第十一話
どのくらいうつらうつらとしていたのでしょうか。
アキくんが緩やかな眠りから覚めて辺りを見回すと、そこは綺麗な茜色の世界でした。
金属にキラキラと反射した光が煌めいて、部屋の中を美しく彩っていました。
その色はもうすぐ夜の帳が下りることを物語っています。
けれどもまだ柚里は戻ってはいないようでした。
柚里、まだかなあ
仕事っていったいいつまでやってんやろ
もう帰ってきてもいいんとちゃうんかなあ
アキくんは王子様なので、時間が決まった仕事などしたことはありませんでしたが、城の中にはいろんな職業の人がいますのである程度の時間というのはわかっているつもりでした。
王様には決められた時間はありませんでした。寝所に下がったとしても火急の用でいつだって使者がやってきますし、食事をとっていてもいつでも宰相が横に控えてなにやら難しい話をしながらの食事をしていました。
宰相が登城するのは陽が昇りはじめる前で、それでも夜遅くまで仕事をしていました。
文官たちの登城は宰相と同じでしたが、日が陰る前に帰って行きました。
武官たちは二交代制でしたから、登城時間もまちまちです。
王様と宰相を除けば、だいたい一人半日ほど働くと帰っていきます。
ということは、柚里も朝早く出かけたのですから、もう帰ってきていい時間のはずです。
だいたい女性が文官で働くというのはとても珍しいことだと思っていました。
城で働く女性というのは女官か侍女、もしくは洗濯場ときまっていましたから、柚里が文官だということは驚き以外何物でもありませんでした。
帰りが遅いんはやっぱり女性で文官してるだけあって柚里が優秀だからかなあ
あいかわらず物差しが自分なので、世界が違うということが未だにのみ込めていないアキくんなのでした。
起きたついでに小腹が空いたので、お弁当の残りをましましと食べ始めたころ。
がちゃがちゃがちゃんっ!
「ただいま~。アキくん、いい子にしてた?」
柚里が飛び込むように部屋に入ってきました。
そしてアキくんをむんずと掴んで頬ずりをしました。
ちりーん♪
魔法の音楽が聞こえます。
どうしてその音が鳴るのかアキくんも柚里もさっぱりわかりませんでしたが、柚里は頬ずりをやめることはありませんでした。
なぜって、柚里は嬉しかったんです。
本当に本当に嬉しかったんです。
だって、誰かが家にいてくれるなんてことは、一人暮らしをし始めてからなかったことなのです。
それに相手は王子様といえど今はかわいらしいうさぎさんです。
その姿は愛らしい以外何物でもありません。
愛らしい生きものが家で待ってていてくれるなんて、嬉しくないはずがありませんでした。
「遅かったなあ」
「え~?遅くはないよ。いつもこのくらいだし」
「遅いって!もう暗いやん。一体何時間働かなあかんねん」
「えーっと。だいたい8時間くらいかな?でも通勤時間があるから2時間たして、十時間は帰ってこれないね」
これにはアキくんは驚きました。
だって十時間ですよ?
アキくんは十時間一人で『お留守番』をしていたことになります。
それに女性が十時間家事以外で働くというのにも驚きです。
だって、女性は家事をしなくちゃいけないのに、外で十時間働いていたら家事をする時間はなくなりますし、家事をしたら今度は寝る時間がなくなるではありませんか。
「あかん。柚里、そらあかんて」
まだ頬ずりしている柚里のほっぺたを短い前足でぐいぐいと押して頬ずりをやめさせました。
そして前足でぺしぺしと柚里の鼻を叩いていいました。
「そんなん働き過ぎやん。身体おかしなるで?」
「うわー。アキくんが私の心配してくれてるよー」
家に誰かいてくれるということだけでも嬉しすぎてどうしようと思っていた柚里なのに、アキくんは柚里の身体の心配までしてくれるのです。
アキくん、拾ってよかったあ
思わずアキくんにキスをしようとした柚里でしたが、アキくんの前足に阻まれてしまいました。
「あかんて。ほんま。女性がそんなに働くのはようないで?そんなに働いたら寝る暇ないんとちゃうんか」
「寝る暇って。……結構あるけど?」
「えええ??なんで??十時間外で働いてて、家に帰ってきたら家事せなあかんのやろ?家事なんてめっちゃ大変やん」
「アキくん……?もしかしてまたアキくんの国の生活とこっちの生活を比べてない?」
「比べるもなにも。家事はどこでもいっしょやん」
ちっちっち
ちょっとお下品にも舌をならして柚里は言いました。
「こちらの世界はなんでも機械がしてくれるんだなあ。だからたぶんアキくんの国とは家事にかかる時間が全然違うと思うよ?ほら。お水だって水道の蛇口をひねると出てくるでしょ?それにトイレだって水でながせるじゃない」
「水でながせる……?どうやって?」
「どうやってって。昨日アキくん使ったでしょ、おトイレ」
「そら使ったけど。でも水流すって意味がわからんのやけど」
アキくんは心底わからないとばかりに、首をちょっと傾げて柚里の頬を両手で掴みました。
「え……。アキくんってばトイレ使った後に水流さなかったの?」
「だから。なんで水流すとかそういう話になるん?」
「え。え。え。えええええっっっ?!」
柚里はアキくんを両手に掴んだまま、ごろんと後ろにひっくり返ってしまいました。
だって、トイレに猛ダッシュしたアキくんだから、使い方を知っていたと思ったのです。
だけどよくよく考えてみたら、アキくんの国はここと違ってもう少し文明が遅れているようなのです。
ということは水洗トイレを知らなくても仕方がないし、本当に水道がないのかもしれません。
はあああああ
アキくんに何を教えるって、生活の一から全部教えなくちゃいけないということに柚里はやっと気がついてがっくりとうなだれてしまったのでした。