月花茶
「……ふぅ」
佐倉穂花は、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
佐倉穂花、二十七歳。
女性専用サロン『Luna Sana』で働き始めて五年になる。
穂花は、女性専用のセラピストだ。
五年間、セラピストとして技術を磨き続け、今では固定客もつくようになった。
「穂花ちゃん、今日はこのあとも予約が入ってるけど大丈夫?」
店長の水川沙苗が、心配そうに声をかける。
「大丈夫ですよ。まだまだやれます!」
穂花は両手で拳を作って答えた。
「最近穂花ちゃんのお客様多いわね。お店としてはありがたいけど、無理はしないでね」
さらに心配そうな表情を向けられ、穂花は笑顔で返した。
「ありがとうございます。でも本当に大丈夫です。今はお客様に喜んでいただけるのが嬉しくて。私も応えたいんです」
「そう。でも本当に無理はしないでね。お客様も大切だけど、穂花ちゃんのことも大切だから」
「ありがとうございます」
穂花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
こんなにもスタッフを思いやってくれる店長のもとで働けるなんて、自分は幸せだと思う。
だからこそ応えたい。
お客様にも。
そして、自分を雇ってくれた店長にも。
自分ができることがあるなら、全力で応えたい。
そう思っていた。
二十二歳のもうすぐ梅雨を迎えようとしていた頃。
佐倉穂花は、この店『Luna Sana』のスタッフになった。
あれは五年前――。
OLとして働いていた頃のことだ。
元々身体が弱く、病気で床に伏せることが多かった幼少期。
遠足や運動会などの行事も、病気で参加出来ないことが多かった。
そんな自分が嫌で、自分なりに体力をつけようともがいていた時期もあった。
だが、身体がついていかず、かえって体調を崩す日々。
結局、解決策も見つからないまま短大を卒業し、二年間、近くの会社でOLとして働いた。
忙しい毎日。
残業も多かった。
それでも仕事自体は嫌ではなかった。
必要とされている。だから頑張りたいと思った。
だが――。
次第に身体が悲鳴を上げるようになった。
元々身体が弱かったにもかかわらず、無理を重ね続けたことで体調は悪化していった。
毎日、身体が鉛のように重い。
仕事を終えて、重い身体を引きずるように歩き、なんとか帰宅。
そして、そのまま倒れ込むようにソファーへ身体を預ける日々。
やがて頭痛や吐き気に悩まされ、仕事に行けない日も増えていった。
せっかく就いた会社だから、なんとか続けたい。
そう思いながら、その日も重い身体を引きずるようにして帰っていた。
ふと目に止まったのは、一本の細い脇道だった。
この道なら、もっと早く家にたどり着けるかも――。
そう思い、初めていつもの大通りではなく、その脇道へ足を踏み入れた。
そこで出会ったのだ。
水川沙苗のサロン『Luna Sana』と。
店の前で、ふと足が止まった。
早く帰りたい。
だけど――。
なぜか、このサロンが気になった。
温もりのあるウッド調の外観。
家庭的な雰囲気。
入口に掛けられた看板へ目を向けた。
女性専用サロン『Luna Sana』
あなたの心と体をほぐします。
気づけば、吸い込まれるように店の中へ入っていた。
「いらっしゃいませ」
あたたかな声が迎える。
その声に、我に返ったかのようにハッとした。
「当店ははじめてですか?今日はどのようなメニューをご希望でしょうか?」
にっこりと微笑む女性。その笑顔は慈愛に満ちていた。
「い、いえ。すみません……何も分からないまま入ってしまって。私、帰ります」
慌てて帰ろうと背を向けた。その時だった。
「待って!」
女性が呼び止めた。
「あなた、だいぶ身体が弱っているわね。ちょっとここに座って」
「え……でも……」
戸惑う穂花に歩み寄り、優しく肩に手を添えた。
そのまま店の一角にある椅子まで、女性は誘導した。
おそるおそる腰をかける。
「ちょっと待ってて」
そういうと、女性は店の奥に行き姿を消した。
(どうしよう……サロンとかはじめてきたけど、高くないかなぁ?今日そんなに持ち合わせてないのに……)
焦りから脈が早くなる。
だけど――。
(お香の匂い?いい匂いがする)
きょろきょろと辺りを見回す。
全てぬくもりある木で統一された、落ちついた家具。
暖色の優しい照明。
(居心地……いいかも……)
しばらくして、女性が奥から姿を現した。
穂花の胸が小さく跳ねた。
女性は、ティーカップとポットをのせたお盆を手にしている。
テーブルの前に来ると、穂花の前にポットとティーカップを並べた。
「よかったらどうぞ」
ふわりと笑みを浮かべる女性。
ゆっくりとティーカップに注ぎ入れる。
薬草のような香りが、ふわっと立ち上がった。
決してきつい嫌な香りではない。むしろ清々しく、どこか清涼感を感じる香りだった。
「……ありがとうございます」
戸惑いながらも、ティーカップを手に持ち、そっと口をつけた。
(いい香り。なんだか落ちつく……)
ゆっくりと一口、口に含む。
こくりと小さな音をたて、喉の奥に流し込んだ。
すぅっと清涼感が胸に広がる。
ぼやけた視界が、一気にクリアになった気がした。
「おいしい……」
思わず口から出た。
「……だいぶ疲れてるのね。このお茶が美味しいと思えるのは、そういうことなのよ」
一瞬、時間が止まる。
言っている意味がわからない。
穂花は目を丸くし、尋ねた。
「……どういう意味ですか?」
穂花は女性を真っ直ぐに見つめた。
「このお茶はね、体調が何ともない人が飲んだら、少し苦く感じるのよ」
「そうなんですか!?」
驚きで声が少し大きくなってしまう。
それほど、穂花にとっては信じがたいことだった。
(こんなに美味しいのに……)
さらに尋ねる。
「これは……なんていうお茶なんですか?」
「正式な名前はないわ。私がオリジナルでブレンドしたお茶なの。うちではね、月花茶って呼んでるのよ。「月」に、お花の「花」よ。少し花のような香りもするでしょ?」
そう言うと、女性は優しく笑った。
「月花茶……」
思わずその名前を口の中で転がした。
月明かりのように優しくて、どこか心が安らぐ響きだった。
「素敵な名前ですね」
「ふふ。ありがとう」
嬉しそうに女性は微笑んだ。
(柔らかい笑顔をする方だなぁ)
このお店の温かな雰囲気そのもののような女性だと思った。
さらにゆっくりと口に含んだ。
優しい香りとほのかな甘みが身体中に染み渡っていくようだった。
気づけばティーカップは空になった。
「ありがとうございます。とても美味しかったです」
「それはよかったわ。どう?身体も少し温まった?」
そういえば――。
ポカポカと頭から指の先まであたたかく感じる。
「今は指先までぽかぽかしています。私身体が冷えていたんですね」
女性は真っ直ぐに穂花を見つめ、眉を寄せた。
「身体が冷えていたのにも気づかなかったのね」
女性は手を伸ばした。
その手で、穂花の両手を優しく包み込む。
一瞬ドキッとした。
こんな風に手を握られることなんて、今までなかったから。
「人はね、不調が続くと、それはやがて麻痺になるのよ」
深刻な面持ち。
その女性の言葉と表情が、深く胸に刺さる。
「この後、一時間ほど時間ある?」
「え?」
「少し身体を見せてほしいの」
「でも……私、そんなに手持ちがなくって……すみません」
「お金もないのに入って来たのか」と思われそうで、内心ひやりとした。
だが、女性は優しく声をかける。
「お金はいいの。時間があるなら少し付き合ってほしいのよ」
「時間は……あります」
いつもなら、疲れてるしすぐに帰りたいと思ったはずだ。
だがこの時は、不思議とそうは思わなかった。
「じゃあ、とりあえずこれに着替えてね」
やや声を弾ませながら、奥から持ってきたのは、施術用らしいTシャツとズボンだった。
「スーツだとシワになっちゃうでしょ?それに身体の力も抜けないと思うから」
穂花は言われるがまま、Tシャツとズボンに着替えた。
「着替え、終わった?」
カーテン越しに声をかける女性。
「はい……」
これから何が始まるのだろう――。
ゆっくりとカーテンを開ける。
穂花の不安をよそに、そこには満面の笑みを浮かべた女性が立っていた。
「心配しなくても大丈夫よ。このベッドに仰向けに寝てくれる?」
「はい……」
女性に促されるまま、穂花はベッドに横たわった。
「ちょっと失礼するわね」
そう言うと、ふわっと白く柔らかな布が、穂花の顔を覆った。
その布はガーゼのように薄く、うっすらと周囲の様子を見ることができた。
直接顔を見られることもない。
照明の明かりもやわらぎ、そこはまるで一人だけの世界だった。
(なんだか落ちつく)
「もし痛みを感じたりした時は、遠慮なく言ってね」
「はい」
痛み、という言葉に反応して、身体に力が入るのがわかった。
それから女性は、そっと頭に手を置いた。
(不思議……。まだ何もしていないのに、手が触れたところがじんわりとあたたかくて、それだけで気持ちいい)
やがてゆっくりと、女性はその手を動かし始めた。
優しい刺激。
決して強くはない。押されているのかどうかも分からないほどの、絶妙な力加減だった。
頭の隅々を優しく刺激し、やがてその手は耳周りから首の後ろへと下りていく。
ゆっくりと丁寧な手技。
(気持ちいい……)
店内に漂う優しい香り。
月花茶が残す余韻。
あたたかな手のぬくもり。
心地よい刺激に身を委ねながら、施術はゆっくりと続いていった。
やがて――。
穂花の意識は、深いところまで沈んでいった。




