シーン33 変調
シーン33 変調
フレド運転の車が世田谷通りから環状8号線に出ると、宗弥は左肩から襷掛けにしていたSATO TRG42を外し、スコープを取り外して銃床を折り畳み、細く、長い息を吐きながら運転側の座面に置いた。銃撃されると思っていたが、反撃して来なかった。なぜだ?どうしてだ?どういう事だ。シータはまだ追い付いてはいなかったはずだ。1人か2人、殺し足りていない。何かが起こっている。不安が、計画通りじゃなかった不審が、長年の勘がそう言っている。
考えながら、運転席側の後部座席に腰掛ける。振り返ったが尾行はなかった。筒形3Wayリュックサックを背から下して、ドサッという音と共に右側に置く。フレドの肩がビクと上がった。「お前には何もしないよ」と言いながらファスナーを開けて中を覗くと、円とドルの札束が各1千万は軽く超えて見え、C4がレンガ1個分、AKー47並みにタフなロシア製ハンドガンUdsvが3丁、予備弾倉6、TRG42の予備弾1ケース、500mlの水のペットボトルが3本、海松色のダンボールフードトレーナー・パーカーが1着はいっていた。パーカーからトロンスキーのコロンが香る。“クソっ“と毒吐きそうになるのを堪える。サイドポケットを開けると宗弥とトロンスキーのロシア、日本、ポーランドのパスポートが計6冊入っていた。
偽名のパスポート。面倒見の良いトロンスキーらしい。そう思えば宗弥の口元が緩む。「母さん、トロンスキーはいいやつだったよ」小声でそう告げながら、リュックにTRG42を入れるが、銃先がリュックから飛び出し、当たり前かと考えつつトレーナーで覆い、ファスナーを閉めれるだけ閉める。
猛烈な表情で運転するフレドがふと、バックミラー越しに、ヘッドレストに後頭部を預けた宗弥の顔を見る。視線を合わせた宗弥が「砧公園の駐車場に車を入れてくれ」と言うと、フレドが「高速に乗って、一旦東京を離れよう」と混乱の声をススッと上げる。宗弥はなだめるように「この車のナンバーはとっくに手配されてる。フレド、足がつくよ。駐車場に入れて車を変えよう」BIGに笑う宗弥の口調は、とても柔らかでフレンドリーだ。
渋々(しぶしぶ)のフレドが右折する。
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トランクを開けてリュックを背負ったフレドを、左手のハンカチで額の汗を拭きながら「あちー」と声を上げて振り返った宗弥は「行こう」と声をかけた。宗弥は世田谷美術館を右手に見ながら進み、さわら並木に出ると、芝生公園を真っ直ぐ突っ切って一の橋方向に向かう。
フレドの前をゆく宗弥が「なぁ、マキシムはどこにいるんだ?」と聞いた。「日に何度も移動してるから、今どこにいるかは知らない」とフレド、歩調を緩めてフレドの左隣に並んだ宗弥は「そうか、報告だけでもしておいた方がいいぞ。これから数日は警察の警戒レベルも上がるだろう」と問いかけるような、頑張らないような言い方をする。
「そうだな」と言ったフレドは黒のカーゴパンツの右太ももにあるポケットからスマホを出し、マキシムに電話を掛けたが直で留守番電話サービスに繋がり、一瞬、顔を顰めたが平静を装った声で「ソウヤと世田谷を出ました。しばらく東京を離れます」と伝言を残した。どういう事だ⁈今まで直留守なんてなかった。
不審顔の宗弥が「俺たち、見捨てられたんじゃないよな?」と崖っぷちに追い詰められた小動物のような声で聞くと、フレドは「ロシア大使館の近くにセブンがあるだろう、その近くのマンションに多分いるよ。マキシムは六本木が大好きなんだ」と得意げに話し、宗弥はバードサンクチュアリーエリアの樹々を見上げて「ほとぼりが覚めてから、マキシムと合流だな。美味いもんが食えそうだ」新鮮な声で伸びをしながら軽口を叩く。フレドが宗弥を見上げた。
その顔を見る事なく宗弥は「ここで、いいか」と呟いた。「どうした?」と聞いたフレドの首根っこを宗弥は瞬時に、力任せの右手で掴むや、左手のハンカチをフレドの口に突っ込んで、フレドの左脇を左膝で蹴り上げる。肋骨が折れる感触を膝に感じつつ宗弥は、フレドを木影に引きずり込んだ。
もんどり返り、転げ回るフレドの両手首を掴んでバンザイさせ、それぞれの足でフレドの左右の手首を踏みつけた宗弥は、背のリュックを地べたに下して、水のペットボトルを取り出し、しゃがみ込んでフレドを見下ろしながら水を飲む。そして「なぁ、何で、トロンスキーを待てなかった?」と聞いてヘラリと笑う。
戦慄が脳内でガナリ声を上げたフレドの身体は、すでに思い通りには動かせずで、宗弥を蒼白の涙目で見上げて「ウー、ウー」と悲鳴なのか、呼吸音なのか、自分でもわからない声を上げた。
フレドの口内にあるハンカチ目掛けて、右手に持つペットボトルの水を細く流し入れながら「おい、聞いているのか?」と聞く宗弥は、愁いの表情だ。
このぐらいで・・溺れてどうするだよ。頑張れ・・よ。コポコポと音を立てる水の透明感に、宗弥が魅入る。なんて・・綺麗なんだ。自由自在に・・形を変える水は美しい。まるで・・富士子みたいだ。「ゴボッ!」と咳き込んだフレドが気を失う。
「まだ・・だ」上の空で言った宗弥が左手でハンカチを摘み上げ、ポトリと地面に落とした左手でフレドの頬を叩く。震える声をか細く上げたフレドが、意識にしがみついて浮上する。左手でフレドの口を塞いだ宗弥は、その左手に水を滴らせながら、また思う。
綺麗だ。ほんと富士子みたいだ。きっと富士子は水だったんだ。俺の空気で、俺の空で、俺の宇宙で生きる富士子。宗弥は富士子を思いながら、フレドを締め殺していた。残りの水を飲み干して空のペットボトルをリュックに入れると、宗弥はフレドをうつ伏せにしてリュックを奪い、右ポケットからスマホと車のキーを取り出して我が物とする。無意識だったが、その手捌きは極めて冴え渡っていた。
来た道を折り返す宗弥の瞳には、こぼれ落ちてくる日差しが雨のような球体に見え始め、フワフワと浮く七色の油膜を光らせるシャボン玉へと変わり、その光玉に教えられ、導かれて宗弥は歩く。
気づけば宗弥は、環八東名入口の向かいにあるマックに入店していた。窓辺のカウンターテーブルに座る宗弥の前には、ビックマックセットが1つ、隣の席にはマックセットが1つ、その間にはマックシェイクが3種類のっていた。空腹を覚えた宗弥は誰も居ない隣座席に「富士子、食べよう」と声をかけ、窓越しに見えるしゃぶしゃぶ店の駐車場に入庫する車を、赤い目で眺めながら黙々と食べていた。




