第一話「マイナスからのスタート」
明日は明日の風が吹くと、誰が一番はじめに言ったのだろうか。
明日は昨日の続きの風が吹くというのが正しい解釈であると、風間信悟は思う。
入社した時は、社をより良くし、社のために尽くしていきたいと考えていた。
そう思っていた理由は、大学で経営コンサルタント学を学んだのが大きかったのかもしれない。人と上手く関わりを持つために心理学も独学で勉強した。
自分には絶対にできる。この会社を大きくすることだってできる。そんな根拠のない自信があったのだ。
今になって思う。若さとは、先行きの不安をも払拭して挑戦することができる素晴らしい時なのだと。
気持ちと同じように空も元気がない。ポツリと雨が落ちてきた。その雨を払う気力もなかった。このまま濡れて風邪をひいても構わない。そう思っていると、目の前で傘が開かれた。励まそうと思っていた目の前の相手に逆に気遣われた。
「ほらっ、辛気臭い顔しない! 大丈夫、何とかするよ。こう見えても私、切り替えが早い、前向き人間なんだから」
開かれた傘のお蔭で、冷たい雨にあたらなくてすむ。強気な口調からは考えられないような、矛盾した可愛い花柄の傘。その彼女の明るさと優しさが、今は逆につらかった。
「けど……この仕事を好きだと言っていたのは、桂木先輩でしょう」
「好きでもね。仕方がないことだってあるのよ。仕事ができるのは、ここだけじゃないんだから……だから、私のことは大丈夫。あなたは頑張って!」
会社が倒産の危機に陥っていると聞いたのは三年前だった。他の人気企業に押され、社の商品の売り上げが激減したのだ。
その時には新商品を考えるという案もあった。しかし、その判断を社長は嫌った。独断実行。先の予想がつかない賭けをするより、現状を維持して伸ばすことを選んだのだ。
それが間違いだった。業績は一気に悪化。大赤字を出した社が、人員削減の案を出したのは予想以上にはやかった。
「桂木先輩、申し訳ありません。あれだけ世話になったのに。俺が人事課であるばかりに。俺の口から仕事を辞めてくれなんてことを! 経営コンサルタント学を学んでいるのに、先輩を守ることができなかった。誰よりも先輩は、この仕事を好きだと知っているのに」
ただただ、風間は頭を下げるしかなかった。風間は自分の不甲斐なさと社の方針が許せなかった。赤字になったから人員を削減するなど、誰だってできる判断ではないか。
傾いた会社をどうやって改善し、黒字に導くか。それこそが経営コンサルタント学というものだ。人は道具ではない。心がある。目の前にいる桂木も社の将来のために気を遣い、気丈にしているではないか。社に辞めさせられたにも関わらず――。
「大丈夫。いつかはこうなるかもって、そんな覚悟はあったんだから」
そう言われ、桂木に軽く肩を叩かれた。あの時も同じだった。
「桂木さん。人事課に配属になった新入社員の風間くんだ。大学で経営コンサルタント学を学んでいたらしい。不安なこと、わからないことも多いだろうから教えてやってくれ」
風間が課長に案内されて一番はじめに紹介されたのが、同じ人事課で働くことになる桂木だった。目が合ったと同時に、屈託のない笑顔を向けられた。心拍数が一気に上がったのを風間は記憶している。
「はいはい。よろしく風間くん。けど、履歴書見たら、君のほうが年上なんだよね。私、君の一歳年下の二十四歳。人生では君が先輩。けど仕事では私が先輩だね」
軽く肩を叩かれてからのマシンガントーク。風間の上がった心拍数は、このせいで一気に平常値に戻った。
「はあ……よろしくお願いします」
初対面の気のきいた挨拶を返すこともできなかった。桂木に返すことができたのは、ため息のような声だった。そんな返事だったせいか、桂木は直後に「やってしまった」という表情をした。
「ごめんごめん。返事に困らせて。私、調子に乗ると話し続けちゃうんだよね。ここに座って。よし、わかりました。この桂木先輩が、いろいろと教えてあげます」
桂木が意味深ともとれる返事をしたせいで、課長が妙な顔をしていたのが忘れられない。
風間が桂木に感じた第一印象は、『今まで会ったことがないタイプだ。苦手な性格だ』というものだった。けれど、時が経ち、仕事を教わるうちに桂木の真の性格がわかってきた。
面倒見が良く気遣いもできるタイプ。人事課だけではなく、他の課にも進んでいって意見交換もするという、好奇心にも向上心にも社交性にも富んだ女性だと知った。
聞くと子供がひとりいるらしい。一年前に離婚したとも聞いた。いや、聞くというより、いつもの桂木のマシンガントークで聞かされただけなのだが。
けれど、そんな欠点があっても余りある才能と魅力に満ちた女性だと風間は思った。
「私さ、社員という扱いじゃなくて準社員なの。子供もいるし、定時に帰らないといけないから。だから風間くんに、しっかり仕事を引き継いでもらわないとね」
桂木の教えかたが良かったのだろう。風間の仕事は、あっという間に信用を得るようになった。仕事が楽しくなった。順風満帆の将来が想像できた。それなのに。
「うわっ、同じ系列の新企業かよ。うちの会社平気か?」
「海外の売上は完全に負けているな。これは国内もやばいぞ」
同じ系列の会社が売り上げを伸ばし、一気に業界トップに躍り出た。そのとまらない相手企業の勢いに、同僚からも弱気な話が出はじめる。
「辞めるか」「若い今なら、再就職もできるしな」
そこまで話が出ていても、風間はまだ立てなおす方法があると考えていた。改善案を課長に熱く語る。しかし、返ってきた言葉は「それは難しいな」だった。
営業部にも掛け合いにいった。「何故、人事課のやつが?」と怪訝な顔をされた。
大事な意見や報告こそ、他の課とのやり取りを。桂木が前に教えてくれたことだった。
しかし、会社が傾いた頃には、働いても無駄と皆があきらめていた。
会社が人員削減を決めた時、真っ先に辞めさせる対象となるのが、パートやアルバイト、契約社員や準社員といったクラスだ。準社員である桂木も人員削減の対象に入った。
「私さ。風間くんが、そこまで必死になってくれていたのが何よりも嬉しいんだ。雨も強くなってきたし。風間くん、今日は残業でしょ? そろそろ仕事に戻らないと。ねっ?」
「いいんですよ、あんな会社。俺もクビにしてくれたらいい」
言って「しまった」と風間は思った。いつもの桂木なら叱咤がとんでくるからだ。
しかし、今回は違った。小さな声が聞こえた「ありがとう」。桂木は聞こえるように言ったのだろうか。思わず風間は「えっ?」と問い返してしまった。
「就職先が決まったら電話する。その時は、ちゃんとおめでとうございますって言って」
そういった桂木は風間を会社のほうに振り向かせ、背中を押した。勢いでたたらを踏んだ風間は桂木のほうへ振り返る。いつも仕事帰りに挨拶をする時のように、手を振られた。
「俺から電話します! それと、桂木先輩。今までおつかれさまでした。そして、ご指導ありがとうございました」
頭を深く下げて桂木に礼を言う。人に見られていてもいいと思った。雨に濡れるのも構わず、桂木の姿が見えなくなるまで見送った。
「俺のほうこそ、ありがとうございますだ……それに、俺の気持ちも、もう決まっている」
次の日、風間は退職願を出した。誰かにクビを通告し続けるくらいなら、自分が辞めたほうがいいと思った。
桂木と別れた日は雨だった空だが、曇天に変わっていた。
「順風満帆ともいかないみたいだな。空は不機嫌みたいだ」
就職先を探さなければいけない。できたら、桂木よりも先に見つけなければ。
そして、再就職の報告をする時は今まで心に秘めていた気持ちも桂木に伝えよう。風間は社を背に、前へ進みはじめた。




