第31話
空を割ったヴィスの剣はルミナスを血で染める。
本来であればそうなるはずだった。だが実際にはヴィスの力は顕現されず、刃が空を切ったのみであった。
「馬鹿な」
手練れのヴィスが神技を発動し損ねることなどあり得ない。ならばこれは──と彼の中で瞬間的に理解が及び、しかし一瞬の停滞を生んだ。
その間にアオイは既に動いていた。
「──神技か」
ヴィスは躱すこともできずに顔面に拳が突き刺さった。
ヴィスは後方に吹き飛ばされながらも途中で体勢を立て直し、軽く前のめりになりながらも、倒れることはなかった。ぱきりと音がなった。仮面に亀裂が走り、ばらばらになって地面に落ちて行く。
ヴィスの全身から黒い瘴気が噴き出た。靄は空気に溶けて霧散していった。
「この力は」
溶けだしているのは魔王のシン。
それを認識してヴィスは完全に理解する。
アオイの力の正体について。
「アスタルトの初代が目指した神技は、シンの働きを無効化するものだという」
継承術によりあらゆる種のシンの記憶を蓄積し、シンという存在を全て解明しそれを無害化、または無効化する方法を編み出す。アオイの持つ疑似的神技の再現や、その能力を見抜くなどのその他の力はこれにたどり着くまでに結果的に得た、ただの付随する力にすぎなかった。
アスタルトの一族の行為は非道なものだったが、初代が目指したその志は世を乱す力を無力化させたいとの願いだったのだ。
「まさか完成させていたのか」
無敵に思える力だがいくつかの制限はあった。その神技を見た回数が多ければ多いほど完全なる無効化に成功する。初見では威力を弱めるぐらいにしか働かない可能性があった。そしてアオイが直接触れてシンを付着させたものか、アオイ自身に作用するものしか打ち消すことはできない。下準備のためわざわざヴィスの剣を掴み取ることもしている。だがそんなことは解説してやる理由もなかった。
「お前の負けだ」
アオイは静かに確固たる事実を突きつけた。
ヴィスは急速に力を失いつつあった。
アオイの一撃はただ仮面を破壊しただけではない、そこに宿った魔王のシンにまで影響を与えた。そのため魔王のシンを祓われた身体は朽ち果てようとしていた。
戦闘の終わりを見届けるためにルミナスがアオイの横に立った。
「貴方はどうしてこんなことを……復讐のためですか」
ヴィスは何を馬鹿なことを聞くのだと笑う。
「悪ゆえに悪。私の存在そのものが貴様らにとっての災いよ」
ルミナスの踏み込もうとする言葉に、ただ淡々と返した。
「私には、貴方が深い悲しみと怒りを抱いていることが分かります。私は貴方の傷は癒せないけど、もう貴方のように傷つく人がいない世界を目指したい。だからお願いです。どうか、最後の時にまで人を呪わないで」
心の限りの感情を乗せて手を差し伸べた。
「私たち一人一人の願いは、世界を変えてしまえるんですから」
それは救いの手に他ならなかった。だがそんな言葉もヴィスには届かない。
「甘い。とことん甘い。全ての者を救えるか」
全ての者は救えない、アオイは疑う余地もない出来事だと考えている。だが、彼女はきっと諦めないのだろう。それをあざ笑う人間もいるはずだ。それでもアオイは他人に優しく生きたいと願う人を笑うつもりはなかった。
「綺麗ごとにすぎん。どんな道を進んだとて必ず切り捨てられる人間は生まれる。必ず来るぞ。選ばなくてはいけない日が。妻と母と、父と子と、その愛するもの同士の命を天秤にかけて選択する日が。国のために大切なものを犠牲にしなくてはいけない時もある。見ものだな、その時が。はたしてお前らはどう選択するのかな」
実に楽しみだとヴィスは愉快気に口の端を歪めた。
「……私は」
ルミナスが答えに窮したところで、アオイは後ろから彼女の肩に手を置く。
「ばーか。そんなの簡単だ」
なんてことないようにアオイは断言する。
「俺が奥さんを助けるから、ルミナスが母親を助ければいい。これで完璧だ」
自画自賛してうんうん頷く。
一人で足りないならみんなで力を合わせればいい。
元々は友からの受け売りにすぎなかったが。
「なんならお前も手を貸すか? そしたらもっと簡単になるぜ」
ヴィスは呆気にとられたように固まり、やがてふっと微笑した。
ヴィスは身を引きずって壁が崩れ落ちて穴が開いている場所に向かった。アオイは咄嗟に走り出そうとしたルミナスの肩を押さえる。
「今回はお前たちの勝ちだ……だが私は必ずまた現れるぞ。人が悪意を持つ限り」
捨て台詞を残して彼は断崖から身を躍らせた。
一瞬後にはその場にはもはやヴィスがいた証しなどなく、ただ残された言葉だけが脳裏に反響していた。
そしてその頃、もう一方の場所でも決着がついていた。
倒れ込むゼインとラザル、ただしゼインの手には剣があり、ラザルは無手だった。怪我の程度で言えばゼインのほうが遥かに満身創痍だ。
それは執念によるものか。
「どうやって私の神技の影響下から逃れた。まさか平民に足元をすくわれるとは」
「時の魔術師の力を借りてたのさ。あんたと会う前には時を止めてもらってた。最初っから神技なんざかかっちゃいない」
ラザルも納得いったようで、ふんと鼻を鳴らした。
「殺せばいい。私はもう終わりだ」
ラザルは横たわったまま言う。諦めの混じった静かな声だった。
「殺しはしない。目的はもう十分に果たした。それに……元々あんたに恨みはない」
ゼインは地面にうずくまりながらもアオイにわずかに視線を送った。それはヴィスのように見境のない破壊をふりまく存在にはならないという意思が込められていた。
「きっと後悔することになる。正教の名の下に貴族と平民の立場を分け隔て力を与える、それがこの国の仕組み。それを乱せば必ず争いが起る。陛下とルミナス様は危険だ。この国を争いにもたらす可能性がある」
「もし貴族たちが権威をかさに着て横暴を続けるなら、それは避けられない道だ。平民を舐めるんじゃないぞ。いずれ自由を求めて戦う人も現れる」
「その結果多くの血が流れるとしても?」
「ああ」ゼインは断言する。
ラザルは理解できないといった様子で顔を歪めた。
「自由が命よりも大切か?」
「大事に決まってる。ただし自分のためじゃなく子供のためだ。未来のためだ。それは命を懸けるのに十分な理由になる」
「子供か……」
ラザルの口調には哀愁を帯びていた。彼の跡継ぎたちは先の大戦によって亡くなったのだ。考え方は違えど子供のためにかける思いは同じだったのかもしれない。
わずかに静かな空気が訪れたところで「ゼインの馬鹿!」怒声が響いた。
「どうしてこんな勝手するの! ほんと信じられない!」
目に見えてレヴィの怒りは沸騰していた。
彼女と一緒に戻ってきたアリスは小声で言う。
「こちらも押さえました」
「助かる」
アリスは両腕で魔王のシンの結晶が入った宝箱を抱えていた。縛られて地面に転がっているお面を被った魔術師の露わになった素顔にも特徴的な刺青があった、やはり彼女もアスタルトの人間だったのだ。
二人の会話をかき消すほど大きくレヴィは言う。
「私のためにこんな馬鹿なことしたんでしょ!」
「違う。俺はただ復讐のため──」
「口答えしない! 分かるに決まってるでしょ!」
反論を許さずにレヴィは捲し立てた。
このような反逆行為が明るみに出ればフェルノート家の所領は没収されることになるだろう。しかしその財産は直系のレヴィにほとんど転がりこむことになる。なんせラザルがレヴィを政略結婚に使うために家の一員だと正当に認めさせたのだから。
「あのね! 下手したらこれ反逆罪だよ! もうほんと馬鹿! 親代わりが反逆罪で処罰されるぐらいだったら政略結婚したほうがましだよ! そこんところ分かってるの!?」
「絶対に駄目だ。俺はそんなことさせたくなかった」
「じゃあこれから私がゼインの自由のために何をしても許してくれる?」
親が子のために無茶な選択をするのなら、子もまたそうしたいと思って不思議はない。レヴィの発言は至極当然のことだった。
「例えばお偉いさんを私の色気を使って籠絡しちゃったり」
「……色気?」
おうむ返しにゼインは呟いて、レヴィをまじまじと見つめた。
「し、失礼だな! 確かにできないけどさ!」
真っ赤になったレヴィは気を取り直すして何度か咳払いする。
「私はね。ゼインにもっと楽に生きて欲しいんだよ。そんな難しい顔してたら面白くないじゃん。確かにお母さんのことは大変だけど、それはそれだよ。もっと楽しもうって。やっぱり笑顔が一番。お母さんが起きた時にそんなくっらい顔見せる気なの?」
お前には敵わないな──とゼインは肩の力を抜いた。
「悪かったな」
「分かればよしだ」
レヴィはいつものように明るい笑顔を浮かべた。
これからレヴィも自らの身体の価値の重さに気づくのかもしれない。無謀な行為によって、ゼインが行ったこれだけのことを無に帰すわけにはいかないからだ。
人間はみな他人から何かを与えられ、受け継いで生きている。それを善に使うか悪に使うか、無にするか有にするか、それはその人自身のあり方にかかっているのだ。世界とはその一つ一つの生き方の積み重なったものに他ならなかった。
「ありがと……ゼイン」
背を向けて囁いた声は果たして届いたのだろうか。




