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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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13/13

最終話「音守の祭り」


 八月十五日。晴れ。


 アイコは午後三時に山に入った。


 石段の下に、見知らぬ自転車が一台停まっていた。誰かがもう来ている。石段を登ると、元大工の老人が本殿の前で木槌を振るっていた。屋台の最後の一台を組んでいる。


「おう、早いね」


「おじいさんのほうが早いですよ」


「年寄りは朝が早いんだ。もう組み終わるから、提灯の準備しといてくれ」


 ケンジは四時に来た。リュックに企画書の最終版と、当日用のチェックリストを入れている。チェックリストは三十二項目あった。


「三十二も確認することある?」


「ある。提灯の点灯確認、屋台の安全点検、非常口の表示、救急箱の配置、ゴミ袋の設置——」


「もういい。全部ケンジに任せる」


「最初からそのつもりだ」


 キミは五時に来た。シズと一緒だった。シズは大きな鍋を抱えていた。


「豚汁作ってきたよ。夜は冷えるからね」


「おばあちゃん、重くなかった?」


「キミちゃんと半分ずつ持ったから大丈夫。それより水は? 飲み水は足りてるかい」


「ケンジが二十リットルのタンクを二つ運び上げてます」


「あの子、よく働くねえ」


 六時。日が傾き始めた。


 提灯に火を入れた。電池式のLEDだが、和紙を通した光は蝋燭と見分けがつかない。赤い提灯が縄に沿って並び、参道を橙色に照らした。


 石灯籠には本物の蝋燭を入れた。マッチで一つずつ火を点ける。十二基の灯籠すべてに火が入ったとき、境内が変わった。昼間見ていた古い神社が、灯りの中で別の顔を見せた。石と木と苔が光を含んで、温かく呼吸しているように見えた。


「きれい」


 アイコが呟いた。


 屋台は三台。一台目はシズの豚汁。二台目はアイコが農協の女性と一緒に準備した綿菓子——機械は農協の倉庫に眠っていた年代物を借りた。三台目はケンジが仕切るかき氷。氷は麓の商店から買い、リュックで二往復して運び上げた。


 りんご飴の屋台は、出さなかった。あれはこの場所のものだから。


 七時。空が暗くなった。


 人が来た。


 最初に来たのは、郵便局員の男性の家族だった。妻と、小学生の息子が二人。息子たちは石段を駆け上がり、提灯を見て歓声を上げた。


「すげー! 本物のお祭りじゃん!」


 次に、集落の老夫婦が来た。チラシを見たという。ゆっくりと石段を登り、拝殿の縁側に腰を下ろして、「懐かしいねえ」と言った。二人とも、この山に神社があることを知らなかった。だが灯籠の火を見て、「昔、どこかで見たことがある気がする」と呟いた。


 八時までに、十七人が来た。


 集落の住民が九人。農協の関係者が三人。バス停のチラシを見て来たという登山愛好家の夫婦が二人。それから、学校の同級生が三人。アイコが教室で話したのを覚えていて、「面白そうだから来た」と。


 十七人。ケンジの「参加者ゼロの場合」は必要なかった。


「繁盛してるね」


「うん」


 アイコは綿菓子を回しながら、境内を見渡した。提灯の光の下で、人が歩いている。笑い声が聞こえる。子供が走り回っている。豚汁の湯気が立ち、かき氷のシロップの甘い匂いがする。


 一年前の祭りを思い出した。


 あの夜の夜店。声のない人々。顔のぼやけた影たち。匂いだけが残ったりんご飴の屋台。


 今夜は違う。ここにいる人たちには声がある。顔がある。名前がある。生きている人間が、生きたまま、この場所に足を運んでくれた。


 それがどれほどのことか。フエは知っている。ソラもツチも知っている。声が消え、顔が消え、影が消えていく恐ろしさを知っている存在だからこそ、生きた人間の声の重さを知っている。


 八時半。ケンジが境内の中央にござを敷き、その上にラジカセを置いた。


「盆踊りの時間だ」


「ラジカセ。令和にラジカセ」


「社務所の奥にあった。カセットテープも一本。再生できた」


「何が入ってるの?」


 ケンジが再生ボタンを押した。


 テープのヒスノイズの向こうから、太鼓の音が流れ出した。


 あの音だった。


 地底湖の奥宮で聞いた、腹に響く太鼓。そして笛。横笛の細い旋律。録音状態は悪く、音が割れている箇所もある。だが間違いない。あの踊りの音だ。


「このテープ——」


「タエさんが録ったんだろう。いつ、どうやって録ったのかは分からない。だがこのテープがここにあった」


 太鼓のリズムが境内に響いた。提灯が揺れた。風はないのに。音の振動が空気を押して、灯りを揺らしている。


 集落の老婦人が立ち上がった。


「あら。この音、知ってる」


「知ってるんですか?」


「知ってる。昔、おばあちゃんが——私のおばあちゃんがね、口ずさんでたの。この節回し。歌詞はなくて、ただ、んーんーって」


 老婦人が体を揺らし始めた。太鼓のリズムに合わせて。踊りとは言えないほど小さな動きだったが、足が拍を踏んでいた。


 別の老人が立った。彼も体を揺らしている。


 子供たちが真似を始めた。大人の動きを見て、足を踏み鳴らし、腕を振っている。でたらめだが、楽しそうだった。笑い声が上がった。


 アイコは綿菓子の機械を離れて、ござの横に立った。自分も体を揺らした。踊り方は知らない。でも、足が覚えている——いや、鈴が覚えている。ポケットの中の赤い鈴が微かに震えて、リズムを体に伝えている。


 キミが踊りの輪に入った。


 彼女は踊れていた。正確に。あの地底湖の踊りと同じ——足を踏み鳴らし、腕を振り上げ、体を捩る動き。激しくはない。穏やかな、今の時代に合わせた柔らかい版。だが骨格は同じだった。千年前の踊りが、十七歳の少女の体を通して、今夜の境内に蘇っている。


 ケンジはござの端に座って、手帳を開いていた。だが書いていなかった。見ていた。踊る人々を。提灯に照らされた境内を。キミの動きを。アイコの笑い顔を。


 手帳を閉じた。


 ポケットから銀の鈴を出した。振った。


 太鼓の音に、鈴の低い音が重なった。一人、二人と、鈴の音に気づいて振り向く。だがすぐに踊りに戻る。音が一つ増えたことを、体が自然に受け入れている。


 アイコも赤い鈴を出した。振った。高い音が加わった。


 キミが踊りながら、金の鈴を振った。深い音が三つ目に重なった。


 三つの鈴の和音が、太鼓と笛に混ざった。


 境内の灯りが、一段明るくなった。


 提灯が、ではない。石灯籠が、でもない。空気そのものが光を帯びたように、境内全体がほんの少しだけ明るくなった。


 踊りの輪の外側に、影が増えた。


 誰にも気づかれないほど自然に。踊る人々の影の間に、別の影が混じっている。人の形をした影。足を踏み鳴らしている影。声はない。顔もない。だが確かに踊っている。


 夜店の人々だった。


 一年前の祭りで、声を失い、顔を失いかけていた人々。彼らが境内に戻ってきていた。生きた人間の声と足音に惹かれて。提灯の灯りに導かれて。


 アイコの目に涙が浮かんだ。


 泣いてる場合じゃない。綿菓子の番をしなきゃ。でも止まらなかった。


 踊りの輪の中央に、光が灯った。


 フエだった。


 光の輪郭ではなかった。


 小さな子供が、そこに立っていた。白い着物。裸足。前髪が額にかかっている。丸い頬。黒い目。三日月みたいに細くなった目。笑っている。笛を持っている。


 フエが笛を吹き始めた。


 テープの笛の音に重なって、もう一本の笛が加わった。生きた音。テープのヒスノイズも音割れもない、澄んだ横笛の旋律。フエの笛。百年以上一人で吹き続けてきた、あの旋律。


 でも今夜は一人じゃない。


 太鼓が鳴っている。人が踊っている。子供が笑っている。老人が体を揺らしている。豚汁の湯気が立ち、綿菓子の甘い匂いが漂い、かき氷のシロップが石畳にこぼれている。


 フエの笛が、喜んでいた。旋律が跳ねている。あの祭りの夜に聞いた寂しい旋律が、今夜は弾んでいる。一人で吹いていた歌が、ようやく大勢の中で鳴っている。


 アイコにしか見えていないのかもしれない。ケンジとキミには見えているだろう。だが他の人には——。


「ねえ、あの子、誰の子?」


 郵便局員の妻が、アイコに訊いた。フエを指して。


 見えていた。


「踊りの輪の真ん中で笛を吹いてる子。上手ねえ。どこの子?」


 アイコは涙を拭いて、笑った。


「この神社の子です」


「あら、ここの宮司さんのお子さん?」


「いえ。この神社の、いちばん古い友達です」


 九時を過ぎた頃、テープが終わった。ラジカセが止まり、太鼓の音が消えた。


 だがフエの笛は続いていた。


 踊りの輪がゆっくりと止まり、人々がフエの笛に耳を傾けた。子供も大人も老人も、黙って聞いていた。


 フエは目を閉じて吹いていた。


 最後の旋律が、夜空に昇っていった。高く、細く、糸のように。鳥居の上を越え、杉の梢を抜け、星に届くように。


 笛が止まった。


 静寂。虫の声だけが残った。


 拍手が起きた。小さな、でも温かい拍手。十七人の手が鳴っている。


 フエが目を開けた。客の前で笛を吹いたのは、何百年ぶりだろう。拍手をもらったのは、もしかしたら初めてかもしれない。


 フエは笛を下ろし、深くお辞儀をした。


 お辞儀をした姿が薄れて、光の粒になって散り始めた。夜が更けて、実体を保つ力が限界に近づいている。でも散る光の粒の一つ一つが、提灯の光よりも明るかった。


「またね」


 フエの声が聞こえた。アイコとケンジとキミにだけ。


「来年も、やろうね」


「やるよ。毎年やる」


「約束」


「約束」


 フエが消えた。光の粒が境内に散り、灯籠の壁に、石畳の目地に、鳥居の柱に染みていった。場所に還っていった。


 石畳が温かかった。灯籠の影が穏やかに揺れていた。ツチとソラも、ここにいた。


 九時半。人々が帰り始めた。石段を下りていく灯りが、蛍のように山道を流れていく。


「楽しかったよ。来年もあるのかい」


「はい。毎年やります」


「そうかい。じゃあ来年は饅頭でも持ってくるよ」


「嬉しいです。ありがとうございます」


 最後の客が帰ったのは十時過ぎだった。


 シズが豚汁の鍋を片づけながら言った。


「いいおまつりだったねえ」


「おばあちゃん、疲れなかった?」


「疲れたよ。でもね、タエばあちゃんがずっと守りたかったものが、今夜ここにあったよ。おばあちゃんにはよく分からないけど、分からなくても分かるんだよ、こういうのは」


 シズが先に下山した。元大工の老人が付き添ってくれた。


 境内に三人だけが残った。


 片づけは明日にしよう、とケンジが言った。彼がそういうことを言うのは珍しい。いつもなら「今日中に原状回復すべきだ」と言うはずだ。


 三人は拝殿の縁側に座った。一年前と同じ場所。提灯の灯りが消え始めている。電池が切れたものから順に。でも石灯籠の蝋燭はまだ燃えていて、境内は柔らかい橙色に包まれている。


「ケンジ。手帳、書かないの」


「書くことが多すぎて、どこから書けばいいか分からない」


「珍しいこともあるね」


「明日書く。今夜は——覚えておくだけでいい」


 二度目だった。ケンジが手帳を閉じたままにするのは。


「キミ。聞こえる?」


「聞こえる。声が。たくさんの声。さっきまでここにいた人たちの声と、ずっと前にここにいた人たちの声が、重なってる」


「楽しそうな声?」


「うん。すごく」


 アイコは空を見上げた。


 星が出ていた。普通の数の、普通の星。あの過剰な星空ではない。でも——一つだけ、妙に明るい星があった。鳥居の真上。橙色に光っている。


 星ではないかもしれない。


 りんご飴の色に似ていた。


 アイコは赤い鈴をポケットから出して、膝の上に置いた。飴のコーティングはほとんど透明になっていて、中の銀色が月の光を返している。


「来年もやろうね」


「ああ」


「うん」


「再来年も。ずっと」


「ずっと」


「ずっと」


 蝋燭が一つ消えた。灯籠が一基暗くなった。でも隣の灯籠はまだ燃えている。消えたところに、誰かがまた火を点ければいい。それだけのことだ。


 それだけのことを、続けていく。


 名前を呼ぶ。場所を掃く。火を灯す。音を鳴らす。人を集める。声を残す。それを繰り返していけば、音守の社は消えない。フエもソラもツチも消えない。声のない人々の影にも、いつか声が戻る日が来るかもしれない。


 百年かかるかもしれない。でもいい。百年前にタエが一人で守ったものを、今は三人で守っている。三人が次の三人に渡し、その三人がまた次の三人に渡す。そうやって続いていく。


 アイコは立ち上がった。


「さ、帰ろう。明日片づけだし」


「ああ」


「うん」


 三人は石段を下りた。二十三段。月明かりに照らされた石段は白く、一段一段の形がはっきり見えた。一年前は苔と落ち葉で埋まっていた石段が。


 鳥居をくぐるとき、アイコは振り返らなかった。


 キミが最初にそう言ったから——ではなく、もう振り返る必要がなかったから。ここは消えない。明日も来る。来週も来る。来年も来る。だから、振り返って確かめなくていい。


 ポケットの中で、三つの鈴がそれぞれの持ち主の歩調に合わせて揺れた。高い音と、低い音と、深い音。三人の足音に混じって、誰にも聞こえないほど小さな和音が、夏の夜の山道を流れていった。


 音守の社は、今夜も鳴っている。



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