前編
パチン!
と小さく泡が弾けたような音がした。
他の誰にも聞こえない、クラウディアの頭の中だけで響いた音だ。
「あら、いやだ」
とてもささやかな音だったのに、クラウディアの受けた衝撃はなかなかのもので。
思わず声に出てしまったけれど、つと足を止め、瞬きをひとつ。
「せっかく殿下への贈り物を用意していたのに、忘れてきてしまったわ」
咄嗟に漏れた呟きを別の意味へとすり替えたクラウディアは、その場でくるりと踵を返した。
「わたくしったら、うっかりしてしまって。今日はこのまま失礼するわね」
小さな呟きを聞き咎めて振り向いた侍従に問われる前にと、クラウディアは眉尻を下げて微笑んでみせる。
ここは宮殿の王太子宮で、今は馬車を降り、迎えの侍従について王太子の私室へ案内されているところ。ちょうど二本目の廊下を曲がりかけたところだった。
今はまだ、クラウディアの身に起きた変化に気づかれるわけにはいかない。
「よろしいのですか?」
「ええ。殿下のところへは贈り物を持って……そうね、明日にでも、また」
「かしこまりました」
小さく弾けた泡音への衝撃も混乱も内心の動揺も、表には一切出ていなかったはずだ。
すぐさま進路を変えた侍従に、不審がる様子はない。静かに、けれどキビキビと先に立って車寄せへと歩いていく。
王城に勤めるに相応しいだけの清潔さと礼節を身につけたこの侍従の顔に見覚えはなかった。
というよりも、この宮に勤める者たちの誰の顔も名前もクラウディアは知らない。
仮にも、宮の主である王太子の婚約者という身分であるのに。
おかしなことだ。
クラウディアは、自身の生家であるブール公爵家に仕える者の顔と名前はすべて把握している。領地の者も、王都のタウンハウスの者も。さすがにお抱え騎士団の一人ひとりまでは覚えきれないけれど、少なくとも屋敷で働く者たちのことは下男や下女までしっかり記憶している。
それなのに、この宮に仕える者は誰ひとり記憶にないというのは、妙なことだ。
――と、今やっと思い至った。
「ねえ?」
クラウディアは、前を行く姿勢の良い背中へと声をかけた。
「お会いせずに帰ったことを、ジュリアス殿下には内緒にしてくださる?」
「かしこまりました」
「サプライズにしたいから、贈り物のこともね」
「もちろんでございます。ブール公爵令嬢からのサプライズとあれば、きっと殿下もお喜びになられることでしょう」
ちらりと振り向いた侍従は、にこやかに肯いた。
「そうだといいのだけれど。ありがとう」
「もったいないことです」
慇懃に応じながらも、こちらのペースに合わせて足を止めることのない侍従は終始感じがよく、とても優秀そうだ。これといって特徴のない顔立ちは、王太子宮の雰囲気によく溶け込んでいて、年齢は中年に差し掛かる一歩手前くらいだろうか。となれば、そこそこのベテランだろう。
果たして彼は、敵か、味方か。
(まあ敵でしょうね。だって馬車止めにパルモア家の馬車が停まっていたもの。)
ピンと伸びた背中を眺めつつ、クラウディアは胸の内で独り言ちる。
パルモアは子爵家だが、クラウディアより一歳下のステラという令嬢がいる。花のように愛らしく無邪気な雰囲気の彼女は、現在、婚約者の一番のお気に入りだ。
平たく言えば、浮気相手である。
そんな相手を侍らせているところへ堂々とクラウディアを案内するのだから、まあお察しだろう。
(浮気なんて、今さらどうでもいいわ。こんなことも一度や二度ではないのだし。そんなことより、早く帰ってお父さまにお会いしなくては。)
厄介なことだ。
厄介だけれど、『今』でよかったとも言える。
あと半年も後だったら間に合わなくなるところだった。
何に、って?
結婚式に、だ。クラウディアの。
クラウディア・ブールはこの国に七家ある公爵家のうち、序列第三位のブール家に生まれた。
兄がひとりと、弟がひとり。
幸いにして家格はそこそこ上のほうなものだから、先々代の当主が〝中立派〟を明言したこともあって、この二代ほどは貴族間の政争からは離れていられた。
他家はそれなりに競っているし、王家派と貴族派の間でもあれこれと思惑が行き来しているらしいが、ブール家からしてみたら、どちらもわりと他人事だった。
必要がないものだから政略結婚にも縁がなく、二代続けて恋愛結婚をして。おかげさまで家族は皆仲良く、のんびりのほほんと領地の経営にだけ精を出して暮らしていた。
そのブール家が少しおかしくなったのは、クラウディアが王太子であるジュリアス・アヴァリエと結婚したいと言い張って譲らなくなってからだ。
今から七年前、クラウディアが八歳のときのこと。
『わたくしはジュリアスさまと結婚するのです! 絶対に、絶対に、するのです!』
見目だけなら麗しかったけれど、中身があまりに怠惰で軽薄すぎると当時から評判の悪かったジュリアスが相手であることに、周囲は皆難色を示した。
そんななかで小さな淑女としては大層はしたないことに、地団太を踏んでそう主張した日のことをクラウディアは生憎、しっかりはっきり憶えている。
「黒歴史だわ……」
ため息交じりに呟いたクラウディアに、家令のトマスが振り向いて言った。
「残念なことに、私どももあの時のことははっきり憶えておりますしね」
「追い打ちをかけないでちょうだい、意地悪ね」
「ほっほっほ、これは失礼」
「もう、トマスってば!」
王城からブール家のタウンハウスまでは、三十分とかからない。出かけたかと思えばあっという間に戻ってきたクラウディアに使用人たちは戸惑っていたが、いち早く異変を察知したデキる家令が即座に父との面会の時間を取りつけてくれた。
そのトマスに呼ばれ、今は共に父である公爵家当主の執務室へ向かっているところである。
「旦那さま、よろしいでしょうか?」
「ああ。入れ」
父の声を合図に、トマスがドアを開けてくれる。
「どうぞ、お嬢さま」
「ありがとう。ねえトマス、あなたも一緒に聞いてちょうだい」
「かしこまりました、では失礼して」
先に部屋に入ったクラウディアは、ツカツカと大股で執務机まで歩み寄る。
「やあ、愛しの我が娘よ。よく来てくれたね、会いたかったよ! こんな時間に、珍し――」
「大袈裟よ、お父さま。今朝もお会いしたばかりじゃない」
仕事中だというのに急に押しかけてきた娘に怒ることもなく微笑む父の言葉を途中で遮り、クラウディアはデスクの前に仁王立ちになった。
「そんなことより、お父さま! ねえ、黒よ。真っ黒だったわ!」
「うん? なにが黒だって?」
ソファに移ろうと腰を上げかけていた父、リーベルトが中途半端な姿勢のままきょとんと瞬いた。
「ジュリアス殿下よ。いえ、もしかしたらアヴァリエ王家自体が、かもしれないわね」
「えーと、クラウディア? なんかきみ、怒ってる?」
きょとんとしたままの父に言われ、クラウディアはハッと目を見開いた。
「ええ! ――ええ、そうね! お父さま、わたくし怒っているのだわ!」
「あ、うん。だよね」
わかったわかった、と軽く頷いて、机を回り込んできたリーベルトがクラウディアの肩をぽんぽんと叩く。
「まあまあ、座って座って。トマス、お茶ね」
「……ごめんなさい、お父さま。急に押しかけてきたのに、いきなり騒いだりして」
マイペースな父に毒気を抜かれて、クラウディアはふっと小さく息を吐いた。
そして勧められた通り、リーベルトに向かい合う形でソファに腰を下ろす。
「いやあ、久しぶりに本物のクラウディアに会えた気がするね」
「あら、どういうこと?」
「殿下の婚約者になってからのきみは、まあ苛烈なところはそのまんまだったけど」
「ちょっと、お父さま⁈」
眉を上げたクラウディアに、リーベルトはのほほんと笑う。
「あはは! ほら、そうやってすぐ怒る。だけど、いいんだ。それはそれで、ぼくの可愛いクラウディアだからね」
「さようでございますね、旦那さま」
音もなくテーブルの上に茶器をセットしながら、トマスがうんうんと頷く。
「ね。そういうところは妻にそっくりで、それはそれで可愛いんだ」
「ほっほっほ、旦那さまは奥さまのこともお嬢さまのことも溺愛しておられますからな。微笑ましゅうございます」
「うんうん、そうだろう?」
クラウディアはマイペース二乗の男性陣が盛り上がるのを、片眉を上げながら見守った。
自然と口元もへの字になる。
「まあ、それはそれでいいんだけどね」
満足そうに笑みを深めた父が、こちらを見る。
「殿下の婚約者になりたいってジタバタした時から、なんというか捻じ曲がった強さとでも言うかね。家ではいつものクラウディアなんだけど、外で目にするきみは妙に傲慢な淑女になっちゃってたから。ちょっと心配してたんだよね」
「うぐ……」
心当たりがありすぎて、クラウディアは思わずぐっと詰まった。
そこにすかさずトマスが追い打ちをかけてくる。
「さようでございますね、旦那さま。それはそれはもう、まるで悪役令嬢のようで」
「うんうん、そうそう」
「たとえば『あなた、誰に向かって口を利いているの⁈』だなんて、お嬢さまのおっしゃるお言葉とは思えませんで」
ほっほ、とトマスが笑う。
続けて父も。
「ね、心配しちゃったよね」
「ええ、ええ。ほんとうに」
「やめてトマス……お父さまも、もう許して……」
黒歴史どころの騒ぎじゃない。
クラウディアは思わず両手で顔を覆った。
「あはは! いいね、そんな過去の自分を恥じることができるクラウディアは、やっぱりいい子だ。ぼくの自慢の娘だね」
「お父さまぁ」
泣きそうだ。
とりあえず、ほんとうに恥ずかしすぎて。
「で、その変貌っぷりには、昨日やってきたレオンくんと何か関係があるのかな?」
マイペースだし少々行き過ぎた家族愛の持ち主ではあるが、さすがリーベルトは鋭い。
気を取り直して、クラウディアは姿勢を正した。
「ええ、そうなの! 実はね、昨日レオ兄さまがいらしたのは、わたくしに魔法をかけるためだったのですって。――いえ、違うわね。わたくしにかけられた魔法を解くため、と言ったほうが正しいのかしら」
「ほう? それはなかなか愉快な話になりそうだね」
リーベルトが興味深そうに顎をさする。
と、屋敷の表に魔力の揺らぎを感じた。
「おや、噂をすれば」
「レオ兄さまね」
魔力の強い者には、特有の波動がある。それを感じ取ったふたりが顔を上げると同時に、トマスがドアへと向かった。
「確認してまいります」
「頼むよ」
しばらくして、ノックの音と共にトマスの声がする。リーベルトが許可を出し、開いた扉から入ってきたのは、やはり予想通りの人物だった。
曇りのないシルバーブロンドに、深い海の色をした瞳。端正な顔立ちには生まれながらの気品が滲んでいるが、その眼つきにはどこか野性的な鋭さが宿っている。
レオンハルト・ディオ・ベル・メリル。隣国の筆頭魔導師だ。
「クラウディア!」
入室してくるやいなや、立ち上がって迎えようとしたリーベルトには目もくれず一直線にクラウディアの元へやってくると、レオンは躊躇なくその場に片膝をついた。
「ああ、クラウディア。よかった、その顔は元のクラウディアだ」
片手でクラウディアの手を取り、もう一方の手を頬に伸ばしてくる。なにかを確かめるようにクラウディアの頬を撫でると、鋭い瞳が柔らかく細められた。
「まあ、見ただけでわかるの?」
「当然だろう! どれだけ長い間きみのことを見ていたと思ってるんだ」
ぎゅっと握った手を押し頂くようにして、レオンが深く、長い息を吐いた。
「よかった……」
まるで何年も止めていた呼吸を再開したかのように深く息を吐くレオンの手が微かに震えていて、クラウディアは当惑した。
「ああ、本当によかった……間に合って」
「レオ兄さま?」
「七年だ。君が君でなくなってしまってから、長かった」
「それは……」
「あー、えへん、おほん」
何と言っていいかわからず口ごもるクラウディアの背後から、不意にわざとらしい咳払いが割り込んできた。
リーベルトだ。
「その、な、レオンくん。ぼくのこの手が行き場を失くしているんだが、握手の機会はいつ頃やってくるだろうかね?」
振り向いてみると、片手をずいと前に突き出した格好でリーベルトが仁王立ちしている。
そして、差し出していないほうの手で何かを振り払う仕草をした。
「……?」
首を傾げるクラウディアとは違って、レオンには意味がわかったらしい。
苦笑しつつ、名残り惜し気にクラウディアの手をそっと撫でてから腰を上げた。
「やあ叔父上。昨日は挨拶もせずに帰ってしまって申し訳ない」
「昨日もだし、今日もだね。ぼくもずっとここにいたんだけどな?」
「それは失礼、クラウディア以外目に入っていなかった」
「きみはもっと視野を広く持ったほうがいいね。これからのことを考えると、ぼくを味方につけておいたほうがいいと思うんだけど?」
「それはごもっとも。ということで、実は土産を持参しているんだが――どうだ?」
どこからともなく酒瓶を取り出したレオンが差し出したラベルを見て、リーベルトが目を細める。
「うん、悪くないね」
「では協定成立ということでいいな?」
「いやぁ、これだけではちょっとね。だけど、昨日かな。興味深い魔法をクラウディアに使ってくれたんだって?」
「話が早いな、叔父上。ああそうだ。その『興味深い魔法』についての話をしようじゃないか」
察しの良いリーベルトとレオンの間で、ぽんぽんと話が進んでいく。
なにやら合意を得たようで、がっちりと握手を交わし、肩を叩き合う。気安いやり取りをしているふたりだが、実のところレオンは隣国、ベル・メリル王国の第二王子だ。
隣国出身のクラウディアの母の、従妹の息子、という遠いような近いような微妙な距離の親戚にあたるのだが、年齢が近いこともあって幼少期から度々交流はあった。
クラウディアの二歳上だから次の春で十八になるはずで、魔法大国である彼の国でも有数の実力を誇る筆頭魔導師として、近頃立太子したばかりの彼の兄をよく支えている――らしい。
いつだったか、母がそんな話をしていた記憶がある。
「ま、とにかく座って座って」
一人掛けのソファを示してレオンを促すリーベルトの傍らで、トマスが静かにお茶の準備を進めている。
「相変わらずだな、叔父上は。元気そうで何よりだ」
「きみもね。素晴らしい腕前に惚れ惚れするよ」
「その言葉は皮肉じゃなさそうだな?」
「もちろん。ぼくは〝才能〟に関してはだけは正しく評価すると決めているからね。隣国からここまで飛んできたんだろう? 素晴らしいよ。普通はできないからね、そんなこと」
たしかに、転移という魔法の理論自体は広く知られているが、単身でそれを実行できる者はそういない。あれはおそろしく魔力を食うのだ。
魔法の発達した隣国ベル・メリルとは違い、さほど魔法の発展していないこの国でも知られている常識である。
「さて、それじゃあ聞かせてもらおうか。きみは一体、昨日クラウディアに何をした? ――いや違うね。うちの王家はクラウディアに、一体何をしていた? その答えに、きみは辿り着いているんだろう?」
トマスが配ったお茶に口をつけ、一息ついたところでおもむろにリーベルトが切り出した。
「ふん、やはり叔父上はさすがだな。未来の義息子として、大いに喜ばしい」
「未来の……?」
「あー、おほん、ごほん! 何でもないよ、クラウディア。それじゃあ――」
首を傾げたクラウディアににこりと笑ってみせ、次いでレオンをギロリと睨んだリーベルトが、いくらか早口で続ける。
「まずはぼくの推論でも話してみようか」
「はは。いいぞ、叔父上」
面白そうに片眉を上げて、レオンがどうぞという素振りで片手を差し出した。
「では、僭越ながら。ひとつめ。どうやらクラウディアには魔法が掛けられていた。ふたつめ。魔法をかけたのは王家である。みっつめ、その魔法はおそらく……『魅了』だ」
「ふん」
どうだろう、と首を傾げてレオンを見やるリーベルトに、感心したような、いくらか呆れたような顔でレオンが肯いた。
「ほんとうに相変わらず察しがいいな、叔父上は」
「魅了って、あの魅了……?」
思わず口を挟んだクラウディアに向き直り、レオンがもう一度首肯した。
「昨日、王宮で聞こえたんだろう?」
「ええ。レオ兄さまが言っていた通りだったわ。王太子宮に入って、少ししたところだったわね。パチンと泡の弾けるような音が小さく聞こえたの」
「それが、きみにかけられていた魔法が弾かれた音さ。頭の靄が晴れた気がしなかったか?」
「したわ。急に視界がクリアになったみたいだったの。だけど……魅了魔法は禁呪だわ。国際法で決められているじゃない」
自分に何らかの魔法がかけられていたことは、身をもって理解した。
それが王家からなされたことであろうことも、状況的に疑いようがない。
ただ、そこまで大それたものであるとは思っていなかったのだ。
自分が好意の欠片もない相手に対して妙に執着してしまっていたことの異常さは、もちろん重々承知している。
けれども……それでもまさか、王家が自ら法に触れるようなことをしでかすなんて。
「そうだな、それが普通の感覚だ」
「国際法で定められている禁呪の魔法があるということもね。どの国も子どもでも、たとえ平民であっても知っていることだ」
「そうよ。だから、いくらなんでも……」
国際法に触れる行為をするということは、近隣諸国からの一斉攻撃を受けても文句を言えない事態になる、ということだ。
国を守るべき王家が率先して国を危険に晒す。各国との協定が結ばれて以来、近年は平穏に過ごしているなかではあり得ない暴挙だと思う。
戸惑うクラウディアに、レオンが表情を引き締めた。
「自国の王家のことだ。信じたくないクラウディアの気持ちもわからなくはない。だが、聞いてくれ。俺はきみが突然変わってしまったときから、魅了の行使を疑っていた。――いや、すまない。最初からではないな」
そう言って、レオンが苦笑する。
「最初は、クラウディアの男の趣味を疑ったよ。きみはああいうのが好みだったのかと、かなりショックも受けた」
「まあ、失礼ね!」
「あはは、すまない。しかし男女の好みばかりはわからないものだからな。趣味が悪いとは思ったが、きみが幸せならそれでいいと思いもした。だが、しばらくして、どうも少しおかしいのではないかと思い始めたんだ。あいつの近くにいるときと、そうでないときの様子が違いすぎた。悪い意味で、な」
「レオ兄さままで……」
嘆息するクラウディアに、どういうことかとレオンが眉を上げる。
「トマスにも、まるで悪役令嬢みたいだった、と言われたのよ」
「悪役令嬢か。なるほど、上手いことを言うな!」
愉快そうに笑われたが、クラウディアにしてみたら笑いごとではない。黒歴史が上塗りされてしまった気分だ。
「もう! いい加減にしてちょうだい!」
「悪かった、そう怒るなよ。――で、クラウディアの様子から何らかの魔法が使われている可能性を考えたんだが、状態的に一番合致するのが魅了だったんだ。そこから調べはじめて、ようやく突き止めたのが、半年前だ」
「半年前? でも、レオ兄さまとは昨年からお会いしていなかったわよね?」
対面していないのに、どうやって判断したのか。
「クラウディア本人から探ることも考えたんだが、互いの立場上、頻繁に顔を合わせるのは難しいだろ? だから別の方面から調べてみることにしたんだ。つまり、王家の側をな」
「ふむ。それで?」
先を促すリーベルトに、
「各国の王家には、代々特有の固有魔法が伝わっているのは知っているだろ? 多くの場合、それは秘匿されているが」
「なるほど。クラウディアに使われたのも、それだったと」
「こればかりはブール家でも探れない領域だろう。叔父上が原因を掴めなかったのも、そのせいだ。誓約の玉璽がない限りは触れることのできない秘匿情報だからな」
うぅむ、とリーベルトが低い声で唸る。
「その重要機密情報をきみがどうやって手に入れることができたのかは……うん、まあ聞かないでおこうか」
「賢明だな、叔父上」
にやりとするレオンと、珍しく苦笑するリーベルトと。
「さて、ここからが本題だ。予想した通り、クラウディアにかけられていたのは魅了魔法だった。しかも、ただの魅了じゃない。アヴァリエ王家に伝わる禁呪、隷属魔法だったんだ」
「ほう?」
「簡単に言えば、精神汚染の類だな。思考を誘導し、術者の都合のいい操り人形に仕立て上げることができる。悪趣味きわまりない代物だよ」
「ふぅん、なるほどねぇ」
ぐっと低くなったリーベルトの声が室温を下げる。
変わらずのほほんとした笑顔を浮かべている父だが、その青い瞳はまったく笑っていない。
クラウディアは思わず自分の二の腕をさすった。
父があの眼をしているときは最上級の危険度だと知っているので。
「つまりアヴァリエ王家は、ぼくの大事な娘に首輪をつけて、七年間も飼い殺しにしていたと」
「そうだ。俺の愛するクラウディアに、卑怯な魔法をかけてな」
「ぼくの大事な娘に、ね」
「俺の愛するクラウディアに、な」
ぴくりと眉を上げたリーベルトが、なにやら声を大きくした。
「ぼくの大事で大切な娘のクラウディアに!」
「まったくだ。俺の最愛の――」
「ウォッホン!」
尚もレオンが口を開きかけたところを、トマスがこれみよがしな咳払いをして遮る。
いくら親戚とはいえ仮にも王族であるレオンに対して、主従ともに遠慮がない。
「皆さま、お茶のお代わりが入りましてございます。温かいうちに、どうぞ」
「さすがね、トマス。よくやったわ」
デキる家令は仲裁も見事である。どうやらクラウディアはふたりから深く愛されているらしいことはわかったが、そろそろ話を前に進めたい。もう少し長く不毛な言い合いが続いていたら、クラウディアのこめかみに青筋が浮かぶところだった。
えへん、おほんと喉の調子をたしかめているリーベルトと、すました顔で座り直したレオンと。銘々がカップを手に取り、しばし紅茶の香りを愉しんだ。
「ねえ、お父さま。アヴァリエ王家の目的は、やっぱりブール家の資産かしら?」
「まあそうだろうねぇ。今代になってから王家の浪費っぷりはひどいものだ。特に王妃がね、見栄っ張りで派手好きだから。いくらあっても金は足りないんじゃないかなぁ」
「そう……そうよね」
今日まで二日と開けずに王宮へ足を運んでいたが、思い返してみれば、どこもかしこも目がチカチカしそうなほど煌びやかに飾り付けられている。
舞踏会の度に王家の衣装は新調されていたし、ジュリアスの放蕩っぷりもひどいものだった。正式な婚約者であるはずのクラウディアには贈り物ひとつしたことがないくせに、浮気相手には宝石やドレスを惜しげなく与えていたことを知っている。
「わたくしがこのまま殿下に嫁いでいたら、どうなっていたのかしら。なんだか嫌な想像しかできないのだけど」
「おそらくだが」
顎を擦りながら、父のリーベルトが答える。
「ブール家は遠からず冤罪で陥れられていただろうな。今の貴族家の情勢を見る限り、正面切って王家と対抗できる勢力はほとんどない。そうなったら奴らは我が家の資産を食い潰し、クラウディアの処遇としては、良くて幽閉」
「悪くて処刑、だな」
あり得る、と冷静になった今だから思える。
あと半年だ。半年遅ければ、卑怯な王家の魔の手にかかったクラウディアのせいで父や母を含め、大切なすべてを失ってしまうところだった。
「とはいえ、叔父上も黙って婚姻を承認するつもりはなかったんだろう? きっと何かしら手を打っていたんじゃないか?」
「いくつか考えてはいたけど、でもクラウディアがあの調子だったからねぇ」
七年前。八歳のクラウディアが突然「ジュリアス様と結婚するのです!」と言い出した日から、どれだけ周りの皆を戸惑わせてきたことか。
「わたくしのせいね。わたくしが迂闊に魔法をかけられたりしてしまったから」
たとえ知っていたとしても対処は難しかっただろう。当時のクラウディアはまだ八歳だったのだ。しかも王家の固有魔法が相手では、抵抗することはほとんど不可能に近い。
それでも悔しい。皆に迷惑をかけたことも、自分の時間を無駄にしたことも。
そうなのだ。悔しくて堪らない。考えれば考えるほど、腹が立ってくる。
「ねえ、お父さま。わたくし、猛烈に腹が立っているのだけど」
「奇遇だな、クラウディア。パパもだよ」
「ふふふ。それじゃあ、わたくし、やり返してしまっていいかしら?」
「もちろん、パパも大賛成だとも」
クラウディアは優雅に扇を開き、口元を隠して微笑んだ。まさしく〝悪役令嬢〟と評されたその傲慢さを、今度は正しく武器に変えて。
「では、王家の皆さまには相応の報いを受けていただきましょう!」
「いいぞ、それでこそクラウディアだ」
少し前まで気遣わし気な顔をしていたレオンも、ニヤリと口角を上げる。
「ちょっと国が傾いてしまってもいいかしら?」
「うんうん、ちっとも構わないよ。頼もしいなあ、ぼくの娘は。じゃあ早速、作戦会議といこうか。きみの七年分の青春と尊厳を奪ったやつらに、相応しい終焉を」
「ええ! まずは、そうね……」
少し考えて、クラウディアはトマスに声をかけた。
「ねえ、この先、王家への寄付の予定はどうなってるの?」
「近々ございます。来週、王都の治水工事の名目で金貨二千枚が予定されておりました」
ティーカップを口に運びかけていた手を止めて、レオンが驚いた顔をする。
「おいおい、アヴァリエなら王都の一等地に最上級の屋敷が建つ額だろ。もしかして、年に何度もそんな大金を寄付してるのか?」
「わたくしも、金額は初めて知ったわ」
父がクラウディアに教えなかった理由はわかる。けれど、王家からも知らされていなかったのは、明らかにおかしい。
「毎年二度か三度か。王家からさりげなーく催促がくるんだよね」
「それは……完全に金づるだな」
「ね、隠そうともしないんだから。というよりも頭が回らないのかな、欲が勝ちすぎて」
困ったものだよね、と言うリーベルトの目はやはり、少しも笑っていない。
「じゃ、トマス。その寄付は止めといて。いいね、クラウディア?」
「ええ、そうしてちょうだい!」
ふたりの命を受けたトマスが腰を折る。
「かしこまりました。理由は何といたしましょう?」
「担当者が急死したので手続きができません、とでも言っておいて。あ、死んだ担当者ってのはぼくね」
「旦那さまがお亡くなりになられてはブール家お取り潰しの口実を与えてしまいますので。そうですね、適当に親戚のどこかから無心が入ったことにでも致しましょう」
「うん、任せるよ」
さらさらと適当なやり取りでまとまった内容はいかにも適当だが、王家にとってはダメージが大きいはずだ。
とはいえ、それだけで済ませるつもりはサラサラない。
当然だ。公爵令嬢としての矜持をこれでもかと踏み躙られたのだから。
「さあ、あとはどうしてやろうかしら」
「好きなようにすればいいよ、クラウディア。大体のことなら、パパがなんとでもするから。それに、レオンくんもいるしね」
「ああ、任せろ。きみの後ろ盾は、この俺、ベル・メリル王国の筆頭魔導師である第二王子だ。アヴァリエくらい国ごと潰したって構いやしないぞ」
「ふふふ、そうね。お父さまとレオ兄さまがいてくれたら最強ね!」
王家が最高に調子に乗っている場で、最悪のどん底に落としてやろうと決めた。
楽しげな三人の横で、終始すまし顔のトマスが小さく呟いた。
「王家、終了のお知らせですな」




