2.消えた影と、初めての朝食
金色の瞳が、私を射抜いていた。
「……誰?」
声が震えたのは、寒さのせいだけじゃない。
返事はなかった。
ただ、金色の瞳が月明かりの中で瞬き、私をじっと見ている。
ゆっくりと、その影が近づいてきた。
衣擦れの音と、かすかな足音。
あまりの光景に、膝が動かない。
微かに耳が動く──風ではない、私の呼吸に反応したように。
柔らかそうな毛並みが月光をすくい、尾が静かに揺れる。
どこからどう見ても、人間じゃない。
喉がひとりでに鳴った。
自分の心臓の音がうるさい。足は石のように固まって動かなかった。
言葉が出ない。
胸の鼓動がどんどん速くなり、耳の奥で自分の心音が響く。
ほんの数歩の距離に、この異形の存在がいる。
「……君は……」
低く響く声が夜気を震わせ、鼓膜に重く落ちた。
息を呑むと、その瞳がわずかに細められる。
鋭さと、わずかな警戒──そして、測りかねる感情。
でも、私にはその低く響く低音ボイスに聞き覚えがあった。
私の脳裏に、先ほど浮かんだ銀次様とは別の人物が思い浮かんだ。
「……旦那……様?」
目の色も髪の色も違う。蓮様──私の旦那様には、こんな耳も尻尾も生えていない。
なのに、この声は……と、自然と名前がこぼれ落ちた。
次の瞬間──背後から足音。
「奥様!」
馴染みのない声とともに、懐中灯の光が差し込む。
その光の中で、銀の耳はふっと揺れ──影は闇に溶けるように消えた。
「危のうございます! 離れには……」
声をかけてきたのは、見知らぬ女性の使用人だった。
険しい顔で私を見下ろし、言葉を区切る。
「──近づいてはなりません」
さっきの声と同じ響きに、心臓が跳ねた。
その使用人に言われるがままに、場所を移動する。
最後に後ろ髪を引かれるように振り返ったが──そこには何も居なかった。
◆
母屋の明かりが近づくにつれ、夜風の冷たさが和らいでいく。
けれど胸の奥のざわめきは消えなかった。
「……さっきのは……いったい……?」
歩きながら、私は思わず口を開いた。
横を歩く使用人は、わずかに眉を寄せる。
「何もございません。奥様が見間違われただけでしょう」
「見間違い……? でも──」
銀の耳に尻尾。あの金色の瞳。
あれを“見間違い”と言える自信なんて、私にはない。
「……あの離れには、誰が?」
問いかけると、使用人は一瞬だけ足を止めた。
視線は前を向いたまま、低い声で答える。
「……奥様がご存じでなくてもよいことです」
その言い回しが、かえって胸に引っかかる。
「知らない方が、いい?」
返事はなかった。
ただ、夜の闇よりも深い沈黙が落ちた。
廊下に足を踏み入れたとき、使用人がふと振り返る。
その瞳は冷たく、けれどどこか怯えているようにも見えた。
「どうか……今夜のことは、忘れてください」
そう言い残し、使用人は静かに去っていった。
忘れろと言われて、忘れられるはずがない。
瞼を閉じれば、あの金色の瞳が浮かぶ。
……そして、耳の奥に蘇る低い声も。
◆
外から、鳥の声が聞こえる。
私は布団の中で天井を見上げた。
「全然……寝れなかった……」
結局、一睡もできないまま朝を迎えた。
頭がぼんやりして、口から前世の言葉遣いが漏れる。
「くっそ、眠い……」
やばい。貧乏貴族といえど、一応は貴族令嬢である環になってから、言葉遣いは丁寧に心掛けてきたのに……。
眠すぎて、頭が回らない。
今日は朝食も食べずに寝てしまおうか──そう考えていた時。
「奥様──失礼してもよろしいでしょうか?」
「は、はいっ! ……どうぞ」
思わず声が裏返る。
入室してきたのは、いつも世話をしてくれる使用人だった。
「奥様、今日の朝食ですが──」
あー……朝食ね。
断ろうと口を開きかけた瞬間、予想外の言葉が飛んできた。
「旦那様が、“今日は朝食を共にとろう”とのことにございます」
「──え?」
この屋敷に来て数週間、一度も聞いたことのない言葉。
胸の奥がざわりと揺れた。




