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迎えた瞳さんの引退の日。

私は初めて客の来店を断った。

今日だけは、瞳さんが主役の1日。

自分の卓のせいで瞳さんのお客様が入れないことがないように。夜の街にある、暗黙のルールだ。

今日は瞳さんのヘルプに入りたい。と、申し出たのは、私なりの恩返しだった。

来店する面々は、常連さんばかり。

瞳さんがここで積み上げてきた日々を、肌で感じる。


「おっ凛ちゃん、今日は瞳ちゃんで入るよ。」


芝さんが、出会ってから初めて私以外を指名した。

昔、瞳さんを指名していたことがあったのだろうか。

すっかり忘れていたが、そういえばこの人は”コロコロ指名替えする”と噂の客だったことを思い出した。


「もちろん!でも意外かも。前、指名してた?」


「うーん。まあ、指名してたときはあったよ。なんだろうな、子守?人に頼まれてね、“ひーをよろしく”って。」


コンコン。と、ノックをする音が聞こえて、私たちは扉を見た。

そこに現れた瞳さんは芝さんを見て、驚いたように目を見開いた。


「え、芝さん?も〜!もういいってば。私今日で35よ?」


瞳さんは軽快に笑いながら、隣に座る。

そして両手で芝さんの手を握り「でも、ありがとう。」と真っ直ぐ伝えていた。

その姿に、芝さんはコクリと頷いた。


「憑き物が落ちたような顔だな。思い残すことはないのか?」


「ないない!長く居すぎちゃったくらいよ。少し寂しいけどね。」


「ああ、俺も寂しいよ。」


2人の独特な空気を、私はただ見ていた。

芝さんが瞳さんに向ける言葉は、私へのものとは違う。

まるで親のような、恩師のような、そんな温かさがあった。


「私、知ってたよ。芝さん何かと気にかけてくれてたこと。店長に私の様子聞いたり、裏でお客さん当てがったりしてたでしょ。」


「はははっ。バレてたらちょっと恥ずかしいなあ〜。瞳ちゃんは、サキの忘れ形見みたいなものだから。」


「…うん。ごめんね。あの頃は気持ちの整理がつかなくて、芝さんのこと冷たくあしらったよね。」


芝さんはニコリと笑って頷いた。


「『もうサキちゃんの話しないで!』『指名しないで!』『店来るならちゃんと自分が好きな子指名しろよ!』って、散々だったな。でもそれも反抗期みたいなもので、俺たち大人はただ見守ってあげるだけなんだよ。今こうして前に進み出した瞳ちゃんの姿が、答えなんだから。」


瞳さんの目が、キラキラと潤んでいる。

それでも笑顔を絶やさない姿は、仕事の責任感、人としてのプライド、瞳さんの生き方が映し出されていた。

2人の空気を壊さぬよう、そっと部屋から抜ける。


「凛ー!瞳ヘルプお願い!」


そう黒服に声をかけられてついた席には、クニさんとガラの悪い男たちが座っていた。

クニさんはタバコを吸いながら私を一瞥したあと、顎で隣に座るよう諭した。


「そういえば、瞳さんのラスト来るって言ってたね!」


そうニコニコと笑いかけたが、クニさんは鼻で笑うだけだった。

返事がないのは慣れっこだ。

混んでいるせいか、なかなか他の女の子がつかない。

飲むペースが早い3人の酒をせっせと作っていたとき、


「吸う?」


と、クニさんが吸っているタバコを少し持ち上げる仕草をした。

吸ってもいいと言われるまで、私たちは卓でタバコを吸うことができないからだ。


「あ、うん。」


私は迷いなくクニさんの持っているタバコに顔を寄せた。


「ちげーよ、ばか。」


そう言ってクニさんは、タバコの箱を私に渡した。


「あ、ごめん…」


ドッと冷や汗をかいた。

クニさんを接客するのは初めてだったからか、つい距離感を誤ってしまったのだ。

瞳さんの席でたくさん酒を飲んで、酔ってしまったのかもしれない。

タバコを吸って、気を落ち着かせた。


「えー!クニさん、来てくれたんですか?」


瞳さんの声がして、立ち上がろうとした私をクニさんの手が制止する。

瞳さんを逆側の隣に座らせて、


「お前に“さん”を付けられる日が来るとは思わなかったな。」


と、左頬を上げて笑った。


「もうやだ〜!忘れてくださいよ!凛だって知らないんだから!」


「いくつになった?」


「もう35です。20年間、お世話になりました。」


「35か。早いな。次は決まってんのか?」


「実はまだ決めてません!とりあえずしばらく生きていけるお金は稼がせてもらったし、ゆっくりと考えて決めていこうかと。」


「…お前らしいな。」


そう言って、クニさんはタバコを灰皿に押し付けた。

クニさんの視線が不自然に通路へ動いた時、


「ク、クニさん!お久しぶりです。」


金髪の男が被っていたキャップを脱いで深々と頭を下げた。

しばらくして顔を上げたその男は、アイちゃんだった。


「ふっ。お前はまだ残るのか。」


「まあ…そうっすね…」


アイちゃんは、クニさんとは素で話をするらしい。

チラリと瞳さんの方へ視線が動いたが、何も言わずに去っていった。

瞳さんは表情を変えずに、グラスの水滴を拭う。


「シャンパンだけ頼んで。もうこの席はいい。」


クニさんはぶっきらぼうな物言いをしながらも、忙しい瞳さんを気遣った。

瞳さんは微笑んで、静かに頷く。


「クニさん、凛のことよろしくお願いします。」


そうクニさんに頭を下げて、瞳さんは席を立った。

私は祝いのシャンパンをたらふく飲んだあと、クニさんを見送った。


水を飲みに通路をフラフラと歩いていると、後ろから腕を掴まれる。

アイちゃんだ。


「凛ちゃん、ごめん。瞳全然席付いてくれないんだけど…なんとか言ってくれない?」


困ったように眉が下がっている。

もう来店して1時間近くになるだろう。


「え?まだ付いてない?」


アイちゃんはすれ違う女の子たちから、“あれ、アイちゃん?”と声をかけられるたび、鎧をかぶってヒラヒラと手を振りながら頷いた。


「おかしいな〜。ちょっと待ってて!」


そう言って私は、つけ回しをする黒服の元へ聞きにいった。

黒服は困ったように頭をかきながら、“瞳が付かないって…”と漏らす。

おかしい。プロ意識の高い瞳さんらしくないのだ。

私の中で点と点が結びつきそうで結びつかない。

芝さん、クニさん、アイちゃん、瞳さん。

この街は広く見えて狭い。

長年居れば横のつながりは生まれてくるものだろう。

しかし、何かが抜けている気がする。


あくまで予想だが、きっとこの中心にはサキさんがいる。

わからない。何もわからないけれど、今日瞳さんとアイちゃんは会うべき。

奇妙な責任感に駆られて、私は瞳さんを探した。


「えっなに!?」


と戸惑う瞳さんの腕を引っ張って、アイちゃんの元へ連れていった。

アイちゃんは瞳さんを見て、


「久しぶりだな。」


と、優しく、どこか悲しそうな笑顔を見せた。

瞳さんはため息を吐いて、


「なんで来たの?お金いいから、もう帰んなよ。」


そう、アイちゃんと目も合わせずに吐き捨てた。


「…うん。わかった。…ただ、さ、お前が次にどんな仕事しようが、誰と付き合おうが、結婚しようがなんでもいいけど、住んでる場所だけはちゃんと教えろよ。」


「…は?関係ない。」


瞳さんが眉間に皺を寄せながら、アイちゃんを睨みつける。

瞳さんが場を乱すところを初めて見た。

きっとそれだけ、アイちゃんは特別な存在なんだと悟る。


「俺には、お前を守る義務がある。干渉はしない。ただ何かあったとき、なんでもいいから駆けつけられるようにしたい。俺の連絡先と住所は変わってないから。」


アイちゃんはそう言ってゆっくりと視線を落としたあと、少し気まずそうに私に微笑みかけた。

息を吐いて立ち上がり、出口へ向かおうと足を進めたアイちゃんの後ろ姿を見る瞳さんは、先ほどとは違い悲しみの滲んだ顔をしていた。

今にも崩れ落ちそうに震える唇を噛み締め、まるで自分を封じ込めている。


「…瞳さん、本当にいいの?」


そう言っても動き出さない瞳さんの背中を、私はそっと押した。

瞳さんは不安そうに揺れる目で私を見た。

その姿は、いつも見る姿よりも幼く、急に私よりも随分若くなったような錯覚に陥る。

私はただ、瞳さんの目を見つめ返して頷いた。

駆け出した瞳さんは、アイちゃんの袖を掴んで一度深呼吸をした。


「……ごめん。私、全部アイのせいにしたかった。わかってたのに…。サキちゃんがアイを愛してたから、憎くて仕方なかった。ごめん。もう、守ってもらう資格はないし、義務も時効だよ。」


振り返ったアイちゃんは目を細めて、優しく微笑む。

そして、瞳さんの頭を撫でようと持ち上げた手を握りしめた。


「お前の門出くらい、俺が飾りたかったな。」


にこやかな顔のまま、そうポツリと呟いた。

その言葉に、瞳さんは戸惑いなく結った髪を解いた。


「アイなら、5分もあれば十分だよね?」


そう言って顔を上げて、アイちゃんに笑いかける。

キラキラと、瞳さんの目から涙がこぼれ落ちた。

アイちゃんは「無茶いうなよ」と笑って、瞳さんの頭をポンと軽く撫でた。


数分後に戻ってきた瞳さんの後姿には、大きな大きな花が一輪咲き誇っていた。

一層輝きを放った瞳さんは、その後の最後の夜を笑顔で走り切った。

私は酒で薄れゆく記憶の中で、その姿を目に焼き付け、必死に瞳さんのサポートに徹した。

そうして、寂しくもあり、喜ばしいことでもあるこの夜は、店の明かりと共に静かに幕を閉じた。

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