第79話 神木が倒れる、その直前
チャット欄のあの猛烈な連投は、すぐに他の視聴者の不快感を引き起こした。
あちこちから、否定的なコメントが寄せられはじめた。
『あいつBANしないの?』
『配信中に荒らすやつほんと迷惑』
『画面確認の邪魔するなよ』
そういった声が、立て続けに何件か流れていった。
ワカナがやむなく、そのアカウントの処理に手をかけようとしたところで――
俺はそれを止めた。
「もしかしたら、この人、何か大事な理由があって連投してるのかも」
俺は言った。
「ずっと同じ一文を打ってる。なんていうか、その一文を絶対に俺たちの目に焼きつけたい、って感じがする。荒らしには見えないかな」
「……うん、そうだね」
ワカナは少し考えて、画面から指を離した。
「連投の方、何か、わたしたちに伝えたいこと、あります?」
彼女がカメラに向かって、そう尋ねた。
そのアカウントの連投がぴたりと止まり、それから、新しい一文が浮かび上がってきた。
『倒れる場所に住んでる人がいないか、確認してから倒したほうがいいんじゃないですか?』
俺はその一行を、じっと見つめた。
チャットがその瞬間、誰かに一時停止ボタンを押されたみたいに静まり返った――さっきまで連投者へぶつけられていた苦情がぴたっと止まり、新しいコメントが、一行ずつ立ち上がりはじめた。
バトンタッチみたいなその速度は、さっきの怒りよりもずっと速かった。
『あ、確かに! あのサイズだと……』
『高さ二十キロは超えてるはず……』
『枝葉まで含めて倒れる範囲、誰か住んでる可能性あるよ』
『うわ、まったく考えてなかった』
『さっきまで「削れ削れ」って言ってた』
『恥ずかしい……』
『連投の人、ありがとう。たくさんの人を救ったかもしれない』
俺は携帯を下ろし、振り返って他のみんなを見た。
「あの人たちの言ってること、もっともだよ」
ユウキの表情が、すぐに引き締まった。
「私たちがこのまま樹を倒したら、知らないあいだに、いくつもの村の罪のない人たちを、丸ごと押しつぶしちゃうかもしれない」
俺たちは、自分たちが取り返しのつかない過ちを犯す寸前だったと気づいて、それぞれ顔に冷や汗が浮かびはじめていた。
「くっそ……」
ワカナが画面を見やった。
「さっきまで早くカタをつけたいって思ってたのに……」
あの巨樹は、すでに、わずかに揺れはじめていた。
根元の支持構造が不安定になったあと、幹全体が根のあたりから揺れはじめている――ゆっくりと、しかし、揺れ幅は次第に大きくなっていた。
「ちっ」
俺はすぐに意識を集中させた。
「いま、別の緊急事態に入った――この樹が倒れる進路上に住人がいないか、急いで探しに行きましょう。見つけたら、避難させないと」
「でも、範囲が二十キロ超えてるんだよね……」
サチの口ぶりは、ちょっと悲観的になっていた。
「ピクシーのタトゥーがあるから、移動自体はそんなに難しくないよ」
ユウキは首を振った。だが、すぐにまた眉をひそめた。
「でも、現地の住人を探して、避難までさせるとなると……」
彼女は警官だ。
避難の現場で秩序を保つのが、どれほど大変か――しかも相手が、自分の言葉が通じない、面識もない相手なら、なおさらだということを、彼女はよくわかっていた。
「これは、たしかに、相当面倒ですよね――」
俺も認めた。
「闇雲に探し回る必要、ないんじゃない?」
ワカナが、ふっと笑みを見せた。
「何かいい考え、ある?」
ユウキが視線を向けた。
「現地の人に案内してもらえばいいの」
ワカナは言った。
「今朝のあのゴブリンたちが、このへんのどこに人が住んでるか、知ってるでしょ?」
俺はすぐにうなずいて、意識を二方向に分けた――
一方は、木霊軍団の大部分にこの場に残るよう命じた。
全員、神木の根元に集まり、揺れはじめたあの巨木を、自分たちの体で支えるんだ。
一拍でも長く保たせる。土の傀儡たちは攻撃を停止して、逆に支柱として立たせる。
何百万体もの木霊が樹根を取り囲んで折り重なり、自身を臨時の支持構造に変えていった。
もう一方は――
俺たち四人は即座にピクシーの刺青を起動して、ゴブリンの集落の方角へ飛び立った。
『ほんとに急いで!!』
『木霊が柱になってる!! この絵、泣けるんだけど』
『人命優先!!』
『さっきの連投者、ほんとヒーロー』
俺たちはかなりの速度で飛んだ。
ゴブリンの集落が視界に入ったとき、村の入口あたりでちょうど火を起こしているところだった――夕食の支度をしているらしく、村全体に肉を焼くいい匂いが漂っていた。
俺たちが降り立った瞬間、ゴブリンたちがすぐに集まってきて、歓声をあげた。
「いい人たちが帰ってきたぞ!」
「見たよ、呪術師まるごと崩れてったの!」
「お前たち、すげえな!」
「やってくれるって、信じてた!」
村人が、こんがり焼けたばかりの香ばしい野生のイノシシを担いで、村の中央から進み出てきた。
これまで見たこともないほど熱のこもった笑顔を浮かべ、その豚を俺たちに献上しようとしていた。
サチがその豚にちらりと目をやった。
俺は彼女に、目で「やったね」というふうに笑いかけた。
予言が現実になっていた。
ところが、サチは、首を振って俺を見た。
確かに、いまは笑顔を見せるべきタイミングじゃなかった。
「祝ってる場合じゃない!」
俺は振り向いて、すぐに焦りを込めて叫んだ。
ゴブリンたちは、ぴたりと固まった。
豚を担いでいた村人たちも、その姿勢のまま動きを止めた。
俺は手早く説明した。
「神木が倒れたら、このへん一帯、全部押しつぶされる」
俺は焦って、深く息を吸った――
「このあたりで、人が住んでる場所、教えてほしい。すぐに避難させないと」
そばで知恵の書が、俺の言葉をゴブリンの言葉に自動翻訳していた――あの神格の作者と、なんとなく息が合ってきたのか、最近の翻訳速度は前よりかなり速くなっていた。
ゴブリンたちは聞き終えると、村全体に、たちまち慌ただしい空気が広がっていった。
「こりゃ大変だ!」
「うちの妹、谷間のとこに嫁いでるぞ……」
「石洞家族には、世話になったことがある!」
「渓口の部族とは、よく交易してるんだ――」
「南の川、岸のところに三つも村があるぞ!」
「東のほうにも、独り暮らしのじいさんが、小屋に……」
ゴブリンたちは口々に話しはじめ、村の長老から大人まで全員が集まってきて、知っている情報を次々と吐き出してくれた。
「あの人たち、助けてあげたいんですよね?」
ユウキが、その焦るゴブリンたちに、穏やかに尋ねた。
「だがな――」
一匹のゴブリンが、苦渋の表情を浮かべた。
「みんな遠くに住んでる。俺たちじゃ、あいつらに逃げろって伝えに行く時間がねえ」
「移動の問題は、こっちでなんとかします」
俺はそう言いながら、ピクシーたちを大量に呼び出した。
呪術師のそばを離れている今、ピクシーたちは自由に飛び回れる――次々と転送口から湧き出てきて、ゴブリンの集落の上空に浮かんで、指令を待った。
『ピクシー軍団登場!!』
『ゴブリンたち感動で泣きそうじゃん』
『お前らの実行力えぐすぎる』
『あの豚どうすんだwww』
俺は知恵の書を開き、ゴブリンたちにそれぞれの集落の位置を書き込んでもらった――
神木の倒れる予測方向に沿って計算すると、影響範囲内にある集落は、合わせて九つだった。
「俺たち四人で――」
俺は他の三人を見た。
「一人につき二集落。俺がもう一つ多く受け持ちます」
それぞれ、道に詳しいゴブリンの案内人を一人か二人連れて、ピクシーに瞬間移動と転送を任せ、即座に散開した。
俺が担当した最初の集落は、岩壁の洞窟の中で暮らしているゴブリンたちだった。ゴブリンの案内役を連れて現れた俺を見て、彼らは喧嘩を売りに来たと勘違いしかけた。
粗末な武器を手にしたのが何匹も飛び出してくる始末だった。
俺は急いで翻訳機能を立ち上げ、案内役のゴブリンも横から手を振って大声を上げた――どうにか誤解を解いたものの、「空が落ちてくる」なんて話を信じさせるのに、また少し時間を食った。
向こうの村長が洞窟のいちばん高いところまで登り、遠くで揺れているあの巨樹を目にした瞬間、顔色が変わった。何も言わず、すぐに族の者たちを集めはじめた。
ピクシーたちが、彼らを少しずつ、安全圏へと転送していった。
続いて、俺たちは渓口の部族のところへ向かった――
ここはわりと話が早かった。
もともとゴブリンとよく交易している部族で、案内役を見ると、それほど時間をかけずに信用してくれた。
部族全体の避難は、通知から退避完了まで、十数分ほどしかかからなかった。
そのまま、もう一つ、谷あいに位置する部族の避難も済ませた。
二つ前の経験があったので、今度は案内人が最初から要点だけを手早く伝えてくれた。
あっという間に、俺のピクシーたちが彼ら全員を安全な場所へと運び終えた。
空はだんだん暗くなってきていた。
俺と他の三人は、順次、合流していった。
みんな汗だくで、体力訓練のしっかりしているユウキでさえ、少し息が上がっていた。
「私のほう、二つの集落、避難完了」
ワカナが袖で額を拭いた。
「わたしのとこ、二つとも、終わったよ」
サチがしゃがみ込み、膝に手をついて、ふうっと一息ついた。
「私のとこ、二つ」
ユウキがうなずいた。
「全員、安全圏」
「俺は三つ」
俺は知恵の書のリストを確認した。
「ぜんぶ完了」
「合計九つ」
ユウキが頭の中でざっと足し合わせた。
「全部、安全圏外まで避難させた」
俺たちはゴブリンの集落の外の、小高い場所に立ち、神木の方角を見やった。
空はもう、すっかり暗くなっていた。
それでも、あの巨樹の輪郭ははっきりと見えた――あまりにも大きすぎて、月光が向こう側から差し込み、その樹影を、地平線上にそっくり映し出していたからだ。
揺れている。
俺たちが離れたときに比べて、揺れ幅が何倍にも大きくなっていた。
揺れるたびに、地の底からせり上がってくるような、低い唸りが響いてくる――
木材の繊維が、大規模に断裂していく音だった。
ずっと根元で身体ごと支えてくれていた木霊軍団が、もう一塊、また一塊と、土の中に押しつぶされはじめていた。
「もうすぐだね」
ワカナがそっと言った。
俺たち四人は肩を並べて立ち、誰も口を開かなかった。
ゴブリンの集落の村人たちも歩み寄ってきて、俺たちの周りに立ち並び、一緒にあの巨樹を見上げていた。
彼らも、待っていた。
風があの方向から吹いてきた。
最後の一吹き――あの古い森に属する、あの重たい匂いを連れて。
この巨大な神木は、まさに、いま、倒れようとしていた。
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