第三話 変わらないもの変わるもの
まるでスイッチが入るように覚醒するのはいつもと同じだった。
夢は見ない。見ているのかも知れないが、記憶には残らない。まるで地球の記憶のようにすっぱりと消えて無くなっている。
昨晩の記憶はある。ひとつ残らず消えずに残っている。
それが嘘でない証拠に、俺の腕を枕にして安らかに寝息を立てるユーリアがいた。
その柔らかい髪と耳を撫でると、彼女はまるで赤ん坊のようにむずがるのだが、目を覚ます気配はない。幸せそうに眠っているのを起こすのはしのびないので、その頭をそっと持ち上げて腕を引き抜いた。
痺れの残る腕をぶんぶんと振り回し、体のコリをほぐす。体を温めてから、手桶に残った水を使って体を拭いていく。室内は息が白くなるほどには寒い。
服を着て、居間に出て、囲炉裏に薪を並べて火を入れた。
ユーリアが起きだす頃には少しは温まっているだろう。
俺は靴を履いてコートを羽織ると、朝のブラムストンブルクに出かけることにした。
ここ数日降り続いていた雪は止み、晴天が空の半分だけ広がって、天球がその半身を晒している。しかし足元にはしっかりと雪が残っていた。
冒険者などを使って除雪作業も行われてはいるが、それは大通りなどが中心で、居住区の雪かきはそこに住む個々の住人の仕事だ。なんとか通路のようになっている道を、白い息を吐きながら大通りを目指す。
石で舗装された通りに出ると、滑る心配も無くなってほっと一息つけた。
早朝ということもあって、通りを行き交う人はそれほど多くはない。ほとんどが商人やその奴隷たちだ。彼らを脇目に南門を目指す。
というのもブラムストンブルクの南方には鍛錬に使えそうな平原が広がっているからだ。街や街道から離れて丘の陰にでも隠れれば、全力で魔術や体術を使っても見咎められる可能性は低い。
昨晩の行為で俺のレベルは55になり、ステータス偽装のスキルレベルも無事10になった。しかしだからと言って番号付きから身を隠せるかといえばそうではない。ステータス偽装10は鑑定10でチェックされれば、ステータスを偽装していることまでは分かるのだ。
よって俺はこれまで以上に戦う技量を磨く必要性に駆られている。次に番号付きと出くわした時に、相手を圧倒出来るだけの力が必要だ。
目をつけていた丘へと向かうルートには、先に行く誰かの足跡が雪の上にくっきりと残っていた。それを追いかけるように丘を登ると、思った通りの人物が剣を振るっていた。事前に下見したときにも一緒だったので何も不思議ではない。
「おはよう、ソフィー」
完全武装で短剣の素振りをしていたシャーリエに声をかける。
「あっ、お、おはようございますっ!」
「いいから続けて」
シャーリエから少し離れた場所で、俺は彼女の素振りを眺めながら柔軟体操を始める。少し体が温まったところでシャーリエはひと通り型を終えたようだ。
息を整えながらこちらに向き直る。
「今日はいらっしゃらないかと思っていました」
「いつもどおり目が覚めたからね。サボると癖になりそうだ」
「オスカー様らしいです。良かった」
「ん? 何が?」
「い、いえ、その、なんでもありません。忘れてください」
「まあ、いいけど、いつもどおり相手をお願いしてもいいのかな?」
「はい! よろしくお願いします!」
今日は来ないと思っていたと言ったわりにはシャーリエは鍛錬用の木剣をちゃんと用意してきていた。
いつもと同じ鍛錬にも力が入る。番号付きに魔術が通用しにくいことを考えれば、体術の向上は必須の項目だ。こんなことなら戦士スキルを取っておけばと思うが、今更言っても仕方のない事だ。今ある技能を最大限に活かす方向で行くしか無い。
しかし結局は何度もシャーリエにいいようにあしらわれて、雪まみれになる。
「本当に敵わないな……」
荒い息を整えながら、雪の上に大の字になって、そんなことをぼやく。
「オスカー様には魔術があるじゃないですか」
「立て続けに魔術が効かない相手と戦ったからね」
「そうでしょうか? テオドール様の時も、番号付きの方の時も、魔術が効いていないというよりは、効きにくい程度に思えましたけれど」
「それでも全力の雷魔術で倒せなかったのはショックだったよ」
「そりゃ魔術抵抗スキルがあるからな」
突然の声に振り返ると、テオドールが立っていた。
「おはようさん。朝から精が出るな二人とも」
「おはようございます。テオドール様」
「おはよう。やっぱり抵抗スキルのせいなのか」
魔力抵抗スキルについてはユーリアから聞いたことがある。俺は素の状態でも魔力抵抗力があるという話だった。しかし今テオドールが口にしたのは魔術抵抗スキルだ。
もちろん俺も魔術士スキルの枝として魔術抵抗スキルがあることは知っている。しかしこれまで必要に駆られたことがなかったので習得もしていなかった。
「魔術に対する抵抗スキルには、魔術抵抗スキルと魔力抵抗スキルがある。基本的には魔術抵抗スキルがあると自分に対する魔術を軽減できる。魔力抵抗スキルは食らった魔術のダメージを多少だが軽減できる。番号付きは魔術抵抗スキルは10あると思った方がいい」
「あんたも、だな」
「そうだ。それでもあれは結構痛かったんだぜ。もうちょい雷スキルを上げれば十分実用に値するんじゃねーかな」
「それを聞いてちょっとは安心したよ」
どうやらまったくの役立たずというわけでは無いようだ。
「それに魔術の使い方は相手を直接攻撃するばかりじゃない」
「相手の足元に穴を空けたり?」
「そうだ。あれはうまく躱したな。正直、感心した」
「俺もやる手口だったからな」
魔術を直接相手に当てる分には魔術抵抗スキルで軽減される恐れがあるが、相手の周りに影響を及ぼすだけならその心配はないということだ。テオドールが俺との戦いの時に足元に穴を空けたのは、俺のことを番号付きで魔術抵抗スキルが高いと勘違いしていたからだろう。
「まあ、そういうわけで効きにくい魔術も使い方次第というわけだ。このレベルになるとむしろそういう使い方をしてくるものだと思ったほうがいい」
「水魔術で相手を窒息させるのはどうなんだ?」
「水魔術士の腕次第だな。魔術抵抗されると水のコントロールがうまくいかなくなるから、相手は抜け出しやすくなる。だが全身を覆うほどとなると、一筋縄じゃいかなくなるだろうな。同じように火魔術も抵抗したところで火は火だからな。厄介だ」
「なるほど」
やはり火や水は強いということらしい。
そんなことを考えていると、テオドールが近寄ってきて俺の肩を抱いた。
「そんなことより昨晩の感想を聞かせろよ。どうだった。ちゃんとできたのか?」
「テオドール様!」
「なんだよ。いいじゃねーか。ソフィーだって昨晩あんなに気を揉んでただろ」
「ソフィーが?」
「そそ、そんなことありませんよっ!」
顔を真っ赤にしてシャーリエが否定する。
「いや、ぶっちゃけると宿酔いであんまり真面目な話したくねーんだよ。ソフィーはよくそれだけ跳んだり跳ねたりできるもんだな」
「私はあまり酔いが残らない体質みたいです」
この世界では子どもが飲酒をしてはいけないという話を聞いたことはない。だからシャーリエがお酒を飲むのは別に悪いことではない。だが俺はシャーリエがお酒を呑むところを見たことはなかった。
「珍しいね。ソフィーがお酒を呑むなんて」
「お二人に勧められて、それで」
「一番呑んでたもんな。それでまあグチグチと」
「わーっ! わーっ! お酒の席のことだから言わないって約束したじゃないですか!」
「うおっ、頭に響く」
二人がやいのやいのやっているのを見て、俺はちょっと安心する。なにせ出会いが最悪だった二人はこれまでもちょっとしたことで険悪なムード――主にシャーリエが――になっていたので、こうして仲良くやっているのを見られるのはいいことだ。
「アルマはどうしてるんだ?」
「まだ寝ていらっしゃると思います。その、かなり悪酔いされていたので」
「何かあったのか?」
「ああ、まあ、それは俺のせいだな」
テオドールが気まずそうに頭を掻く。
「テオドール様がスキルレベルの上限は10だと断定されたので」
「ああ、それで」
予想はできていたことだが、やはりスキルレベルの上限は10であるらしい。魔術士スキルレベル11を目指してスキルポイントをつぎ込んできたアレリア先生にしてみれば、自分で確認できる目前にして他人から答えを知らされたわけで、自棄酒に走るのも仕方ない。
しかしこうなった以上はスキルレベルの上限がはっきりしたのはありがたくもある。
ステータス偽装も、鑑定も10が上限であるならば、ステータス偽装がレベル10になった今、少なくとも鑑定10でステータス偽装の存在を見破られる危険性はあるにしろ、実際のスキル値を知られることはなくなったと言えるからだ。
「番号付きはどれくらいで追ってくると思う?」
「真面目な話はもう嫌だつったろ」
「でも気になるだろ」
「うーん、主人の性格によるだろうな。こまめに自分の契約をチェックするような神経質な奴だったら、俺が殺した番号付きの契約が無くなっていることにすぐに気づくだろう。大雑把な奴ならなんらかの知らせが届くまで気づかないかもしれん。だがどちらにせよこの冬の間は身動きは取れんだろう」
「そうだな」
すでに雪は膝の辺りまで積もるようになり、旅をするには困難な状況だ。
「実際のところは、次の番号付きがオーテルローまで迫るのに一年はかかると見ている。その頃にはオレたちはずっと南に移動しているさ。さして心配はいらん」
「その割にはレベルアップを急がせたじゃないか」
「何事にも例外は存在するからな。念には念を入れておきたい」
「で、もし番号付きが現れたらどうするんだ? 一人殺られたんだ。今度は一人で来るなんてことはないだろ?」
「この冬の間にブラムストンブルクに現れたら逃げ場は無い。戦うしかないだろうな。そのためのレベルアップだ」
「そうならないことを祈るしかないな」
それからテオドールとシャーリエはアレリア先生を起こして宿で朝食を食べてから家に戻るというので、俺も家に戻ることにする。要はその間にユーリアを起こして服でも着せておけ、ということなのだろう。
雪道を歩いて家に戻ると、やはりというか、ユーリアはまだ俺の寝床ですぅすぅと寝息を立てていた。その寝顔をいつまでも見ていたいと思ったが、そういうわけにもいかない。
俺は意を決してユーリアの肩を揺さぶる。
ユーリアと呼びかけかけて、それではいけないと思い直した。
『カタリナ、起きて、朝だよ』
『んぅ』
『カタリナ』
何度か呼びかけると、ユーリアはうっすらを目を開け、やがてその目がはっきりとしてくる。それからようやく俺が起こそうとしていることに気がついたようだ。
『ワン様、おはようございます』
『ワンじゃなくてオスカーだよ』
『そうでした。オスカー様。えっと、その、服を着るので外に出てくださいませんか?』
『分かった』
もうどうせ全部見せ合った仲じゃないかとも思ったが、女性にしてみればそういうわけにもいかないのだろう。
俺は部屋の外に出て、囲炉裏に薪を足したりする。
そんなことをしているうちにユーリアが部屋から出てきた。なんだか歩き方がひょこひょこと覚束ない感じだ。
『何か変な感じです』
そんなことを言いながらユーリアは俺の隣に座った。以前と比べるとはっきりと距離が近い。
『大丈夫? 調子が悪いならまだ寝ててもいいんだよ』
『そういうのではなくて、その、まだちょっと変な感じで』
『治癒魔術は?』
『もう使いました』
治癒魔術を使っても痛みは中々無くならないものだから仕方ないのかもしれない。
それからユーリアが朝食を作り、俺が部屋の片付けをすることになった。空気を入れ替え、シーツを洗う。
それらの作業は、否応にも昨晩の行為を思い出させ、俺は沸き上がってくる情欲を抑えるのに必死だった。同時に、昨晩の行為をユーリアはどう思っているのだろうと今更ながらに気になり始める。
建前としてはレベルアップのための行為だった。だとしたらユーリアはもう俺が求めても応じてはくれないだろうか? いや、それは彼女に拒否権はないのだ。大事なのはユーリアが俺を求めてくれるのか、ということだ。
だけど俺はまだ彼女から俺への好意の言葉を聞けてすらいない。
そんな風に思考がぐるぐる回っている内に作業は終わってしまって、ユーリアも朝食を作り終えたようだ。
パンとスープの食事を並んで食べながら、もう思い切って直接聞いてしまうことにした。
『カタリナ、その、昨晩のようなこと俺がまたしたいって言ったらどう思う?』
するとユーリアは意外なことを聞いたかのようにきょとんと首を傾げた。
『もうしてくださらないのですか?』
『いや、俺はしたいんだけど、すごく』
『良かった。レベルアップのためだけだと言われたらどうしようかと思いました。オスカー様は私を求めてくださっているのですよね』
『ああ、でもカタリナにそれを押し付けたくないんだ』
『その心配なら必要ありません。私はオスカー様に求められて嬉しいです。だからオスカー様が求めてくださるならいつでも私は構いませんから』
『良かった』
ようやく食事の味が分かった気がする。
でもそうなるとこれからあの三人には宿暮らしをしてもらわなきゃいけないかもしれないな。
『そうですか? 私は気にしませんし、お金の無駄だと思います』
『マジで?』
『ええ、おかしいでしょうか?』
『ど、どうなんだろう?』
俺は動揺をひた隠しにしながら食事を進めるのに集中するのだった。




