人生の目標と言っても過言ではないんだ!それほどの奇跡の至高布だぞ! 清流のほとりに棲む『星屑ホタル』たちが、美しさに感動した時にだけ落とすという幻想の結晶……! それを紡ぎ出した絹糸でしか織り上げることができない最上級の布! 満天の星空を切り取って纏うようなあの輝き……ああっ、想像しただけで、もうっ、もうっ!」
捲し立てるようなツバキの熱量に、拓海は圧されまくって引きつった笑いを浮かべることしかできない。
「どうしても……どうしてもアタシに織らせてくれ! どんな条件でも飲む! 頼む、拓海様って拝むから!!」
「あ、ハイ、分かったから顔が近い! 落ち着いてツバキ! もちろん君に頼むつもりで来たんだから!」
拝み倒すツバキをなんとか宥め、拓海たちはさっそく星屑ホタルの生息地である清流へと向かう準備を整えた。
……が、アラクネの里を出ようとしたまさにその時、集落の広場の方から「なんだなんだ!?」と騒がしい怒号が聞こえてきた。
「嫌な予感がする……」
拓海が嫌悪感を全開にしながら駆けつけると、案の定、大胸筋が広場の中央に鎮座する巨大な石像の前で地団駄を踏んで暴れていた。
よく見ればそれは、以前この里を訪れた際に拓海が【神級クラフトスキル】で綺麗に修復してやった、アラクネたちが信仰するご神体であった。
「認めん! 私はこんな貧相な肉体ではなーーーっ!! 筋肉に対する冒涜だ!!」
そう叫ぶや否や、テカテカした大胸筋をご神体に叩きつけ、今にも掴みかからん勢いでかぶりつこうとしている。
(まずいっ!!)
拓海は血の気が引くのを感じた。
アラクネたちが大切に奉っている信仰の象徴を傷つけられたら大問題だというのもあるが——拓海の焦りはそれだけではなかった。
あのご神体が纏っている石のローブの下には、本物には及ばないもののバッキバキに割れたムキムキの筋肉が隠されているのだ。
もし服のパーツが割れて中の筋肉がアラクネたちにバレたら、拓海の立場まで危うくなる!
「ツバキ! アイツを止めてくれ!!」
「任せろ!!」
危機感を共有した二人は即座に動いた。
ツバキが指先から目にも止まらぬ速さで粘着性の強い特製糸を射出! 束になって飛んで行った白糸が、ご神体に飛びかかろうとしていた大胸筋を瞬く間にぐるぐる巻きに縛り上げた。
「ぬおおお!? なんだこの糸は! 私の美しい大胸筋が収縮されて——ぶごっ!?」
最後は口まで頑丈に糸で塞がれ、巨大な白い繭のような物体と化した大胸筋。
拓海とツバキは、溜息を突きながらその極めて重たい『筋肉の塊』の端っこを掴むと、地面を引きずりながらズルズルと音を立ててアラクネの里を後にしたのだった。
「……たく、余計な手間増やしやがって。星屑ホタルのところへ急ぐぞ!」
「ああ! アタシの全霊をかけて絶対に星降シルクを織り上げて見せる!」
ズルズルと引きずられる大胸筋の呻き声を背に受けながら、一行は星屑ホタルが舞う幻想の清流を目指して森の奥へと進んでいく——。




