いってきます
目覚まし時計が鳴った。
布団から太い腕が伸び、音を止める。
そのまま二度寝した。
次に目を開けた時、時計は8時22分。
「……8時22分?」
今日は大学の入学式。9時開始。
「やばっ!」
張切エイヤは飛び起きた。
床には脱ぎっぱなしの服。机には大学の書類とプロレス雑誌。
昨夜、深夜のプロレス中継を見ながら寝落ちしたらしい。
「エイヤ! まだいるの?」
「今出る!」
「今日、入学式でしょ!」
「分かってる!」
スマホと財布を鞄に放り込む。
亡くなった父の影響で、物心ついた頃からプロレスが好きだった。
いつか自分もリングに立ちたい。
本当は高校卒業後にプロレスの世界へ行きたかったが、母に言われ大学へ進んだ。
格闘技経験はない。人を殴ったことすらなかった。
「行ってきます!」
エイヤは家を飛び出した。
「間に合わねえ……」
駅へ走りながら時計を見る。8時36分。
少し先にも、スーツ姿の青年が走っていた。
「やばい、やばい……!」
青年が角を曲がった瞬間、向こうから来た金髪の男と肩がぶつかった。
「あ、すみません!」
そのまま走ろうとする青年の胸ぐらを、男がつかんだ。
「おい。ぶつかっといて、それだけ?」
「すみません! 今、急いでまして!」
「財布出せよ」
「……は?」
「金出すか、殴られるか。どっちがいい?」
青年の顔が固まった。
少し離れたところに、小柄でがっしりした中年男がいた。
二人の間へ向かおうとした、その前に――
「何してんの?」
エイヤが間に入った。
「誰? お前、スリッパ履いてんじゃん」
「え?」
足元を見る。
灰色のスリッパ。
「……マジか」
金髪の男が笑い、一緒にいた女も吹き出した。
男は青年の胸ぐらをつかんだままだった。
「謝ってんだから、もう許してあげなよ」
「お前に関係ねえだろ」
「なんで? 困ってんじゃん」
「じゃあ、お前が代わりに金出すか、殴られる?」
「殴られる方でいいよ」
エイヤは男の前に立った。
「早くして。殴るんでしょ?」
男が拳を頬の高さまで上げた。
次の瞬間、その拳がエイヤの顔へ飛んできた。
エイヤは反射的に顔を背け、男の腰にしがみついた。
大きな身体がぶつかり、男が地面に倒れる。
ビリッ。
「……?」
何かが裂けた。
だが、目の前の男はうつ伏せになっている。
見覚えのある形だった。
エイヤは両脚を抱える。
プロレスで何度も見た逆エビ固め。
腰を落とし、男の身体を反らせた。
「いってぇぇぇ!!」
「もうやらない?」
「やらないから離せ!」
エイヤはすぐに手を放した。
青年が呆然としている。
時計を見る。
「やべ!」
「え?」
「入学式に遅れる!」
「あっ!」
二人は走り出した。
「おい! そこのデカいの!」
中年男が呼び止めるが、二人はそのまま走っていった。
中年男は地面に座る金髪を見る。
「お前、あの構え……ボクシングやってるだろ?」
「……」
「拳を喧嘩に使うな」
そして、エイヤたちの背中を見つめた。




