6月、タイムリープチャンス
窓を水滴が埋め尽くし、雨音が響く放課後。
深呼吸をしても、湿った空気が入って出て行くだけで、ちっとも胸がすっきりしない。
ジメジメと重苦しい気分の今日は、月曜日だった。一週間なんて、あっという間に過ぎる。
いつも以上に、予備校へ行くのが面倒だ。月曜日に必ず行かなければいけないわけじゃないし、木曜日とか、授業のある土曜日とか、空いている日は度々通っているから、進度も全然遅れていないのだけど。
でも、ここで行かなかったら、このままずるずる気まずさを理由に距離が開いて、また疎遠になっちゃうんだろう。
(それは、いやだな……)
せっかく、また会えたのに。
ぐるぐる悩むのは性に合わない。
わたしはあれこれ考えるのをやめて、とりあえず、やりたいようにしてやると決めた。
気合を入れて向かった予備校でいつものように授業を受ける。
でも今日はやなぎんがいつもより遅く来たのか、わたしが授業を終えた時間に、まだ彼の方が終わりそうになかった。
時間が合わなければ、特に待ったりはしていない。
気合はどうやら空回りしそうで、少しがっかりしながら学習スペースを出た。
「沢渡さんお疲れ! もうすぐコースも終わりそうだし、今日、良ければこれから面談やっちゃう?」
「……! ぜひ!」
待つ理由ができた!
橋本さんは異様なやる気を見せるわたしに戸惑いつつ、いつも面談をしているミーティングスペースへ移動する。
「えーっと。沢渡さんの今のコース、すごく順調だし確認テストもいい感じ。どう、学校の授業とか、前より理解しやすくなったりしてる?」
橋本さんはテキパキと状況を確認する。
わたしは少し考えてから頷いた。
「……はい、多少は」
少しは理解が深まってきた気がするけれど、あまり自信はない。
「次の定期テスト、来月だよね。その結果次第で、夏期講習どうするか決めようか?」
「夏期講習……」
「沢渡さん、志望校はもう考えてる? 今の成績のままで無理のないところなら、夏期講習までとらなくてもいいとは思うけど……もし早めに準備しておきたいなら、おすすめだよ」
押し付けがましくない話し方だった。
志望校。
あと半年もすれば、わたしも受験生と呼ばれるようになるわけで。
全く何も考えていないわけではない。けれど、進路が絞られるほど明確なビジョンでもなくて、ある程度の条件さえ満たしていれば、学ぶ場はどこでも変わらない気がしていた。
頷くばかりで上手く返事ができなくなってしまったわたしに、橋本さんは安心させるようににっこり笑ってくれた。
「ひとまずは、目の前のテストに集中しようか。終わったら、夏休みまでには気になるとこをいくつか絞り込んでおいたほうがいいかな。オープンキャンパスにも行ってみて。モチベーション、全然変わるから」
「はい! ありがとうございます」
少しスッキリした気持ちで面談スペースを出ると、授業を終えたやなぎんが学習スペースから出てきたところだった。
「お、お疲れ」
「……沢渡さんも」
話しかけたはいいものの、やっぱり今までよりもぎこちない空気を感じて、心が折れそうになる。
ビルの外に出るまで、完全に無言だった。
でもよく考えたら、いつもはわたしが話しかけるから会話が生まれていたのであって、やなぎんはいつも通りかも。
少し気が抜けたと同時に、何の気なしに家の方へと向けていた足を止めた。
やなぎんが振り返る。
久しぶりに目があって、意味もなくへらっと笑った。
「本屋寄って帰るね」
橋本さんにもアドバイスしてもらったことだし、気になってる大学の赤本がどんな感じか見てみよう、くらいの軽い気持ちだ。今日は買うつもりないけど、見てみて実感を得ようと思った。
本屋、という言葉に、やなぎんは瞬きをひとつ。
「……僕も行く」
何か用事あったのかな?
まるで思い出したかのような表情に、そんな風に思った。
「そう? ちょうどよかった、じゃあ行こう」
「うん」
駅前には、予備校の入っているビルとはロータリーを挟んだ向かい側に、そこそこ大きい激安量販店がある。その地下にワンフロア丸々本屋さんが入っているのだ。
ロータリーをぐるっと回り込みながら、話しかける。
「やなぎんって志望校とかもう決めてる?」
聞いてから、デリケートな話題だったかな、と少し焦った。気になることをすぐ口に出すのはあまりよくない癖だ。
しかしやなぎんは表情を変えずに頷いた。
「一応」
「そっか……さすが、早いね」
感心してそうこぼすと、彼は聞き返してくれた。
「沢渡さんは?」
「……検討中」
全然、一歩も前に進んではいないけど、現状の把握は大事、と自分に言い聞かせる。
やなぎんは本屋へと降りるエスカレーターに乗って、こちらを振り仰いだ。
彼が二段下にいるせいで、低い位置で目線が合う。
少しだけざわめいた胸に、戸惑った。
「焦ってる?」
「えっ?」
静かな問いかけは、わたしの心を見透かしたみたいだった。
やなぎんは目を伏せて、続ける。
「……そういう風に見えた」
思わず、情けない声が出る。
「焦ってるのかな~。早く決めた方が得だよね」
「そうかもしれないけど」
肯定しつつも、迷うような声はどこか優しい。
そんな声に背中を押されたように、落ち込みかけていた気を持ち直す。
「やなぎんはどうやって決めたの? 行きたい学部があるからとか?」
「それもあるし、経済的に、家から通える国公立でってなるとあんまり選択肢がない」
「そうだよねえ……」
桐高は私立だけど、やなぎんは入試の成績が良かったおかげで授業料が一部免除されているらしい。
予備校に通うのは受験のためだけでなく、その成績を維持するためでもあるとか。
そういう事情を聞いていたからか、国公立の大学を目指しているのはなにも不思議ではなかった。
わたしも、兄弟が多い兼ね合いで、なんとなく国公立を目指しているクチだ。高校は私立に通わせてもらっている分、大学受験は頑張りたかった。
そんなことを少しずつ話しながら、参考書が並ぶ棚のあたりをうろうろする。
赤本がずらっと並んでいる棚は、目に痛いくらい真っ赤っかだった。当たり前だけど。
華女の卒業生が多く進学する女子大の赤本を、まず手に取ってみる。偏差値的に順当なレベルだから、第一志望ではないが受けてみようと思っている大学だ。
中をパラパラ見てみて、そっと閉じる。
……うん、まだ早いかも。
気がついたら、さっきまで近くにいたやなぎんの姿が見えない。ぐるっと棚を回り込むと、受験対策の参考書を熱心に読み込む彼を発見した。
邪魔をしないように、そっと離れる。
しばらくそうして思い思いに参考書を見て、やなぎんは何冊か買うみたいだった。
わたしはまたの機会にすると決めて、レジに向かうやなぎんについていく。
途中、突然足を止めたやなぎんの背に、ぶつかりそうになった。
「ごめん!」
「僕も急に止まってごめん。そろそろ、新刊出たかなと思って」
「新刊?」
やなぎんが立ち止まった棚は、児童書のコーナーだった。
懐かしい背表紙のデザインに、自然と顔がほころぶ。
「あのシリーズ、一昨年くらいに一回完結したんだけど、最近過去編が始まったらしい」
「え、そうだったんだ!」
わたしも完結までは追っかけていたけれど、高校生になったのもあって児童書からは遠ざかっていて、新しく始まっているのは知らなかった。
新刊かあ、そんなことを考えながら改めて棚に目を走らせたとき、平積みされているスペースの大きなPOPに目を吸い寄せられた。
思わず、傍らのやなぎんの腕をぱしぱしと叩く。
「や、やなぎん、これ! これ見て!」
わたしたちが夢中になって読んでいたシリーズの一巻が、映画化するというお知らせだった。
「知ってた?」
「知らなかった……」
呆然と、首を横に振るやなぎん。
「公開、今週金曜日だって!」
もう本当にすぐそこだ。興奮に、少し声が大きくなって、慌てて気持ちを抑える。
どきどきしながら、さっきこのPOPを見たときからずっと言いたかったことを、ひそひそ声で言った。
「……観に行かない?」
返事が返ってくるまで、ものすごく長く感じたのは、多分気のせいではなかったけれど。
「……行こう」
嬉しいと同時にびっくりして、じっとやなぎんを見てしまう。
彼は戸惑ったように目線を彷徨わせた。
「なんでそんなに驚いてるの?」
「テスト近いのに、一緒に行ってくれるんだ、と思って」
いくら好きなシリーズの映画と言っても、テスト後だと公開が終わってしまいそうだと言っても、やなぎんは真面目だから、断られると思っていた。
ほんの少し不本意そうな顔は、とっても珍しい。
「……まだ2週間以上あるし、断る理由がない」
「へへへ」
今度こそ嬉しさだけで、わたしはだらしなく笑ってしまった。
本屋を出て帰りながらも、興奮は冷めない。
「1巻って、水族館で事件が起こる話だったよね」
「魚の頭文字を繋げて、犯行動機にたどり着いて……」
「懐かしい……!」
懐かしさに浸りつつ、現実的な提案をする。
「土曜日とか、どう? 午前は授業だけど、午後なら」
「うん、部活ないから大丈夫」
土曜日に決まり!
テストが近いからこそ、観に行くなら早い方がいい。
わたしはスマホを取り出して、近くの映画館のサイトを検索した。
「チケット買えるかな……あ、まだみたい」
やなぎんもスマホの画面を見ながら、言う。
「会員だと早く買えるから、僕が買っとく」
さすが映画好き。抜かりない。
「え! すごい! そしたら当日お金渡すので大丈夫?」
「うん」
「ありがとう! わ~楽しみだね!!」
週末の楽しい約束に、心が踊る。
帰り道、シリーズの思い出話で盛り上がって、やなぎんがいつもよりたくさん喋ってくれるのが、なんだかすごく嬉しくて。
好きなことの話になると口数が増えるのは、小学生の頃とおんなじなんだなぁと、それもなんだか楽しかった。




