26
迎えた瞳さんの引退の日。
私は初めて客の来店を断った。
今日だけは、瞳さんが主役の1日。
自分の卓のせいで瞳さんのお客様が入れないことがないように。夜の街にある、暗黙のルールだ。
今日は瞳さんのヘルプに入りたい。と、申し出たのは、私なりの恩返しだった。
来店する面々は、常連さんばかり。
瞳さんがここで積み上げてきた日々を、肌で感じる。
「おっ凛ちゃん、今日は瞳ちゃんで入るよ。」
芝さんが、出会ってから初めて私以外を指名した。
昔、瞳さんを指名していたことがあったのだろうか。
すっかり忘れていたが、そういえばこの人は”コロコロ指名替えする”と噂の客だったことを思い出した。
「もちろん!でも意外かも。前、指名してた?」
「うーん。まあ、指名してたときはあったよ。なんだろうな、子守?人に頼まれてね、“ひーをよろしく”って。」
コンコン。と、ノックをする音が聞こえて、私たちは扉を見た。
そこに現れた瞳さんは芝さんを見て、驚いたように目を見開いた。
「え、芝さん?も〜!もういいってば。私今日で35よ?」
瞳さんは軽快に笑いながら、隣に座る。
そして両手で芝さんの手を握り「でも、ありがとう。」と真っ直ぐ伝えていた。
その姿に、芝さんはコクリと頷いた。
「憑き物が落ちたような顔だな。思い残すことはないのか?」
「ないない!長く居すぎちゃったくらいよ。少し寂しいけどね。」
「ああ、俺も寂しいよ。」
2人の独特な空気を、私はただ見ていた。
芝さんが瞳さんに向ける言葉は、私へのものとは違う。
まるで親のような、恩師のような、そんな温かさがあった。
「私、知ってたよ。芝さん何かと気にかけてくれてたこと。店長に私の様子聞いたり、裏でお客さん当てがったりしてたでしょ。」
「はははっ。バレてたらちょっと恥ずかしいなあ〜。瞳ちゃんは、サキの忘れ形見みたいなものだから。」
「…うん。ごめんね。あの頃は気持ちの整理がつかなくて、芝さんのこと冷たくあしらったよね。」
芝さんはニコリと笑って頷いた。
「『もうサキちゃんの話しないで!』『指名しないで!』『店来るならちゃんと自分が好きな子指名しろよ!』って、散々だったな。でもそれも反抗期みたいなもので、俺たち大人はただ見守ってあげるだけなんだよ。今こうして前に進み出した瞳ちゃんの姿が、答えなんだから。」
瞳さんの目が、キラキラと潤んでいる。
それでも笑顔を絶やさない姿は、仕事の責任感、人としてのプライド、瞳さんの生き方が映し出されていた。
2人の空気を壊さぬよう、そっと部屋から抜ける。
「凛ー!瞳ヘルプお願い!」
そう黒服に声をかけられてついた席には、クニさんとガラの悪い男たちが座っていた。
クニさんはタバコを吸いながら私を一瞥したあと、顎で隣に座るよう諭した。
「そういえば、瞳さんのラスト来るって言ってたね!」
そうニコニコと笑いかけたが、クニさんは鼻で笑うだけだった。
返事がないのは慣れっこだ。
混んでいるせいか、なかなか他の女の子がつかない。
飲むペースが早い3人の酒をせっせと作っていたとき、
「吸う?」
と、クニさんが吸っているタバコを少し持ち上げる仕草をした。
吸ってもいいと言われるまで、私たちは卓でタバコを吸うことができないからだ。
「あ、うん。」
私は迷いなくクニさんの持っているタバコに顔を寄せた。
「ちげーよ、ばか。」
そう言ってクニさんは、タバコの箱を私に渡した。
「あ、ごめん…」
ドッと冷や汗をかいた。
クニさんを接客するのは初めてだったからか、つい距離感を誤ってしまったのだ。
瞳さんの席でたくさん酒を飲んで、酔ってしまったのかもしれない。
タバコを吸って、気を落ち着かせた。
「えー!クニさん、来てくれたんですか?」
瞳さんの声がして、立ち上がろうとした私をクニさんの手が制止する。
瞳さんを逆側の隣に座らせて、
「お前に“さん”を付けられる日が来るとは思わなかったな。」
と、左頬を上げて笑った。
「もうやだ〜!忘れてくださいよ!凛だって知らないんだから!」
「いくつになった?」
「もう35です。20年間、お世話になりました。」
「35か。早いな。次は決まってんのか?」
「実はまだ決めてません!とりあえずしばらく生きていけるお金は稼がせてもらったし、ゆっくりと考えて決めていこうかと。」
「…お前らしいな。」
そう言って、クニさんはタバコを灰皿に押し付けた。
クニさんの視線が不自然に通路へ動いた時、
「ク、クニさん!お久しぶりです。」
金髪の男が被っていたキャップを脱いで深々と頭を下げた。
しばらくして顔を上げたその男は、アイちゃんだった。
「ふっ。お前はまだ残るのか。」
「まあ…そうっすね…」
アイちゃんは、クニさんとは素で話をするらしい。
チラリと瞳さんの方へ視線が動いたが、何も言わずに去っていった。
瞳さんは表情を変えずに、グラスの水滴を拭う。
「シャンパンだけ頼んで。もうこの席はいい。」
クニさんはぶっきらぼうな物言いをしながらも、忙しい瞳さんを気遣った。
瞳さんは微笑んで、静かに頷く。
「クニさん、凛のことよろしくお願いします。」
そうクニさんに頭を下げて、瞳さんは席を立った。
私は祝いのシャンパンをたらふく飲んだあと、クニさんを見送った。
水を飲みに通路をフラフラと歩いていると、後ろから腕を掴まれる。
アイちゃんだ。
「凛ちゃん、ごめん。瞳全然席付いてくれないんだけど…なんとか言ってくれない?」
困ったように眉が下がっている。
もう来店して1時間近くになるだろう。
「え?まだ付いてない?」
アイちゃんはすれ違う女の子たちから、“あれ、アイちゃん?”と声をかけられるたび、鎧をかぶってヒラヒラと手を振りながら頷いた。
「おかしいな〜。ちょっと待ってて!」
そう言って私は、つけ回しをする黒服の元へ聞きにいった。
黒服は困ったように頭をかきながら、“瞳が付かないって…”と漏らす。
おかしい。プロ意識の高い瞳さんらしくないのだ。
私の中で点と点が結びつきそうで結びつかない。
芝さん、クニさん、アイちゃん、瞳さん。
この街は広く見えて狭い。
長年居れば横のつながりは生まれてくるものだろう。
しかし、何かが抜けている気がする。
あくまで予想だが、きっとこの中心にはサキさんがいる。
わからない。何もわからないけれど、今日瞳さんとアイちゃんは会うべき。
奇妙な責任感に駆られて、私は瞳さんを探した。
「えっなに!?」
と戸惑う瞳さんの腕を引っ張って、アイちゃんの元へ連れていった。
アイちゃんは瞳さんを見て、
「久しぶりだな。」
と、優しく、どこか悲しそうな笑顔を見せた。
瞳さんはため息を吐いて、
「なんで来たの?お金いいから、もう帰んなよ。」
そう、アイちゃんと目も合わせずに吐き捨てた。
「…うん。わかった。…ただ、さ、お前が次にどんな仕事しようが、誰と付き合おうが、結婚しようがなんでもいいけど、住んでる場所だけはちゃんと教えろよ。」
「…は?関係ない。」
瞳さんが眉間に皺を寄せながら、アイちゃんを睨みつける。
瞳さんが場を乱すところを初めて見た。
きっとそれだけ、アイちゃんは特別な存在なんだと悟る。
「俺には、お前を守る義務がある。干渉はしない。ただ何かあったとき、なんでもいいから駆けつけられるようにしたい。俺の連絡先と住所は変わってないから。」
アイちゃんはそう言ってゆっくりと視線を落としたあと、少し気まずそうに私に微笑みかけた。
息を吐いて立ち上がり、出口へ向かおうと足を進めたアイちゃんの後ろ姿を見る瞳さんは、先ほどとは違い悲しみの滲んだ顔をしていた。
今にも崩れ落ちそうに震える唇を噛み締め、まるで自分を封じ込めている。
「…瞳さん、本当にいいの?」
そう言っても動き出さない瞳さんの背中を、私はそっと押した。
瞳さんは不安そうに揺れる目で私を見た。
その姿は、いつも見る姿よりも幼く、急に私よりも随分若くなったような錯覚に陥る。
私はただ、瞳さんの目を見つめ返して頷いた。
駆け出した瞳さんは、アイちゃんの袖を掴んで一度深呼吸をした。
「……ごめん。私、全部アイのせいにしたかった。わかってたのに…。サキちゃんがアイを愛してたから、憎くて仕方なかった。ごめん。もう、守ってもらう資格はないし、義務も時効だよ。」
振り返ったアイちゃんは目を細めて、優しく微笑む。
そして、瞳さんの頭を撫でようと持ち上げた手を握りしめた。
「お前の門出くらい、俺が飾りたかったな。」
にこやかな顔のまま、そうポツリと呟いた。
その言葉に、瞳さんは戸惑いなく結った髪を解いた。
「アイなら、5分もあれば十分だよね?」
そう言って顔を上げて、アイちゃんに笑いかける。
キラキラと、瞳さんの目から涙がこぼれ落ちた。
アイちゃんは「無茶いうなよ」と笑って、瞳さんの頭をポンと軽く撫でた。
数分後に戻ってきた瞳さんの後姿には、大きな大きな花が一輪咲き誇っていた。
一層輝きを放った瞳さんは、その後の最後の夜を笑顔で走り切った。
私は酒で薄れゆく記憶の中で、その姿を目に焼き付け、必死に瞳さんのサポートに徹した。
そうして、寂しくもあり、喜ばしいことでもあるこの夜は、店の明かりと共に静かに幕を閉じた。




