26.誰にも言えなかった秘密
胸がどきどきして、肺の奥まで空気が届かない。
冷たい水に沈められたように、心臓がじわりと凍りついていく。
──どうして。
どうして彩芽さんが“あの名前”を知っているのか。
その名前は、誰にも明かしたことのない秘密だった。
胸の奥に鍵をかけ、ひとりで抱え込んできた、大切で、そして重たいもの。
それなのに……なぜ。
恐怖と混乱が波のように押し寄せ、思考が真っ白になる。
体温が急速に奪われ、指先がじんじんと痺れる。
けれど視線を上げると──。
彩芽さんの瞳は驚きと疑念を宿しながらも、それ以上に優しく揺れていた。
責めるでも、問い詰めるでもなく。
まるで「大丈夫」と告げてくれるように。
「私は環ちゃんの味方だからね」
柔らかな声が胸の奥に届き、その瞬間、長く閉ざしていた扉が軋むように揺らいだ。
心の奥で、固く凍りついていたものが少しずつ溶けていく。
……もう、逃げたくない。逃げられない。
私は震える唇を噛みしめ、勇気をかき集めて言葉を紡いだ。
「……私、実は──前世の記憶があるんです」
告白は、氷を割る音のように響いた。
彩芽さんの目が大きく見開かれ、驚きと戸惑いが浮かぶ。
見慣れた優しさに混じる、見知らぬ色合いに心臓がぎゅっと縮み上がる。
けれど、後戻りはできなかった。
「私が生きていたのは……ここに似た“日本”という国でした。
同じ名前なのに、どこか違う、不思議な世界で……。私はそこで普通に暮らして……やがて──」
言葉を紡ぐたび、頭の奥がじんじんと痛む。
まるで古傷をなぞるように、忘れられない日々の情景がよみがえる。
「環として生まれたときから、その記憶はずっとありました。小さい頃は怖くて……。
どうして自分だけが“知っている”のか。どうやって生きればいいのか……わからなくて。
誰にも言えなくて、ひとりで抱え込んでました……っ」
震える声が途切れ、視界がにじんだ。
頬を熱い雫が伝い、床へと落ちていく。
「……でも、彩芽さんには……もう、彩芽さんと旦那様にだけは……誤魔化したくないんです」
胸に手を当て、必死に吐き出す。
信じてもらえないかもしれない。拒絶されるかもしれない。
それでも、この人だけには隠したくなかった。
部屋の中は静まり返っていた。
壁掛け時計の針が「コツ、コツ」と音を刻む。
その微かな響きだけが、やけに大きく聞こえる。
「……正直、すぐには信じられない話だわ」
静寂を破った言葉に、息が止まった。
肩がびくりと跳ね、胸の奥で恐怖が渦巻く。
しかし、続いた言葉は、思いもしないものだった。
「でも……環ちゃんが嘘を言う子じゃないことは、私が一番知ってる。だから……信じる。
どんな過去を抱えていても──いいえ、どんな前世があっても、私は環ちゃんの味方だから」
張りつめていたものが一気に崩れ、涙が溢れ出す。
止められず、頬を伝い続ける。
「……ありがとうございます……彩芽さん……っ」
嗚咽混じりの声は頼りなく、言葉にならない思いが胸の奥で溢れ返っていた。
彩芽さんは黙って、私の背に手をまわしてくれた。
その温もりに包まれた瞬間、世界が少しだけ柔らかくなる。
──side 彩芽
環ちゃんの涙は、すべてを物語っていた。
作り物の涙ではない。長い時間、ひとりで抱え込んできた痛みが、ようやく溶け出している。
私はそっと息を整え、彼女の小さな手を握り返した。
「……驚いたけど、環ちゃんが本気だってことはわかったわ。大丈夫、私は環ちゃんの味方だから」
そう告げると、環ちゃんはさらに泣きじゃくり、小さな肩が震えた。
その姿は壊れそうなくらい儚くて、抱きしめずにはいられなかった。
……それでも。
心の片隅に、小さな不安が芽生えてしまう。
──銀次。
環ちゃんが口にした、おそらく前世に関わる名前。
どうしても気になってしまった。
「……ねぇ環ちゃん。その……銀次っていう人……もしかして、前世での……夫とか、そういう人なの?」
思わず口から零れた問い。
自分の声が震えていることに気づく。
もしそうだったら……弟の未来はどうなるのだろう。
そんな不安が胸を締めつける。
環ちゃんは一瞬ぽかんと目を丸くし、次の瞬間、顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振った。
「ち、違います! 私は……前世ではずっと独身でした。夫も、恋人もいませんでした。
銀次様は……ただ、とても憧れていた方なんです。近づくこともできなかったけど……その姿を見るだけで胸が温かくなって、どんなに辛い日でも“頑張ろう”って思えた……そんな存在でした」
涙を拭いながら、必死に伝えようとする姿。
その言葉に偽りはなく、胸の奥から自然にあふれ出ているとわかる。
私はようやく息をつき、彼女の肩にそっと手を置いた。
「……そう。よかった」
安堵の吐息が自然に漏れる。
──やっぱり、この子は真っ直ぐで、優しい。
弟を託せるのは、この子しかいない。
環ちゃんの涙を受け止めながら、私は心の底からそう思った。




