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燐の硫黄  作者: 虹藤時雨
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第十八話 思想の解放

硫門正継が、ふいに胸を押さえる。

「……っ!」

苦しそうに膝をつく。

「正継さん!」

和悠たちが駆け寄る。

正継の瞳に、一瞬だけ黒い光が宿る。

誰にも見えない。

ただ一人を除いて……

硫破だけが、その異変に気づいていた。

足を止める。

小さく息を吐く。

「やっぱり」

「残ってたか」

その声は風に溶ける。

千年続いた制度は終わった。

だが、千年続いた"思想"は、まだ終わっていなかった。



苦しそうに胸を押さえ、そのまま石畳へ手をつく。

「正継さん!」

和悠と燐が駆け寄る。

悠生もすぐに肩を支えた。

「どうした!」

正継は首を振る。

「分からない……」

「急に頭が……」

その時だった。

石段を下りかけていた硫破が足を止める。

ゆっくりと振り返ると、その表情から笑みが消えていた。

「和悠」

その一言だけで、和悠は何かを察した。

「……硫破さん」

硫破は正継の前まで歩み寄る。

そして静かにしゃがみ込んだ。

「少し失礼するよ」

右手を正継の額へ添える。

目を閉じる。

数秒後、

硫破は小さく息を吐いた。

「やっぱり」

和悠が尋ねる。

「何があったんですか」

硫破はすぐには答えなかった。

代わりにサルファロスへ視線を向ける。

老人も静かに頷く。

「話す時が来たようだな」

村人たちも息を呑む。

硫破は立ち上がる。

「正継」

「君は、自分の考えで生きてきたと思ってる?」

正継は戸惑う。

「当然です」

「私は、硫門家当主として……」

そこまで言って、言葉が止まる。

硫破は静かに問いを重ねた。

「その"当たり前"は」

「本当に君のもの?」

正継の瞳が揺れる。

胸の奥で、何かが引っかかった。

サルファロスがゆっくりと口を開く。

「硫門家には」

「もう一つの力がある」

村人たちがざわつく。

「もう一つ……?」

「万物支配じゃないのか?」

老人は首を横に振った。

「万物支配」

「それは表に伝えられた固有能力」

「そして」

「歴代当主だけが知る、もう一つの力」

静寂が訪れる。

「――思想支配」

その瞬間、

境内から音が消えたように感じた。

和悠は目を見開く。

燐も息を呑む。

「思想……支配」

硫破は静かに続ける。

「人の考え方」

「価値観」

「信念」

「それらへ、ごく自然に干渉する力」

「本人は操作されたことすら気付かない」

正継は震えながら首を振る。

「違う……」

「私は……」

「私の意思で……」

硫破は悲しそうな表情になる。

「違わない」

「君の"守りたい"という気持ちは本物だ」

「でも」

「制度を疑えなかった理由」

「『悠』を犠牲にすることが当然だと思い続けた理由」

「それだけは」

「君自身の意思じゃない」

正継の呼吸が乱れる。

頭の奥で、記憶が軋み始めた。

幼い頃。

父の声。

『当主とは、村を守る者だ』

『そのための犠牲は尊い』

『疑う必要はない』

『これが正しい』

『これだけが正しい』

その言葉が、何度も何度も繰り返される。

「……あ」

正継は頭を抱えた。

「やめろ……」

「思い出したくない……」

和悠は正継を支える。

「正継さん!」

硫破は静かに言った。

「思い出して」

「苦しいだろう」

「でも」

「その先にしか、本当の君はいない」

その時。

和悠の右手に刻まれた紋様が淡く輝いた。

《書物閲覧》。

その力が、正継の中に刻まれた"見えない記録"へ反応していた。

和悠は驚く。

「これは……」

まるで一冊の本のようだった。

文字ではない。

心そのものが、一ページずつ綴られている。

そして、その最初のページには。

黒い刻印が、深く刻まれていた。

『従え』

そのたった二文字が、正継の人生すべてを縛り続けていたのである……

『従え』

その二文字は、正継の心の最も深い場所へ刻まれていた。

和悠の《書物閲覧》によって映し出されたのは、本ではない。

正継という一人の人間が歩んできた人生、そのものだった。

和悠は息を呑む。

「……これが」

「思想支配」

硫破は静かに首を横へ振る。

「違う」

「これは能力じゃない」

「え……?」

「万物支配の応用だ」

その場にいた全員が硫破を見る。

硫破はゆっくりと説明を始めた。

「万物支配」

「その"万物"には、人の脳も含まれる」

「直接命令することはできない」

「でも」

「長い年月をかければ」

「価値観を少しずつ誘導することはできる」

サルファロスは静かに目を閉じる。

「それが……」

「歴代硫門家当主にだけ伝えられてきた」

「禁じられた使い方だった」

和悠は正継を見る。

正継は苦しそうに頭を抱えている。

「私は……」

「父上に……」

「毎日」

「『これが正しい』と……」

記憶が次々によみがえる。

幼い日の自分。

優しく笑う父。

肩へ置かれる手。

『正継』

『村を守るんだ』

『疑う必要はない』

『これだけが正しい』

その言葉は毎日のように繰り返された。

知らないうちに、少しずつ、少しずつ……

正継の心へ刻まれていった。

和悠は拳を握る。

「こんなの」

「教育じゃない」

「呪いだ」

硫破は静かに頷いた。

「そう」

「だから解かなきゃいけない」

和悠は右手を見る。

そこには刻印が輝いている。

「……できます」

硫破は優しく笑った。

「そう、君にしかできない」

和悠は正継の前へ座る。

「正継さん」

正継はゆっくり顔を上げた。

涙で視界が滲んでいる。

「怖いです」

「もし」

「これが消えたら」

「私は」

「私じゃなくなるかもしれない」

和悠は静かに首を横へ振った。

「違います」

「消えるのは」

「あなたじゃない」

「あなたを縛ってきた鎖です」

その言葉に、正継の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……お願いします」

和悠は頷く。

右手を正継の胸へ添える。

刻印が白銀の光を放つ。

「刻印」

空中へ一文字。

『解』

その文字はゆっくりと正継の胸へ吸い込まれていく。

次の瞬間。

和悠の《書物閲覧》に映る黒い文字が音もなく崩れ始めた。

『従え』

『疑うな』

『犠牲は当然』

『これだけが正しい』

一つ、

また一つと、

黒い文字は白い光へ変わり、静かに消えていく。

正継は目を閉じた。

幼い頃の記憶。

父の笑顔。

厳しい言葉。

そのすべてが、本来の姿へ戻っていく。

父もまた祖父から同じように育てられた。

祖父も、

そのまた祖父も。

誰一人として、悪意だけで生きていたわけではない。

ただ、「正しい」と信じ続けてきただけだった。

正継は静かに涙を流した。

「父上……」

「あなたも……」

「苦しかったのですね」

硫破は何も言わなかった。

サルファロスも静かに目を閉じる。

やがて、正継はゆっくりと立ち上がった。

その表情は、これまでとは違っていた。

迷いはある。

後悔もある。

それでも、その瞳には確かな意思が宿っていた。

正継は和悠へ深く頭を下げる。

「ありがとう」

「ようやく」

「私は、自分の足で歩き始められます」

境内を、穏やかな風が吹き抜けた。

硫破はその風を感じながら、小さく微笑む。

「これで本当に終わったね」

和悠は空を見上げる。

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