後編
それから一ヶ月後、クラウディアは久しぶりに王宮へと足を踏み入れた。
今夜は舞踏会が開かれる予定なのだ。
名目は、「クラウディアとジュリアスの結婚式の正式な日取りを発表する夜会」だとか。
正式な日取りも何も、王族の結婚式だ。そんなものはとっくに公表されているし、付き合いのある諸外国への招待状だって一年前には発送済みだ。
もっとも、それに関しては無駄になるが。
いずれにしても、王家がただ自身の威光を示すためだけに開かれる無駄なパーティーというわけである。そして参加する貴族たちももちろん、そのことは重々承知していて、一部の家は苦々しく思っているようだが、正面切って王家と敵対するわけにもいかないため粛々と参加しているのが現状だ。
そういえば、急に体調を崩したことにしてあの日以来の婚約者の元へは訪れていないのだけれど、あちらはまるで疑いを持った様子もなかった。
なめられたものだ。まったくもって腹立たしい。
舌打ちしたい気分で、クラウディアはひとり勝手知ったる城内を大広間へと向かって歩いた。
正気を保って周囲に目を遣れば、どこもかしこも悪趣味なほどに飾り立てられているのはいつも通り。ただ、そこここに立つ警備兵に、今日は見知った顔が多い。
クラウディアの視線に、さり気なく、だが友好的な目礼を返してくる彼らは、ブール家の私兵たちだ。
なにをどう手を回したのか、父の采配である。
派手なだけで悪趣味極まりない装飾のあれこれに、いい加減目が痛くなりそうだと思いながら回廊に足を踏み入れたところで、予想通りの人物たちと鉢合わせた。
中央を歩くのはジュリアスで、その傍らにはひらひらしたドレスを纏ったピンクブロンドの令嬢が。そして、彼らを取り囲むようにして『殿下のご学友』である子息たちが四人。
「あら、クラウディア様。ごきげんよう、まさかおひとりでいらしたの?」
真っ先に口を開いたのは、ジュリアスの腕にべったりと貼りついている令嬢だった。
ステラ・パルモア。ここ半年ばかりジュリアスが気に入ってそばにおいている子爵家の令嬢だ。たしかに愛らしい顔をしているし、そのわりにメリハリのある体型をしているから、いかにも下半身の緩いジュリアスが気に入りそうな令嬢ではある。
「それにしても今日は随分と地味なドレスをお召しなのね。ジュリアス様が私に贈ってくださったこのドレスに比べたら、まるで侍女のようだわ」
そもそも、爵位の低い者から先に声をかけるのは失礼にあたる。
それに加えてのこの物言いは、あり得ない。
あちらは子爵家、こちらは公爵家だ。
けれど自分はそれが許される立場だと思い上がっているのだろう。どうせ飽きたらすぐに捨てられる、より取り見取りの女のひとりにすぎないのに気の毒なことだ。
耳障りな甘ったるい声に反射的に眉を顰めそうになって、クラウディアは気力で無表情を取り繕った。
「ステラ、やめてあげなさい。彼女はこれでも私の婚約者だよ。愛されない惨めな女なのだから、少しは優しくしてやらなければ」
これみよがしにステラの腰を抱きながら、ジュリアスが勝ち誇った顔で顎をあげる。
サラサラの金髪に、甘く整った顔立ち。見目だけならば誰もが振り返るほどに麗しく、怠惰な性格すらも物憂げな雰囲気を醸し出し、彼の魅力を増している。
かつての自分がその無駄に美しい顔を見るたびに頬を染めていたことを思い出すと、今更ながらに背筋がぞわっと粟立ってしまう。
「まあ殿下ったら。そんなことを言ってはお気の毒だわ。愛されない、だなんて」
「仕方がないだろう、私はステラに夢中なんだ。勝手に決められた婚約者の座にしがみついて離れない女など、一欠片の愛も与えるに値しないと思わないか?」
「そうなの? 殿下は私に夢中なの?」
「そうとも。君に初めて会った日からね。ステラ、美しい私の星よ」
「まあ嬉しい!」
ジュリアスも、彼らを囲む取り巻きの子息たちも、ニヤニヤと面白がるようにこちらを見つめている。
控え目に言って、大層気持ちが悪い。
醒めた眼で彼らを見つめながら、クラウディアは「なるほどね」と胸のうちで呟いた。
魅了魔法が効いている間は、ここできっと顔を真っ赤にして逆上し、金切り声で「この泥棒猫! 殿下から離れなさいよッ!」とでも叫んでいただろう。
舞踏会の開始まで間もなく。この回廊を通る者は多い。
敢えてそういう場を選んで、クラウディアを貶めるつもりなのだ。
やってくれるじゃないか。
「ふふ」
思わずこぼれた笑みに、彼らが胡乱な目を向ける。
「なんだ、何がおかしい?」
「いいえ、別に。けれど……ええ、とってもお似合いですわ、ステラ様。殿下の素晴らしい『ご趣味』にぴったりな可愛らしいドレスですこと。では、わたくしはこれで」
華麗にカーテシーをして、クラウディアは彼らの横をすり抜けた。
「は……? な、おい、クラウディア!」
「え、なに? なによ今の態度……⁈」
背後からの間抜けな声を背中に浴びながら、クラウディアは振り返ることなく前だけを見て歩き続けた。
傍目には優雅な微笑を崩さず歩いているように見えている。
けれどクラウディアをよく知る者なら気づいたはずだ。その双眸に激しい怒りの炎が燃えていることに。
そのまま大広間へとやってきたクラウディアは、胸を張って堂々と入場した。
エスコートは敢えて頼まず、ひとりで参加することを選んだ。
リーベルトは最後まで心配していたが、そんなことくらいで怯むクラウディアではない。
それに、ぐるりとホールを見渡してみれば、わかる。
さり気なく目を合わせ、立ち位置を変えていく上位貴族の家が、おそらく半数以上といったところ。
こちらに奇異の目を向けてきたり、ひそひそと囁きを交わしているのは子爵家や男爵家といった下位貴族が大多数だ。
これまた何をどうやったのか、ブール家サイドからの根回しが行き渡っている証左である。自分の父親ながら、敵に回したら心底恐ろしい相手だろうと思う。
誰にも話しかけることなく、誰からも話しかけられることもなく。参加者たちの入場が完了すると、舞踏会の開催が宣言された。
やがて、王家の入場が告げられる。
儀仗兵によって開かれた扉から入場してくる面々は、皆、笑顔だ。
いつの間にかゴージャス度が増している王冠を頭上に戴く王と、これでもかと宝石を縫い付けた重そうなドレスを纏った王妃が先に、次いで、王太子であるジュリアスがステラと共にホールへと入場してくる。
お忘れかもしれないが、本日の名目は「クラウディアとジュリアスの結婚式の正式な日取りを発表する夜会」だ。
それなのにエスコートしているのは別の令嬢なのだから、馬鹿にするにも程がある。
クラウディアの頬に、くっきりと笑みが浮かんだ。
必死に平静を装うが、抑えきれない怒りがふつふつと湧き上がってくる。
この場にレオンがいたら、さすが親子、そっくりだなと苦笑したに違いない。少し前に娘であるクラウディアが最上級の危険度と称したリーベルトの笑みと、今、クラウディアの顔に貼りついている笑みはまるきり同じだった。
「皆のもの、よく集まってくれた。本日はめでたい報せがある。クラウディア・ブール令嬢、ここへ!」
夜会の開催を宣言した国王の声に、クラウディアはまっすぐ顔を上げた。
「はい、陛下」
壇上のジュリアスとぱちりと目が合った瞬間、彼の肩がびくりと揺れる。
先ほどのクラウディアの態度が予想通りでなかったことから、何かを察したのかもしれない。微かに顔を引き攣らせている。
けれど、腕にへばりついたステラを引き剥がすつもりはなさそうだ。
あからさまに不満そうな顔でこちらを睨みつけてくるステラと、いくらかたじろいだ様子のジュリアス、それに下卑た笑みを隠さない国王夫妻。それぞれの顔を順に正面から見つめて、クラウディアはことさらゆったりとした歩調で壇上へと足を進めた。
「クラウディアよ。そなたと王太子・ジュリアスの結婚も近い。これはブール公爵家と王家の絆をより強固にするための誓約書だ。ここにサインを」
音楽を止めさせた国王が仰々しく差し出してきたのは、一枚の羊皮紙だった。
そこには『ブール公爵家の全資産の管理権を、王家に無償で譲渡する』と記されている。
クラウディアは笑みを深めた。
「まあ素敵な誓約書ですわね。喜んでサインさせていただきますけれど、その前にひとつだけお伺いしても?」
「うむ、なんだ?」
「そちらのステラ・パルモア子爵令嬢は、何故、今この場にいらっしゃるのでしょう?」
「ジュリアス」
国王が顎をしゃくり、答えるように促す。
一瞬だけ躊躇ったが、腕を引くステラに押し切られる形でジュリアスが口を開いた。
「後ほどもう一点めでたい発表をする予定だった。順序が狂ったが、先に告げておこう。ここにいるステラ・パルモア子爵令嬢を私の第二妃として迎えることになった。皆、祝ってくれ!」
明るいジュリアスの声とは裏腹に、広間には戸惑ったような沈黙が流れた。
しばらくしてパラパラとまばらな拍手が起こるが、すぐに静まってしまう。
当然だろう。この場で第二妃の発表をする異常さに気づかぬ者はいない。
いや、気づいていない者もいる。当人たちだ。
得意げな顔をしたステラだったが、思った通りの反応が得られなかったせいでまたしても不満気にジュリアスの腕を引っ張っている。
王と王妃も同じく。
ジュリアスだけは少しばかり焦っているようで、おろおろと目線を彷徨わせながら額にじわりと汗を浮かべた。
「わかりました。では陛下、そちらへサインをいたしましょう」
「う、うむ。全資産の管理権を王家に無償で譲渡してもらう。これにより、王家とブール家との絆は更に強固なものになるだろう」
ご丁寧に誓約書の内容を読み上げたせいで、広間の貴族たちの間にざわめきが起こる。
あまりにも一方的で強欲な内容に、皆が唖然としているのだ。
クラウディアは依然としてくっきりと笑みを浮かべたまま、平然と誓約書を受け取った。
そして、胸元から一本のペンを取り出した。
「大事な誓約書ですから、わたくしの一番気に入りのペンで記入させていただきますわね」
「なんでも構わん。さっさとサインせよ」
横柄に言い放った国王へ向かって、クラウディアは渾身のカーテシーを披露した。
「ふふ、かしこまりました陛下」
ひときわ艶やかに微笑むクラウディアに、ハッと皆が息を呑む。
クラウディアは公爵令嬢なのだ。王家と同等のマナー教育を受け、王太子の婚約者となってからは王妃教育もきちんと真面目に受けてきた。
私利私欲に駆られた怠惰な王家の誰よりも、クラウディアの纏うオーラは圧倒的だった。
しかし、愚かな者たちは、とことん愚かなもので。
さらさらと美しい文字でクラウディアが署名を済ませ、誓約書を返すと途端に高らかな笑い声をあげた。
「おーっほっほ! これで王家も安泰ね! ブール公爵も、娘を人質に取られては言うことを聞くしかないでしょう」
「まったくだ。チョロいものだな!」
その瞬間だ。
パチン、と。
クラウディアは乾いた音を立て、手にしていたペンを折った。
口の端に冷ややかな笑みを浮かべて。
「まあ奇遇ですこと。わたくしも今、同じことを考えておりましてよ。愚かな王家の皆さまは、思っていた通りに考えが浅くていらっしゃる。『チョロいもの』だわ、と」
「なんだと? 不敬だぞ、小娘が!」
国王が不快そうに顔を歪めたとき、広間のどこからか朗々とした声が響いた。
「なんと、陛下は今、我が娘を侮辱されましたかな? 我が最愛の娘を。小娘、と聞こえた気がしたのですがね」
自然と割れた人垣の中から、悠々とリーベルトが進み出てくる。
「ふん、それがどうした! 貴様も不敬だぞ、公爵。そうだ、この罪を持ってブール家は取り潰しとする! 衛兵、引っ立てよ!」
国王が声を張り上げるが、会場に控える兵たちの誰ひとりとして動かない。
「なんだ? どうした、衛兵!」
尚も動かない兵に、国王のこめかみに青筋が浮かんだ。
「おい! おぬしら、王の命に従えんのか⁈」
「まあまあ陛下。そう喚かなくても聞こえておりましょう。ただね、残念ながら近衛兵というのは、国に忠実なんですよ。だからあなたの命令は聞けない」
「は……?」
「なんだと? どういうことだ……?」
飄々とした口ぶりで、リーベルトが誓約書を示した。
「おや、まだご覧になっていないので?」
「なに……?」
怪訝な面持ちで手にしている羊皮紙に目を落とした国王の顔色がサッと変わる。
「な、なんだこれは⁈」
全財産の譲渡と書かれていたはずの紙面には、真っ赤な文字で別の文言が並んでいる。
一、王家はブール公爵令嬢に対し、七年間にわたり違法な魅了魔法を行使したことを認める。
二、慰謝料として、王家の直轄領すべての権利をブール家に譲渡する。
三、現国王および王太子は、本書面の締結と共に退位となる。
四、王家及び違法な魔法の行使に関わった者たちの身柄は国際司法局へ引き渡される。
「な……どういうことだ⁈ 文字が書き換わっている、だと……⁈」
「なんなの、このふざけた内容は⁈」
わなわなと震える王の横から覗き込んだ王妃も書類を読み、悲鳴を上げた。
「ふざけているのは、どちらかな」
すると、その声にかぶせるようにして冷たい男の声が広間の奥から届く。
レオンだ。
筆頭魔導師を示す正装に身を包み、司法局の兵を引き連れて前へとやってくる。
身軽に壇上へ飛び乗ったその胸には、隣国の王族を示す紋章が輝いていた。
「な、おまえは……」
「やあ、ジュリアス。久しいな。相変わらず軽薄そうな顔をしてるじゃないか」
あまりに直球の嫌味にジュリアスが言葉を失ったところへ、すかさずレオンが兵に命じる。
「ベル・メリル王国第二王子レオンハルト・ディオ・ベル・メリルが命じる。罪人を拘束せよ!」
「きゃあっ!」
「な、なに……⁈」
「やめろ、無効だ! こんな誓約書など無効だ!」
兵の拘束を逃れながら、国王が羊皮紙を破り捨てようとする。
クラウディアは扇を取り出して優雅に仰ぎながら、その様子を鼻で嗤った。
「まあ陛下、それはできませんでしょう? だって、王家の『絶対の誓約印』がすでに発動しておりますもの。陛下ご自身がご用意されたのですわよね? ご丁寧に、王族全員の魔力承認印まで押してあるではありませんか」
「あ……っ、こ、これは……」
完全なる自業自得。ブール家の資産を確実に手に入れるため、あろうことか彼らは誓約書に強固な〝保険〟をかけていたのだ。
それが既に発動している以上、書面の内容を覆すことはできない。
ただし、署名者であるクラウディアの承認があれば話は別であるが。
「い、今すぐ破棄せよ! こんなもの……こんなもの……っ、王を騙しおって、ただで済むと思うなよ小娘がッ!」
「うるさい口だな。塞いでしまえ」
「む、むぐ……ッ!」
レオンの命で王を拘束し直した兵が、魔法で口を塞ぐ。
「連れて行け!」
壇上から兵に引きずり降ろされながら、往生際悪く振り向いたジュリアスが引き攣った顔でクラウディアを見上げてきた。
暴れるせいで髪が乱れ、止まらぬ汗のせいで麗しい見目も台無しである。
「ま、待て……待ってくれ、クラウディア! わ、私は、本当は君のことを、あ、愛していたんだ。私が愛しているのはきみだけなんだ! ただ、素直になれなくて――」
パチン、と音を立てて扇を閉じたクラウディアは、ジュリアスの言葉を冷たく遮った。
「あら殿下、お生憎ですこと。わたくし、浮気性の婚約者のことなんてちっとも好きじゃなかったわ」
「そ、そんな浮気なんて……ちょっときみの愛を試したかっただけで……あ、待て!」
「監獄の奥で、どうぞ別の方と愛を育まれてくださいね。元・殿下。ごきげんよう」
「頼む、クラウディア! すまなかった、謝るから! クラウディアァァァーーーー…………」
兵に連れられ、尾を引いて小さくなっていくジュリアスの声に、クラウディアはやれやれと嘆息した。
「なんだあれは、見苦しいにも程があるぞ」
呆れた様子でレオンが呟き、リーベルトがパンパンと手を叩いて会場の注目を集めた。
「今後のことについては、近日中に議会を招集する。それまでの国内の平定については、隣国ベル・メリル王国の力を借りることとなった。以上だ。さあ、泥棒たちの宴はここでお開きとしよう!」
各々顔を見合わせながらも集まっていた貴族たちが出口へと向かうなか、クラウディアはふわりと手を引かれた。
「主役はそろそろ退散するとしよう。後の面倒くさい手続きは叔父上に任せておけばいい」
「え、レオ兄さま? 待って、ちょっとどこに……」
「こっちだ。少し休もう」
強引に、けれど優しく、クラウディアは人気のないバルコニーへと連れ出された。
ひんやりした夜気が心地よく肌を撫で、先ほどまでの熱気と喧騒が嘘のように静寂が満ちている。
「まあ、いい風ね」
「ああ。気を張っていて、疲れただろう」
中庭に面したバルコニーからは、煌びやかな城内とは対照的に、淡い照明のみで仄かに照らされたトピアリーが影絵のように浮き上がってみえた。
「よくがんばったな、クラウディア」
七年にも及ぶ長い時間の呪縛から解き放たれて、燃えるような怒りを正しく相手へとお返ししたら、急に肩の力が抜けた気がする。
「ありがとう、レオ兄さま」
深々と息を吐くと、不意に背後から温かな腕にすっぽりと包み込まれた。
「今夜のきみは、最高に美しくて、最高に格好良かった」
「ちょっと、そんなところで囁かれたらくすぐったいわ」
耳元にかかる吐息に、クラウディアは首を竦めて身を捩った。
「動かないで。少しだけ、このままで」
「レオ兄さま……?」
クラウディアの肩口に顔を埋めながら囁くレオンの声は低く掠れていて、なんだかいつもと違って聞こえる。
「ほんとうに……ほんとうによかった。きみを取り戻せて」
まるで泣いているみたいに弱々しい声は、常に自信満々で、傲岸不遜で、クラウディアをからかっては口の端に皮肉な笑みを刻んでいる普段のレオンとは全然違う。
「あの……そうだわ、レオ兄さま。まだちゃんとお礼を言っていなかったわよね。ありがとう、全部レオ兄さまのおかげよ」
妙に気恥ずかしくなって、クラウディアは口早にそう言った。
実際、すべてレオンのおかげと言っても過言ではない。
クラウディアの魔法を解いてくれたのも、王家の誓約書を書き換えることができたのも、レオンが発明した『妖精のインク』のおかげだ。
ペンを折ると同時に、誓約書の内容が予め仕込んだ通りの文言に書き換わる魔法が発動するよう仕掛けてあった。あんな魔法はレオン以外には作れない。
「レオ兄さまがいなかったら、わたくしはこの先もずっと王家の思うがままに操られてしまっていたもの」
「そんなことはさせない! 絶対にだ。クラウディアのことは、俺が絶対に守ってみせる!」
強い口調で言い切ったレオンの体温がドレス越しにじんわりと伝わってくる。
そう意識した途端、何故だかクラウディアの心臓がトクンと大きく跳ねた。
「あ、あのレオ兄さま――」
「レオンだ」
「え?」
「兄さま、はいらない。クラウディア。ずっと……ずっと、そう言いたかった」
「え、と……」
開きかけた唇を、レオンが指先でそっと押さえる。
「少し黙って、聞いてくれ」
クラウディアは口を噤み、ぎこちなく頷いた。
今まで感じたことがないくらい、胸の鼓動が早鐘を打っている。思わず、手にしていた扇をぎゅっと両手で握り込んだ。
「きみが変わってしまった、歪められてしまったと気づいたあのときは愕然としたが、それでも『よかった』と思ってしまった。きみがジュリアスを慕う気持ちが本物ではない可能性を見つけて、俺は喜んでしまった」
まるで独り言のように呟かれるレオンの掠れた声が、ぽろぽろとクラウディアの胸元へこぼれ落ちてゆく。
「魔法が使われていることはわかった。だが、解呪の方法が見つからなかった。どうすればいいのかわからないまま、時間だけが過ぎて……その間も、苦しくて堪らなかったよ。他の男を熱の籠もった目で見つめ、愛してると叫ぶきみを見る度に、身を引き裂かれそうになるほど苦しかった。それと同時に、誇り高いきみが無残に踏みつけられるのを見て、何度も腸が煮えくりかえりそうな思いをした」
深く息を吐いたレオンの、クラウディアを抱きしめる腕に力がこもる。
絶対に離すものかと主張しているかのようで、それでいて逃げられないほどの強さではない。それはまるで、レオンの迷いを示しているみたいだった。
「……情けない話だ。魔力の強さも能力も、散々持て囃されてきたのにどうすることもできないんだから。たったひとりの大切な相手を救い出すことすらできず、そのくせ彼女が俺ではない男に愛を乞う姿に嫉妬するなんてな。情けなすぎて、そんな自分がほとほといやになったよ」
自嘲するように低くこぼされた言葉に、けれどクラウディアは息を呑んだ。
ずっと頼りになる兄みたいだと思っていた。
幼い頃はからかわれるのが悔しくて、泣いたこともある。
それでもレオンのことはずっと大好きだった。実の兄と同じくらいに、慕ってもいた。
それなのに。
これではまるで、レオンはクラウディアのことを……。
「ずっと怖かったんだ。解呪が成功しなかったらどうしようか。成功したとしても、きみの心が壊れてしまっていたらどうしようか。そして、無事だったとしても、元に戻ったきみが七年もの間助けられなかった俺を恨むんじゃないか。考えれば考えるほど、怖くて堪らなくなった」
ハッ、と吐き出すようにレオンが乾いた笑いをこぼした。
「情けないだろ? ほんとうの俺は、弱くて、どうしようもないやつなんだよ。だが、そんな風になるのは、クラウディア。きみに関することだけだ。……好きなんだ。クラウディア、きみが好きだ」
カッと頬に血が上ったのがわかった。
たぶん今のクラウディアは、耳まで真っ赤に染まっているに違いない。
いつになく弱々しいレオンの声に胸がきゅっと締めつけられるのと同時に、得体の知れない熱が身体の底から湧き上がってくるのを感じた。
「こんなところで言うつもりはなかったんだが……意気地がなくて、すまない。顔を見て口にする勇気が出なかった」
「…………」
なにか言わなくてはと思うのに、上手く声が出ない。
ドキドキと高鳴る胸の音だけがうるさく耳の奥で木霊する。
「いや、さすがに格好悪すぎるな」
クラウディアがただはくはくと唇を震わせている間に、苦笑した気配と共に肩口にあった温もりがすっと離れた。
ゆっくりと体を反転させられると、深い海の色をしたレオンの瞳と真正面からぶつかる。
「クラウディア、愛してる。七年前から……いや、もっとずっと前からだ」
背後から届くホールの灯りの欠片が反射して、時おりレオンの瞳がきらりと光る。
まっすぐに向けられた視線に宿るのは、凶暴なまでの熱情で。
妹や、幼馴染に向けられる親愛のこもったそれとはまったく違う。
紛れもなく、ひとりの女性としてクラウディアを見つめている、情熱のこもった男の眼差しだった。
「もう二度と誰にも渡したくない。きみの隣に立つのは、きみを守るのは、他の誰でもないこの俺だ。俺以外には絶対に譲らない」
レオンの大きな手が、クラウディアの頬をそっと包み込む。
乾いた親指が目尻を優しく撫でる。そのひどく甘やかな感触に、クラウディアはなぜか泣きそうになった。
「卑怯な魔法に頼るつもりはない。きみ自身の言葉で答えてほしい。――クラウディア、愛してる。どうか俺を選んでくれ」
揺れる瞳の奥に、懇願の色が滲む。
クラウディアは、ふふ、と小さく笑った。
なんだか無性に切なくて、それ以上に喜びが込み上げてきて。
「レオ兄さま……いいえ、レオン」
七年だ。時間をかけて子どもから大人へと成長していくその期間に偽りの恋心を植えつけられて、おかげでクラウディアはまだ本物の恋も愛も知らない。
だけど今、クラウディアの胸の奥で何かが勢いよく芽吹く予感がしている。
「ずっと見守ってきてくれて、ありがとう。大好きよ」
~Fin.~
短編の予定だったのに間違えて連載にしてしまいました……。
ので、前後編に分けました。
全2話完結です。すみません!




