第十六話 悠久の撤廃
白銀の光は夜空を貫き、巨大な怨念を包み込んだ。
境内を覆っていた黒い霧が、少しずつ揺らぐ。
「効いてる……!」
燐が息を呑む。
しかし、次の瞬間だった。
「アアアアアアァァァ――!」
巨大な怨念が絶叫する。
その叫びは怒りではない。
悲しみ、苦しみ……
そして”憎しみ”
和悠の胸に、その感情が直接流れ込んできた。
『どうして』
『どうして私だった』
『兄は生きた』
『私は死んだ』
『名前だけで』
『ただ、それだけで』
和悠は思わず膝をつく。
「くっ……!」
頭の中へ、無数の記憶が流れ込む。
幼い少女、まだ五つにも満たない男の子。
兄の身代わりになった青年、未来を夢見ていた娘。
皆、名前の最後に「悠」を持っていた。
誰一人として、自ら死を望んだ者はいない。
「和悠!」
燐が駆け寄る。
和悠は苦しそうに首を振った。
「違う……」
「この人たちは……」
「僕たちを恨んでるんじゃない」
ゆっくりと顔を上げる。
「救ってほしかっただけなんだ」
その言葉を聞き、硫破は静かに目を閉じた。
「ようやく届いたね」
正継も怨念を見つめる。
その表情からは、先ほどまでの敵意が消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、深い苦悩だった。
「私は……」
「いや、我々は……」
「何百年も」
「この声を聞こうとしなかったのか」
サルファロスは首を横に振る。
「違う」
「聞けなかった」
「お前もまた、縛られていた」
正継は黙ったまま拳を握る。
自分の信じてきた正義。
それは本当に、自分自身の意思だったのだろうか。
その疑問が、初めて心に芽生える。
一方、和悠は静かに巨大な怨念へ歩み出た。
悠生が止めようとする。
「危険だ!」
「大丈夫」
和悠は振り返らなかった。
「この人たちは敵じゃない」
「ずっと、一人ぼっちだっただけなんだ」
右手の刻印が柔らかく光る。
和悠は刀ではなく、その手を怨念へ向けた。
「苦しかったよね」
「誰にも知られなくて」
「誰にも名前を呼ばれなくて」
巨大な怨念の動きが止まる。
その黒い身体が、わずかに震えた。
「もう終わりにしよう」
「もう、悠の制度は終わる」
その言葉が届いた瞬間、巨大な怨念の身体から、黒い霧が一筋ずつ剥がれ落ち始める。
霧の中から現れたのは、一人の少女だった。
まだ十歳ほど。
優しく微笑み、和悠を見つめる。
『ありがとう』
その声は、とても静かだった。
少女の姿は光となり、夜空へ溶けていく。
それをきっかけに、巨大な怨念の中から次々と人影が現れ始めた。
青年、
老人、
幼い子ども、
皆、穏やかな表情を浮かべている。
彼らは互いに顔を見合わせ、小さく笑い合うと、一人、また一人と光へ変わっていった。
境内を包んでいた禍々しい空気は消え、代わりに温かな風が吹き抜ける。
桜の花びらが舞う。
長い年月、苦しみ続けた魂たちは、ようやく安らぎを得た。
だが、その場に残された者たちには、まだ終わらせなければならないものがあった。
千年続いた制度。
「久遠の悠久」。
その真実と決着が、いよいよ明かされようとしていた。
境内を覆っていた黒い霧は、ゆっくりと夜空へ溶けていった。
誰一人として歓声を上げる者はいない。
ただ静寂だけが、その場を包んでいた。
村人たちは、光となって昇っていく魂を見つめ続ける。
長い間、「災い」と恐れてきたもの。
その正体は、救いを求め続けた人々だった。
その事実は、あまりにも重かった。
和悠は静かに右手を下ろした。
刻印の光も、少しずつ消えていく。
燐が隣へ歩み寄る。
「終わった……のかな」
和悠は首を横に振る。
「いや」
「まだ終わってない」
視線の先には、硫門正継が立っていた。
正継は黙ったまま、光が消えていく空を見つめている。
その横へ、サルファロスが歩み寄った。
「正継」
「……はい」
「お前は今、何を思う」
しばらく沈黙が続く。
やがて正継は、小さく口を開いた。
「分かりません」
「私は、この制度が村を守ってきたと信じていました」
「今でも、その思いが消えたわけではありません」
村人たちも耳を傾ける。
正継は続けた。
「ですが」
「守られていた命があれば」
「奪われた命もあった」
「私は、その事実から目を背けていたのでしょう」
その言葉に、和悠は静かに頷いた。
「正継さん」
「あなたは敵じゃありません」
「え……?」
「あなたも、この村を守ろうとしてきた」
「その気持ちは、本物だった」
正継は目を閉じる。
胸の奥が締め付けられる。
自分は正しかったのか。
間違っていたのか。
その答えは、まだ出ない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
「私は……」
「もう、誰にも同じ思いをさせたくありません」
その一言だった。
サルファロスが穏やかに笑う。
「それで十分だ」
老人は硫黄神社を見上げる。
月は静かに村を照らしていた。
「この制度は」
「今日で終わりにしよう」
その言葉に、村人たちが息を呑む。
「え……」
「終わる……?」
「本当に?」
サルファロスはゆっくりと頷いた。
「『久遠の悠久』」
「それは、私が望んだ制度ではない」
「人の恐れと、人の善意が、長い年月をかけて歪めてしまったものだ」
正継はゆっくりと村人たちへ向き直る。
その瞳に迷いは残っていた。
それでも、覚悟は決まっていた。
「硫門家当主として宣言します」
境内に静かな声が響く。
「本日をもって、『久遠の悠久』を撤廃します」
「これより先、『悠』の名によって命が選ばれることはありません」
村人たちは顔を見合わせる。
信じられない。
そんな表情だった。
やがて、一人の老人が前へ出た。
「……本当に」
「孫に『悠』と付けても」
正継は力強く頷く。
「構いません」
「名前は」
「願いを込めるものです」
「命を奪う理由にしてはならない」
その言葉を聞いた瞬間。
あちこちからすすり泣く声が聞こえ始めた。
長い間、心の奥へ押し込めてきた悲しみ。
恐怖。
後悔。
それらが涙となって溢れ出していく。
和悠は静かに空を見上げた。
風が吹く。
桜の花びらが舞う。
その花びらの向こうで、硫破は一人、目を閉じていた。
「……ようやく」
誰にも聞こえないほど小さな声。
それは千年以上待ち続けた者だけが漏らすことのできる安堵だった。
だが、その直後。
硫破は正継を見つめる。
正継の胸元。
そこに、ごく淡い黒い光が一瞬だけ揺らいだ。
硫破の表情がわずかに曇る。
「まだ……残っている」
誰にも聞こえない声で呟く。
正継自身も気づいていない。
父から受け継がれ、さらにその父から受け継がれてきた、見えない鎖。
思想支配、
制度は終わった。
だが、千年積み重ねられた呪縛は、まだ正継の心の奥底に静かに残っていた。
硫破は何も言わない。
今、それを明かす時ではない。
その鎖を断ち切るのは、神ではない。
人でなければならないのだから。
夜明け前の空に、一筋の光が差し込んだ。
新しい時代は、静かに始まろうとしていた。




